The Secret Book of Venus Book I

Faces Under Water
Tanith Lee
第三章 The Skull


 「行かないで、」彼女は引き絞る様に言った。「どうして私を残して行けるの、私の心臓をこなごなにしたいの?−殺して、どうしても行くと言うなら−息子や、私の可愛い子」
 また、夢...エウリディケはフリアンにどの様にして生きるのかを教えてくれた。どの様にして眠り、どの様にして食べ、どの様にして酔うかを。しかし、悪夢だけはついて廻った。
 「残していってしまった。母さん...すまない、けれど立ち直れると思っている。」
 立ち直れる? フリアンは一度もそれを尋ねたことがないのを思い出した。レピダスならそれを教えてくれたかもしれない。だが、レピダスの舌はすでに凍りついていた。

 部屋は細長く、低い天井からは網が下がっていた。あの後、エウリディケを抱きしめるフリアンの前に、半月のマスクを付けた男が現れた。フリアン達が言うとおりにしなければ、フリアンだけでなくエウリディケも死ぬことになると告げた。黒いゴンドラに乗せられ漁師達が住む一角の館へ連れてこられ、フリアンはこの部屋に閉じ込められた。エウリディケとは離されて。部屋の前にはたくましい胸をした漁師の少年が見張っていた。賄賂を持ちかけたフリアンに、少年は豊かな声で笑った。
 「我々は、海の底にある古代の金しか受け取らないよ。仮にあんたが持ってたとしても、どうしてマスクメーカーギルドに逆らうわけがある?彼らには力があるぜ。」
 後は少年は沈黙で答えた。そしてその目は言っていた「お前が間抜けなんだよ、俺じゃなく。」

 少年が行ってしまった後、フリアンはエウリディケを想った。今彼女はどうしているか...しかし、思いは巡る、果たして彼女はなにも知らないのだろうか、、彼女は全てをあの「マスク」の後ろに隠すことができるのだ。
 全てはカーニバル、この世界そのもの。生へのフェアウエル、墓に眠るためのプラクティス、彼女に会わなければ...

 その時あのデル・ネロの歌が調子はずれで響いてきた、窓の下には年老いた乞食の姿。乞食が袋に手を伸ばしてなにかを取り出す。そして窓から飛びこんできたのは青いカササギだった。カササギは手紙を携えてきた。その表にはメッセージ−「時間を尋ね見ろ」−とあった。フリアンがそうすると、カササギは小首を傾げた後、時刻をさえずりで正しく答えた。フリアンがその意味に気がついて手を伸ばした瞬間にカササギは飛び去った、乞食の元へ。
 「シャーキン!?」
 何故彼が?ここで何を?フリアンは手紙を開けた。手紙には、フリアンを見つけるためにギルドを見張っていたこと、メッサリーナが今日死んだこと、そしてフリアンは今深く巻き込まれているが、いつか全ての謎を解けるかもしれず、このままシャーキンは見守っていてることが書かれていた。そして手紙は、この手紙を離さず持っているようにというメッセージで結ばれていた。
 窓の外の乞食は...去っていた。
 
 ドアは再び開き、半月のマスクの男・ルナリオが入ってきた。男はフリアンにレピダスの葬儀のためにギルドのモスレム(寺院)がある島に出かけることを告げた。エウリディケに会いたいと尋ねるフリアンに、男は、彼女は喪主として忙しいし、彼女の身は安全であると答えた。そして、殺人の嫌疑は誰にもかかりうるが、フリアンもその例外で無いことを告げた。司直の捜査のことを尋ねるフリアンに、男はギルド内部のことはギルドが裁く権利を持つと答えた。
 エウリディケは全てを知っていたのだろうか?彼女はそんな単純ではない。彼女は盲目でも耳が聞こえないわけでもないのだ。だが...フリアンの中で問いが交錯した。

 都市の光が遠ざかって行く、サンタ・ラーラ島からは鐘の音。黒いかもめがまるで船を守る様に飛んでいた。その船はカローンの渡し船、葬儀の船。10メートルあまりの船体は暗い闇色に塗られ、舳先には真鍮の星が取りつけられていた。そしてデッキの上。黒いたっぷりとした布でできた天蓋の下には棺が置かれていた。漕ぎ手は黒い服を着けた髑髏のマスクの男達。フリアンは船上で、レピダスに聞かされたアマリスの地でのオリカルチの話を思い出していた。オリカルチにささげる犠牲は皮を剥ぎ、脳味噌を取り出す。レピダスはフリアンを怖がらせるためにそんな話をよくした。結局それは、レピダス自身にとってオーメン(予兆)となったわけだ、フリアンは思った。

 そしてエウリディケ、彼女は棺の側に半月のマスク、ルナリオと共にいた。黒いドレスにシンプルな白いマスク、髪には銀のパウダーとオパールの飾り紐、彼女は何の動きも見せなかった。フリアンの側に寄ろうとも、フリアンに話しかけようとも。今夜のラグーンは静かだった。波一つ立てない黒い面の上を船は進む。フリアンは頭の中でエウリディケとともに逃げられる機会を探った。もし、逃げ延びて他の船に拾われれば...フリアンは再びエウリディケの方を振りかえった。彼女は人形の様に座っていた。しかし、ルナリオはこちらに歩いてきた。
 「くつろいでいるかね」
 「いいや。誰かがそう期待しているとでも?」
 「いや、これから数秒後、君はよりくつろげない状況になるのを嘆いていただけさ」
 二人の男の手がフリアンを捕まえた。
 「抵抗しない様に。騒ぎ立てれば彼女に水の中へ入ってもらう。彼女は泳げないんだ、知っていたかい?」
 彼は男達の手に身を委ね、彼女を見た。
 ほんのわずかなマスクの傾き、それが全てだった。視線を合わせることも無い。やはり、彼女は知っていたのだ、フリアンは思う。肉の喜びに満ちた昼と夜、それが彼女の望んだ全て。彼女はそれを得た、そして今度は俺は奴らのえさだ。フリアンは錘を付けられて船の縁まで来た。
 「錘は君を水底まで連れて行ってくれる。きっと面白いものをたくさん見せてくれると思うよ」
 フリアンはルナリオにののしり返した。男達がフリアンを持ち上げた時、フリアンは彼女に何かを叫びたかった。けれどフリアンの喉からは何も搾り出されなかった。夜が、景色が一回転し、準備のできる前に彼の体は水面を打った。誰も彼のために祈るものはいない...

 最後に大きく息を吸い込んだとき、夜と水と、そして死が彼の頭を覆った。


 水は黒く、冷たかった。フリアンは沈んで行く、光が届かなくなる水底深くまで。吐き出すの息の泡だけが銀色に光る。

 その時、灯りが見えた。
 何かの影がフリアンに迫る。抗うフリアンから最後の息がいくつもの泡になってこぼれでて、水が肺に流れ込んでくる。

 だが、彼は息ができた。水の中で。

 フリアンを押さえていた影は、その手を離した。3人の襤褸のマスクを付けたダイバー、そしてその一人はあの漁師の少年。彼らは二つのガラス玉を携えてきた。その内一つは、その中に緑の炎が踊り、辺りを照らしていた。そしてもう一つはフリアンの首の上、中に空気をためたそのガラスは首のところで皮紐を使って括り付けられていた。彼らの一人が指を指してついて来いと示した。フリアンはその緑の光が照らす先へ沈んで行った。

 魚が近づき、輝いて通りすぎる様は、まるでクリスタルか蝶。海草が広げる長いカーテンで仕切られた通路を抜けると、燐光に照らし出された塔が見えてきた。海草によって緑に彩られた姿は、地上のいかなる塔とも比較にならぬほど。泳ぎ進むと、高い壁に囲われた燐光に輝くアーチが、そしてスフィンクスを頂く柱が姿を表した。崩れかけた建物には、ラティスがはめ込まれた窓、そしてレース模様を彫り込まれたバルコニー。海草はバーナー(旗)となって揺らめいていた、時にターコイズ・ブルー、時に灰緑色に。

 少年はフリアンの肩をたたき、上へのジェスチャーを示した。ダイバーは、一人、また一人と水面へと上がって行き、フリアンもその後を追った。
 「命を救ってもらって感謝したい。だが、何故助けた?」
船上でフリアンは漁師達に尋ねた。
 「あんたが陸の人間だからかな。まあ、こうわしらが思ったと考えればいいさ、あんたはまだ死すべき運命ではない、少なくとも麗しの国、海ではね。」
 笑う漁師達、一人少年が真剣な表情で次のもぐりは長いものになるから息を整えておくようにと警告した。
 そして再び水底へともぐった。

 ラグーンはその色を青く青く変えていった。そして、海の下の宮殿。列柱の上の神像や英雄達、石は歳月によって半ば溶けていた。自分ははこの視界をいつか思い出すことがあるのだろうか、フリアンは思った。ダイバー達はその宮殿の上を通りすぎ、海草のカーテンを抜け、暗いトンネルへと入り込んで行った。そして、フリアンも。

 上っていく。傷一つ無い黒い水の天井を破って水面に出た。先に上った少年がフリアンに手を貸し、濡れた石の上に体を持ち上げた。
 「ここは何処だ?」
 「古のドーチェ達の墓、その天井さ。」
 少年は十字を切って彼らがここから水葬にされたのだと告げた。
 「サン・フーモ島。」
 「そのとおりだよ、だんな」
 他の男達も次々に上がってきた。漁師たちは、この上から地上へのドアは開いていること、フリアンの知るマスクメーカー・ギルド人間は全てこの島におり、その教会はここから1〜2マイルであること、そして、彼らはフリアンが死んだと思っているだろうことを語った。
 「都合の良いことにな」
 フリアンは答えた。
 「だがそこにはあんたのレディーがいる。」
 フリアンは一瞬寒さに震えた。このまま立ち去ってしまうこともできる。たぶんそれが最良の道だろう。だが...
 漁師たちは次々と帰って行った。しかし、少年は一人残っていた。
 「どうした、このコートでもほしいのか」
 「とっときなよ。夜は寒いぜ、あんたはすぐにでも服を乾かさなくちゃならないだろう。」
 「良心的だな。」
 「姉さんが(猫のマスクの少女)言うんだ、あんたのレディーは座っては立ち、立っては歩き、また座り込むそんな繰り返しなんだと。司祭が来たときも追い払い、何か書いて、そしてギルドの連中からは隠しているんだとさ。」
 「彼女は私のレディーではないさ。」
 「そうかい、じゃあ今の彼女には何にも無いということだ」
 少年は大きく息を吸い込むと水の中に消えた。
 地上へ昇ると、ドアはわずかに開かれていた。フリアンが2、3度押すとドアは開いた。そして夜の風景が広がっていた。糸杉の丘、そこここにある彫像、まるで幽霊のような寺院。2マイルほど先の丘の上には、空が真っ赤に染まり、煙が上へ立ち昇っていた、天国への長い道。
 フリアンは行き先を決めなければならなかった。
 彼女の元へ戻るのでないとしたら、一体何処へ行くのだろう?


 死の島、まさにそこには全てに死が満ちていた。果てしもなく続く墓地、全ては漆黒と藍色に沈んで、所々に地獄への業火が朱色に踊っていた。
 フリアンも木の下で火を起こし、全裸になって服を乾かした。炎を見つめるフリアンに、エウリディケの肢体が浮かぶ。白い手、やわらかな胸、そして彼女の顔。それと同時に、別の声も木霊した。

 このまま捨ててしまえ。
 あの女の周りにはおぞましいものだらけだ。
 このまま、炎に焼かせてしまえ、このままあの女を行かせるんだ。

 何かが動いた、ねずみ?しかし、それはブーツを履いていた。木々の影に隠れたフリアンに男の声が聞こえた。「隠れたる友よ、出てきたどうだ。」 男の肩には青いカササギの姿。
 「こんなところにいるっていうことは、何か役に立つためだと期待して良いのかな」
 「わしを何だと?お前の聖者か? もちろん役に立つとも。お前のためにこの年寄りの乞食が何をもってきたか見るがいい」 シャーキンは、食べ物とブランデー、そしてワインを広げた。
 食べながら、シャーキンはカササギが渡した手紙が見えない目印となっていて、それで追ってこれたこと、カローンの船が出た後、小さな漁船に乗ってこの島に来た事を告げた。

 「奴らが何か船から落としたのを見なかったか?」
 「船は遠かったからはっきりとはしないが、確かに。もしかしてあれはお前か?」
 「俺だよ」
 「何故奴らはそんなことをしたんだ?」
 「あんたとは違って、奴らは俺のことはどうでもいいと思ったんだろう」
 「やつらは、お前を憎んでるさ。疑いもなく。だが、お前がまだ殺されなかったということから、奴らはお前を捕らえておきたかったと思ったんだが。奴らは、お前に仲間になる様に言わなかったか?」

 何故知っていると問いかけるフリアンに、シャーキン自身も錬金術師ギルドに属しており、ギルド同士と言うのは何かと情報が流れて行くものだと説明した。そして、エウリディケが石の顔を持つのは本当かと尋ねた。
 「顔だけでなく心臓もだ。」
 「またふられたか」
 「彼女は俺を望んでたさ、十分にな。だか俺が溺れている時、極上の日曜の朝みたいな晴れやかさで座ってもいたぜ。」
 「わしにはだいぶ見えてきた。だがまだ全部ではない。」
 フリアンが、ギルドが殺人を請け負い、そのためにあのマスクを作ること話すと、シャーキンはそれがギルドの中でもごく限られた3,4人程のメンバーの中で行われていることを告げた。そして、自宅のマジックサークルの中で行ったデル・ネロのマスクの魔術儀式で見た男、怒りの獣で示されていた男について尋ねた。フリアンはそれがレピダスであったことに気がついた。そして、彼が顔の皮をはがされて死んだことを告げた。

 「そして次は俺の番というわけだ。だが彼女はそれを知っていたに違いないさ、そうでなければまったく気にしなかったんだろう。」
 フリアンの声は森の中で大きすぎるほど響いた。
 「あいつはただ俺が投げ込まれるのを見てたんだぞ。確かに彼女はしゃべれない。だが、声を出すことはできる。俺は彼女のベッドで何度も聞いたさ。だが何一つ上げなかった。身じろぎさえしなかったんだ。」
 「まあ座ったらどうだ。」
 シャーキンはフリアンにどうやってこの島にたどり着いたかを尋ね、フリアンはそれに答えた。逆にフリアンがシャーキンにここに来たボートがまだあるなら、ここから逃げられるかと尋ねた。
 「それがお前の唯一の選択かな。」
 シャーキンはエウリディケを捨てて行くのかと尋ねた。そして、彼女は確かにフリアンが溺れる時何も示さなかったかもしれない、しかし、彼女がショックで凍りついていたとしたら何が示せた、とフリアンに問うた。そして、船上に残った彼女がまるで死に赴くような足取りで歩いていたことも。
 「たぶん彼女は疲れてたのさ。何にも起こらない夜に飽き飽きしてね。」
 シャーキンはそれでも、フリアンが間違っている可能性があることを語った。彼女の心臓はその顔とは違って、ガラスであったかもしれないと。
 「想像してみろ。彼女はギルドに囚われて、お前が死んだと思っている。彼女は涙を流すことができない。そして、お前がここに座って逃げ出す手立てを話している...」

 夜の島を歩きながらシャーキンはフリアンに渡した手紙を返すように言った。ドロドロになった手紙を返しながら、フリアンは自分がシャーキンの言葉に動かされたのか、そしてシャーキンの目的は何なのか自問しつづけた。

 夜明けが近づき、朝もやが紫に染まっていく。ゆったりとした丘には木々が連なり、秋の草は明るい茶色に染まっていた。そして寺院のドームはその中を太陽の卵の様に金色に輝いていた。進んで行くシャーキンにフリアンがこのままいくのかと尋ねた。フリアンにとって有利なポイントは、彼らがフリアンは死んだと思っていることだと告げると、シャーキンはそれはどうかなと答えた。そして他に忍び込む道がない以上、正面から訪ねていく以外に方法がないと告げた。
 女が近づいてきた。血の赤をしたドレス、そしてあの黒の幻想に満ちたマスク。シャーキンはコミカルなウサギのマスクを付け、気の狂った道化師ディアーノがついて来てしまったと言えとフリアンに言った。

 女、カリプソはフリアンの胸に手を当てると尋ねた。 
 「あなたなの?」
 「誰だって」
 「急いで中へ入らなきゃ、外は好きじゃないの」

 カリプソはフリアンの腕を取り、寺院の入り口へと導いた。そして、そこにはあの半月のマスク、ルナリオと数人の男。ルナリオは遅かったことでカリプソを叱った。
 「死から戻ってこなければならなかった。」
 フリアンの問いにルナリオは笑って答えた。
 「だが、それがウソだと知っているのだがね、フリアン」
 「私は溺れることになっていたのだと思うが。」
 「いいや、まったく。ダイバー達は雇われたとおりに君を助けたさ。そしてあの墓を通ってこの島にたどり着くように。そして君は逃げることもできたし、ここへ来ることもできた。が、とにかく君は遅れたよ。君が最後だ。ところでそれは誰かな?」
 フリアンは気の狂った従者だと説明した。フリアン達は部屋に通されそこで待つように言われた。棒を持った男が一人見張りに残ったが、カリプソもまだ残っていた。そして、フリアンにこのマスクを通すと何かが見えること、例えば爪を持つ顔のないもの、そんな事をささやきかけた。その瞳は燃え、憑かれて、何も見ていないかのようであった。

 棒を持った男がシャーキンをからかい、殴ろうとした時、フリアンは思わず、男を殴り倒していた。
 そして声がした。振りかえると狼のマスクを付けた男。
 「一瞬でもお前を一人にしておくわけにはいかんな。びしょぬれになって少しは冷静になったか?」
 「とんでもない。」
 がっしりとした体格、何処かで見たような。
 「お前はここに来た。たぶんあれのためだと思うが」
 この豊かな声、知っている...
 「だが、ここへたどり着く予定になっていたのだろう、私は」
 「あれを想えば、追ってここに来るさ。単純なことだ。今のところお前は私をがっかりさせてはいないようだ。」
 「さもなくば溺れていたのだろう。」
 「前もって警告したはずだぞ、フリアン。ギルドのイニシエーションには苦難が待ちうけているとな。まあ今までのところはところは上手くやっているようだ。」
 フリアンは息を呑んだ。
 「溺れたのはイニシエーション?」
 「その一部だがな。まだあるが、今は休息をとることだ。話さなければいけないこともある。」
 フリアンを促す様に差し出された手には、黒い指輪、それはレピダスのもの。
 そして男はレピダスの声を持っている。

 「今は私と一緒に来てもらおう。なんのトリックも罠もなしだ。娘が、小部屋でお前を待っている。」

 フリアンは、レピダスの身代わりに殺された男は誰で、なぜ顔をはいだのかと尋ねた。レピダスは、男は自分と体格の似ているただの男で、顔をはいだのはオリカルチの習慣だと答えた。男は顔をはがれる前に、振舞われた晩餐とワインで幸せに眠りについていたとレピダスは語った。
 「お優しいことだ。すると、ジュゼッペの場合も同様かな。豪華な晩餐、そしてワイン、彼がオシリスの死の宮殿に赴く前に、10か、11かの肉片に切り刻まれる前に。」
 「もちろん、11だ。あの場合は事態を隠し、警告するために急いでいたからな。ただもちろん全ては儀式に沿って行われた。我々にとって儀式と言うのは重要なものだからな」

 何故この様に手の込んだことをするのかと尋ねるフリアンに、レピダスはお前で楽しむためだと答えた。そして、フリアンが自分の可能性を見つけておらず、錬金術で鉛を金に変えるためには、まず鉛を柔らかくするように、そうする必要があったとも。

 そしてドアにたどり着いた。
 「フリアン、まだ話すことがたくさんある。お前は驚くだろう。だが今は、お前の愛しいものの所へ行くがいい。」
 ドアの向こうは、祈りをささげるものたちの小さな部屋、美しいマリアのイコンが飾られた。エウリディケはまだ黒いガウンを着、髪にオパールの飾り紐をつけたまま、木の椅子に座っていた。彼女は触れられぬもののようであった、まるでマリアのイコンのように。

 そしてレピダスは振りかえって語り掛けた。
 「さて、ドクター・シャーキン、恋人達を再会の場に残していきませんかな。たった一時間だが、それでもかれらのプライベートだ。」
 シャーキンは背を起こし、答えた。
 「何故我々のギルドではなく、マスクメーカーギルドに加わったのかな」
 「私は錬金術師ギルドには普通過ぎるからでしょうな」
 「何もできずに加わるものもいるが、あなたなら相当のことができように」
 レピダスがシャーキンに死を与えることを告げると、シャーキンは死は誰でも訪れるもので、それより、その儀式の力が見たいと言った。レピダスは丁寧なお申し出故、考慮しようと答えた。そして、ドアは閉じられた。

 フリアンは語り掛けた。

 「尋ねることがある。首を縦か横に振って答えるんだ。もし振らなければ、そのままにしていいさ。もちろんどう示そうとも、それは疑いもなく嘘だろうが。それでも、君からそれが欲しい。真実か嘘か、君がそれを告げるのが見たい。
 何故なら君こそが俺の苦悩の全ての理由だからだ、そしてこの物語り全ての悲哀の。違うかい、我が石の人形姫...」


 エウリディケは頭を上げた。彼女は立ちあがり、フリアンは身を引いた。彼女はそれ以外の何の身動きも見せなかった。ただおろされた腕、彼女の目、顔、それはまさに人形。
 「そうだ。それでは、イエスかノーかだ。男が君の部屋の床に倒れていたとき、つまり、彼らが殺して顔をはいだ男だが、それがレピダス、君の父親ではないと知っていたかい?」
 彼女は首をすぐに左右に振った、つまり「否」
 つまり、これが彼女が望んだゲーム。
 「ありがとうマダム、君の輝かしい最初の嘘に。」

 彼女は何の動きも見せなかった。彼はすでに彼女の否定を信じないと告げていたし、たぶんそのことが彼女の秘めたゲームへの楽しみを増していたのだろう(彼女はいつもフリアンを笑っていたのだろうか?ベッドに横たわっていた時も?いいや違う−彼女の体は嘘をつけない、少なくともたった一つの場所は)。
 「それでは次に教えてくれ。奴らが私を投げ込んだとき、私は実は助かるようになっていたと知っていたかい」
 彼女の首は横に振られた。明白な激しい「否」。フリアンは微笑みながら言った。
 「それでは何故、もし知らないのならば、警戒するようなサインを示さなかった。それともこうかな、君はショックと痛みで良心をなくしてしまったと」
 けれど彼女の首は横に振られた。
 「君はあまりにも無力で、動こうとしなかった。そのあまりの嘆きに打ちのめされて、二つの死、彼と私の喪のために座っていたわけだ。」
 その時彼女の手が持ち上げられた。まるで何かをつかむかのように。しかし、そこにはなにもなく彼女の手はしだいに下ろされていった。そして彼女はゆっくりうなずいた、「Yes」と。
 「かわいそうだな、心で泣くことすらできない。私を、君の偉大な愛を失って。」
 フリアンの血が燃えた。彼女を殴りたかった。彼女をめちゃめちゃになるまで打ち据えたかった。

 「何て女だ、君は全部知ってたんだ!レピダスが依頼によって、楽しみのために人を殺すのを。君のリッチなパトロン−マスクをオーダーするほど愚かな、そして私を脅すためだけに一人の男。そして君だ。君はディアナの祭りにいた、そして彼がメッサリーナに何かおぞましい罠を準備するのを見ていたんだ。どういう方法か、奴は君を通してそれをするんだ。だがどうやって?奴は何をするんだ?けれど、ペンと紙がなければ君は伝えられない。もしあったとしてもそうするかは疑わしいがね。」

 彼女は椅子に座り込んだ。
 片方の手は肘掛の上、顔はその上に伏せられた。

 「君を悩ましたようだ。すまない。だが我々はそんな関係だった、違うかい。そして、それでも私は君のためにここへ帰ってきたんだ。私は逃げられたんだろうか、たぶんだめだろう。シナリオは濃く練り上げられていた。私にはこの島にある木ですら、信じることができない。」
 フリアンは背を向け歩き出し、ドアの前で立ち止まった。そして吐き出すように言った。
 「おびえなくていいよ、エウリディケ。君を傷つけたりしない。君は私が思っていた以上に巧妙だな。私はいまだに君に捕らえられている。私は君のものだ。価値のない贈り物だと知ってはいるが」

 しばらくした後、彼女の衣擦れの音が聞こえるまで、フリアンはエウリディケがそばによってきたのに気がつかなかった。彼女は彼の手を取り、彼の胸に頭を持たれかけた。
 「やめよう、エウリディケ。私はすでに君の虜なんだから。これ以上君のゲームはしない。戻っていすに座ってくれ。」
 彼女がいってしまった後も、彼女の体温と、香水の香りと、彼女自身が残っていた。フリアンは見ようとはしなかったが。

 鉛は柔らかくなったが決して金にはならなかった。彼らがフリアンに失敗すれば、フリアンは死ぬのだろう。フリアンはそうなると知っていた。
 彼の人生の暗黒は遂に彼をここに導いた。18の時、彼が父の家を出たときから、彼はここに至る道にのっていたのだ。フリアンは他の100もの方法で死んでもおかしくはなかった。ナイフで、病で、時には数度であったが飢餓で。しかし、運命は彼をここまで連れてきた。死の島、ここで死すべくように。運命は一つの詩であった。

 一時間が立つと、ドアは開けられた。

 雄牛のマスクをつけた男によって、フリアンは別室に案内された。そこには湯浴みと着替えの用意がなされていた。雄牛のマスクの男が髭を剃ろうとし時、フリアンは断ろうとした。しかし、男は次のために必要なことだからと続けた。食事が用意され、ワインが並べられた。
 昼が刈り集められ、夜に向かっていた。暮れかけた太陽は、寺院の高い壁のスロットから黄金の枝葉を生やしていた。

 一羽の鳥が横切った。シャーキンのカササギだろうか。
 髑髏に対するシンボル、永遠に終わることのない存在と再生。
 ヴァージンバード...処女宮...


 待つ時間に比べれば、夜は一時にやってきた。
 彼らはもと来た道にフリアンを連れ出した。
 空は漆黒の藍、そして昇る月。青白く、華奢でか細い、優美な娘。
 その光は、墓を獅子の像を照らし、影を落としていた。

 レピダスは部屋にいた。寛容に満ちたホストとして立っていた。彼もまた素顔。もしかすると、この役を演ずるのに特に興を覚えたのかも。彼の顔には、身につけたそれらしい、見下していながらそれでいて叔父ののような魅力があった。

 「フリアン、席につきたまえ。このワインはどうかな。」
 フリアンは一口飲み干し、グラスを置いた。
 「お前にはある出来事を伝えねばならぬ。ギルドのことに入る前にだ。」
 「それで、次は何だと。火、大地、それとも大気か?」
 「そう単純ではない。もしできるなら、ラグーンのことを水の元素としてではなく、液体として考えて見たまえ。移ろいやすく儚い、ネプチューンとして。お前に残っている試練は後一つだけだ。お前はそれに煩わされないかもしれない、それを気に入るかも、いずれ分かることだ。」
 レピダスは席につきワインを注いだ。
 そして、フリアンに家を出た理由を尋ねた。
 「コンプレックスと反抗つまらない話さ。私にはあなたほどの話の才はない。あなたを退屈させるのはやめにしておこう。」
 「それでは私がはなしてやろうか、フリアン。私が。お前自身の物語を。」
 フリアンは沈黙を守って、待った。
 「一度か二度、子供のお前に会ったことがある。お前はその年にしては印象的な子供だった。お前の音楽の才はいまだに覚えている。」
 「恥ずかしい話だ。」
 「だが、お前は私に対して素直ではなかった。」
 「そうか?良く覚えていないが。」
 「そうだろう。細かなことだ」
 「確かに必ずしも話を聞いていなかった。」

 「あの夜だ」 レピダスは言った。
 「お前が18で家へ帰ってきたばかりの時、お前は向かいのテーブルの娘の胸に見取れていたろう。」
 フリアンは苦笑しながら言った。
 「ああ、そのことは覚えている。」
 「もちろん、お前は若く、一人暮しだった。そう考えれば、私はお前にしたことは誤っていたのだろう。」
 「何をしたんだって?」
 「ついにお前の興味を引けたようだ。喜ばしい。ばかなことをしたのだ。もしできるなら、女がやりそうなことだ。お前に小さなスペルをかけたのだよ。」
 フリアンの喉が引き絞られたが、飲み下すことはできなかった。
 「あなたを愛するようにか。」
 「それはたぶん思わなかったろう。フリアン、フリアーノ。お前を若さの中で味わうこと。もう一つと比べれば喜びがあったろう。だが違う。愛ではない。」
 フリアンは黙ってその続きを待った。肺が心臓が激しい鼓動を彼の中で奏でていた。
 「私がアマリスのオリカルチやアルゲンティの地にいた時、」
 レピダスはいすに深く寄りかかりながら続けた。
 レピダスはその地で、狡猾で放浪する部族から魔術を学んだこと、そしてその中に相手を狩場や女、そして親族から追い払う魔法があったことを語った。間を開けたレピダスにフリアンが叫ぶ。
 「それで、一体何から私を遠ざけたんだ!」
 「人生だよ。その満ち足りた幸福にだ。そういったものに堪えられなくし、他のものを求めるようにした。まあ、冒険のために私を追い求めるような想いも少し加えたがね。私はお前に私が見た世界を見せたかったのかもしれん。だが、お前の情熱は私の予想より遥かに大きく、私の手から飛び出しっていった。お前は全てを投げ捨て、闇の中へ走り込んでいった。」

 フリアンは目を逸らした。彼は自らの過去に目を向けた。父の館、蝋燭が燃え尽きる階段、青白い羽が羽ばたき降りる場所、そしてベヌスへ。一つのステップから次のステップの間、何て一瞬の。
 だが、レピダスはそれが全てできたというのか。フリアンは乾いた声で答えた。
 「それ以後、私はあなたのすることを全て信じるようになっているのだろう。あなたは驚かせてくれるよ、レピダス。私はあなたをただの気障な伊達男だと思っていた。」
 レピダスはお辞儀をして言った。
 「もちろんお前には信じない自由がある。だが、あの夜以来、お前は私の手のひらの上にいたのだ。私が見ていようとも、私が忘れようとも、お前は私のものだったのだ。お前は私が作り上げたのだよ、フリアン。その役者のような名前すらもな。」
 フリアンはグラスを取り、ワインを啜った。レピダスは、観察し、楽しんでいた。たぶん、もしくはその振りをしていたのだろう。

 レピダスは再び語り始めた。デル・ネロのマスクをフリアンが拾うという運命さえも、練り上げられたシナリオにそって編まれたようだと。まるで、犬が主人の臭いに引かれるように。自分は犬ではないと言うフリアンに、レピダスはそれではお前は自分の運命の主人なのかと問い返した。そしてシャーキンを生かしておいて欲しいと頼むフリアンに、レピダスは彼は死なねばならぬと応じた。愚かではあっても、その頭の中に危険な知識が詰まっていると。再び頼むフリアンに、レピダスはフリアンこそ自分の後継ぎであり、娘を取り、ギルドの中の地位を得るのだと語った。

 「だが、あなたの娘は欲しくないんだ」
 レピダスはフリアンを射すくめて答えた。
 「理解しなくてはいかん。娘の家の召使達にも私のために働くものがいる。お前の頭に靴を投げつけた少女を覚えているかね(猫のマスクの少女)。」
 フリアンは立ちあがって叫んだ。
 「全て見張っていたのか!」
 「他に何か? お前達の睦言は実に魅力的だ。お前達はお互いのために作られたのだ...たぶん私によってな。音楽家は娘を愛したが、あれは優しくしただけだった。お前はこれがどれほどぴったりなのかを理解していないだけだ。娘に対するお前の憎しみ、愛、嫌悪、不信、そして怒り。」
 「まるであなたの心の中のようにか。失礼、あなたを推し量りすぎたか。」
 レピダスは大きく笑った。
 「これで、そんなにわかってしまうか。」
 「どういう意味だ?」
 「それでは話しておこう。あれが15歳の時だった。自分のものにしたよ。」

 パニックがフリアンを襲い、声はひび割れた様に響いた。
 「お前は自分の娘とやったのか!」
 「3、4回か。娘にはうんざりしていたのだが、それでもあれは瑞々しく、柔らかく、なかなかそそったよ。」
 フリアンの心の中で、あの怒りの獣が見えた。陽根に逆刺をつけた獣が。
 「お前はあれがそれを好んだかどうか知りたいのだろう。どうやったらわかる?抵抗もしなかったし、誘いもしなかったな。そして当然、傷みかエクスタシーを感じたとしても、泣きも、嫌がりも、叫びもしない。その後、あれは書いたものの中では、一度もそれに触れなかった。」
 フリアンはワイングラスを取り上げ、床にたたきつけた。
 「あなたは彼女を自分の娼婦としたわけだ。そして他の男達への。デル・ネロと他に誰だ?そしてあなたは女達と寝ていた、メッサリーナのような。」
 「男も一人か二人いたな...まあ、お前も分かったようだな。そうだ、フリアン。セックスは彼らになしたことの重要な部分だ。お前もわかる通り、これはお前にかけたような小さなスペルではない。殺人のアート(技)なのだ。」

 エウリディケ、娼婦にして共犯者。もしかすると自ら望んだ父の愛人。たいしたものだ、吐き気がする。レピダスは満足そうにワインを飲み干した。
 その時炎の風が部屋を駆け抜けたような気がした。しかし、それは行ってしまった。
 そしてノックの音が。
 「さあ下におりて、儀式を終えることにしよう。」
 「ああ、どのみち私に選択はないのだから。」
 「やり方はその時になったら教えよう。だがお前が主役だ。」
 フリアンは18の少年の様に自分の気持ちを爆発させた。
 「私を信用するなよ、レピダス。決して。今は従って、私の位置を占めてやる。だが、いつか、いつの夜か決着をつける。」
 「その時を待ち望んでいるよ。お前と私の小さな信頼か、興をそそられることだ。」

 フリアンはレピダスとは別れて雄牛のマスクの男に付き添われて階下に赴いた。

 教会のホールはは完全な円を描いていた。壁は黒大理石でふかれ、覗き窓の間からはその大理石よりも暗い夜がのぞいていた。そして床は磨き上げられた黒曜石。そして壁に沿った円形のテラスからその床に階段が下りていた。全てが黒の中、このホールを取り巻く様にしてテラスの上から炎があたりを照らし、その姿を上に、下に赤く映していた。
 
 そしてその床にはタイルによって象眼された線が走っていた。その形は正方形、そして魔術的にも、錬金術的にも、その四隅は正確に東西南北の四方を指しているはずだった。そしてそれぞれの四隅の指すテラスには黒大理石の塊の椅子が置かれていた。

 何もないフロア−、そこには3人の人影。
 一人はカリプソ。黒の幻想のマスクと緋色のドレス。もう一人、20フィート(6メートル)ほど離れてエウリディケの姿。彼女はまるで処女のような白いガウンとコルネ(円錐の帽子)から垂らされた蒼い霧のようなヴェール。そして額にはダイヤモンドがきらめいていた。ヴェヌスの星。彼女はマスクを付けていなかった。しかし、それは仮面であった。最後はシャーキン。フロア−の中央に座り、まるで自分が演じた道化の役になり切ったよう。そのダイスを投げては拾い集めるのみ。サッチェル(肩掛け鞄)を取り上げられたシャーキンはまるで無力であった。

 見上げると、自ら入ってきたドアはすでに無かった。そして炎に目が慣れてくると、天蓋の内側には金色の線によって黄道12星座が描かれているのに気がついた。神々は戦車を駆り、ユニコーンとドラゴンは動き出すかのようであった。フリアンはエウリディケに目を移した。彼女は身動き一つしなかった、フリアンに気がついているのかもしれないが。彼の目は左に移った。カリプソはいつのまにかその緋色のドレスから重い胸があらわになっていた。彼女はそれに気づく様子も無く、フリアンを認めると叫んだ。
 「やつらに気をつけて!そいつらは射すのよ!」
 フリアンは頭の何処かで思った。”彼女の胸、そう、あれは射すだろう”、かれは自分の手でそれを握り締め、その先を弄ぶ姿を思い浮かべた。そして...しかし、彼自身の声が頭の中で響いた。レピダスはあのワインに何を入れたんだ。

 運命的な音がホールに響いた。それはドラムの音。一つ、また一つ。重ね合わされる音はやがて心臓の鼓動となった。そして四人の人影がそれぞれの四隅に現われた。見えぬ入り口を通って。人影は全て裸体であり、筋肉の盛り上がった肌のありとあらゆる毛は剃られていた。
 四人はマスクを付けていた。一人は鮫、もう一人は白熊、3人目は蝙蝠、4人目は狼。彼らは椅子に歩み寄り座った。動物のデーモンの顔をした生ける彫像達。

 狼の頭からレピダスの声がした。ほとんど囁きのような響きをホールは良く伝えていた。言葉はラテン語で、フリアンには理解することができなかった。しかし、何が望まれようとも、フリアンにはそれに従うしかなかった。これこそが彼が長年自身の死の願望と取り違えていたものであったから。昼となく夜となく、彼はレピダスに調整されつづけていたのだ。もし、彼の意思に従わなければ、フリアンは殺されていただろう。だが、今夜フリアンは全てを失ったのだ。そして彼女は笑っていたのか?彼女のベッドに鎖で連れてこられた奴隷。欲望が貫き、フリアンはレピダスの様に突起した。

 ギルドの教会の守護者達が立ちあがり始めた。微かに見えるのみだが、赤く渦を巻いた祖霊への炎。ドラムと心臓が同じリズムで鼓動を奏でた。新しいチャント(霊歌)が、遠く、遠く大陸を越えて届いた。炎なかに羽が見え、黒とコバルトブルーとクリムゾンに塗りわけられた男の顔が浮かび上がった。羽を持つ男、下半身は牡鹿。外からの物、The Enemyと呼ばれたもののイメージ。

 カリプソは床に転がっていた。彼女にはこれがすでに見えていたのかもしれない。しかし、エウリディケは石の様に立っていた。彼女にとってこれは慣れ親しんだものだったのだろうか。シャーキンはダイスを放り投げそれを見つめていた。そして守護者達は溶け合い生ける霧となってテラスの四隅の椅子の後ろでそそり立ち、消えた。

 フリアンは真っ直ぐ見上げた。天蓋の内の星座が星が惑星がゆっくりと動き出した。戦車は転がりだし、射手はねらいを定め、水がめからは火花の奔流が注がれた。そして乙女はユニコーンに寄り添われる。

 「フリアン」
 レピダスの声が親しげに彼の耳元でした。
 「フリアン、ここへ来るんだ。最後の秘密を教えよう。そしてお前が何をしなければいけないのかも。」
 フリアンはそれに従って、レピダスのもとまで歩んだ。
 「秘密はなんだ。あなたを突き落として欲しいとか、失礼。」
 レピダスは笑った。その笑い声は蜜の様。
 「少年よ、お前にはこの魔法は破れない、力が強すぎる。我々四人がギルドを保っているのだ。ギルドを支配し、そしてベヌスそのものもだ。」
 「私はここにいる。さあ秘密を教えてくれ。」
 「忍耐だよ、忍ぶことだ。カリプソを見たまえ、彼女はまるで輝く器ではないか。」
 「だが、あなたは彼女の気を狂わせたんだろう。メッサリーナのように」
 「私ではない。私ではなく、マスクだ。」
 「そうだと思ったよ、他の者のように」
 「他の者、自らを切り刻んだ王子、首を吊ったレディー、デル・ネロは溺れ運河の底に沈んだ。メッサリーナ。彼女は狂気の中で心臓が止まった。そしてその他の者も。常にマスクだ。どのようにやったか教えようか」
 「是非とも」
 「聞き給え。数式だよ。」
 レピダスはマスクの秘密を語った。

 犠牲者の出生日、星の配置、守護シンボルや支配惑星、彼らの喜びと恐怖、そして、彼ら自身すら知らない心に秘めた事々、それら全てを知った後、マスクは作られる。それらは彼ら自身のために作られているが故に、手にとってつけてみざるを得ない。
 ところが、マスクがその肌に触れた瞬間、マスクは隠されたものを顕にする。マスクには犠牲者に反するシンボルで満ちているのだ。マスクは犠牲者の全てに反する。犠牲者の名、好み、精神。そして誤った星、誤った月齢、最悪の惑星の配置。もし彼らのトーンが甘ければ、苦く。今まで嗅いだこともなければ、見たことも無いにも関わらず、最悪のもの。そんな邪悪な影をマスクは解き放つ。
 そしてそれは彼らの心に傷を付けていく、決して見ることはできず、癒えることもない傷を。朝に夕に、昼に夜に、それは彼らの上で微笑む。壁に映る影のごとく決して犠牲者から離れることはない。時に犠牲者は己の顔ごとマスクをむしり取ろうとする。最後にはほとんどの者が。だが、何が行われているのか犠牲者知ることはない。しかし、それは犠牲者の精神に傷を刻んでいくのだ。

 レピダスは、これら全てを、血と火と蟻のイニシエーションをくぐりオリカルチの地で学んだことを伝えた。

 「カーニバルが終わるまでに、我らが選んだ者はねずみに貪り食われる様に食らい尽くされる。そして自ら死を選ぶか、朽ちていくのだ。デル・ネロ、お前の恋敵の場合、それは、娘への愛だった。少なくともそう考えたようだ。そして、それがあの男を食らい、しゃぶり尽くした。最後にあの男の体が沈み行き、肺が緑の泥に満たされたとき、マスクは初めて男から離れ浮かび上がってきた。そしてお前はそのマスクを見つけたのだ。そしてこれは私の手元に帰ってきた。まるでなくした犬が戻るようにな。」

 フリアンは何も感じなかった。彼はこのことをすでに知っていたような気がした。そう、マスク、他にあるだろうか。

 レピダスは、フリアンがカリプソを抱き、カリプソは今夜この場所で殺されるのだと言った。そして、その理由はエウリディケだと。そう、その嫉妬によって。

 「エウリディケは、この魔術全ての焦点なのだ。私はあれを私のために作った。あれはヴェヌスの鏡となり、私が放つ魔の光を彼らに跳ね返すのだよ。そのためにあれは一人一人に会わねばならかった。それも儀礼的な以上の意味でな。メッサリーナのベッドにもあれはいたのだ。あれがそれを好んだかお前はまた聞きたいのだろう。わからんさ。ただ私はあれにしなければならないと言っただけだ。」
 「ついて行けないのだが」
 「お前は分かるはずだ。お前は魔法には親しいのだからな。エウリディケは他でもないシンボルなのだ。あれの、無言の真空でできたガラス、沈黙の叫びの深淵を通る時、魔術は拡大される。
 さあ、下りてカリプソとの喜びにふけるがいい。エウリディケがそれを見る。お前とともにあればそれで十分なのだ。マスクはゆっくりとカリプソを殺す。だが今回のは一時にだ。カリプソを抱け、それで彼女は終わりになる。」
 「あなたがすればいい。それだけ興を覚えているのなら。」
 「だが、お前は従順なはずだな。従順になるか死か。それにお前はたびたび人を殺してきた。私はお前は二回試し、その度にお前が殺してきたの見た。」
 「何故、私にやらせたいんだ。」
 「私の考えを確かめるためだ。私はもう十分に殺した。マスクもだ。カリプソはお前のテストの最初になるのだ。お前は私が選んだ人間を殺す。エウリディケとお前自身の興によってだ。父よりも愛人の方が上手く行くだろう。」

 「マスクが殺す、しかし彼女無しではないとあなたは言う。それではエウリディケが、彼女が彼らを殺していると言うのか。」
 「娘か。私はあれを作り、あれを抱いた。しかし、娘は私が娘をどの様に利用しているのかを知ってはいなかった。私の欲望が全ての欲望があれの哀れな胸の中に混乱を引き起こしてしまった。混乱は吐き出さなければならん。だがどうやって?あれは一言もしゃべることはできぬし、瞬きすることもできんのだ。そんな鬱屈した感情はやがて出口を見つける。唇か目でなければ、心からだ。娘は全てを知っていたかと?もちろん知りはしない。あれは彼らに会いはしたが、彼らが死んだことすら知らんだろう。娘がいつもやってきたように離れて行っただけだ。

 だが、フリアン。お前が現われた。お前といると娘は違った。お前といれば愛と癒しによって、娘の鏡はまるで純粋の氷のように照り輝いたのだ。わかるだろう、そしてより多くの葛藤と恐怖と苦悩だ。この捩れた至上のものから出れば、死の天使その人の大鎌になりうるのだ。あれは、お前がカリプソに手をかけるの見るだけでいい。そうすればお前はこんなことにお前を引き入れた娘に対する復讐がなせるだろう。

 今は娘は、今までの自分が何で、そして今自分がなんであるかを知っている。私があれに自分が殺人者であると話したからだ。あの晩、私が部屋に入り、まだ生きていること表した昨日の事だ。娘は私が娘をどのように武器として使ったのか知っている。あれをベッドの中だけでなく、墓堀人として使ったことを。お前があの小さな部屋で会った時、あれがいつもより変であったのに気がつかなかったか?お前は何故あの部屋に紙もペンもないのか不思議に思わなかったのか?お前は娘を憎み、娘を愛しているのだ。
 下りてあの女を抱け。エウリディケはあれの生けるマスクの後ろで、泣き叫ぶだろう。そしてカリプソの脳味噌ははじける。これが、私のフリアンよ、お前の私に使えるための最後のイニシエーションだ。

 これか、お前の死か。 
 選ぶのだ。」

 フリアンは振り向き、レピダスを見た。レピダスの厚い肉体は、感情を押さえきれずにいた。フリアンは息を吸い、視線を下げた。

 「選んだ。私を殺せ」

 レピダスは不意のうねり捕らえられたように怒鳴った。

 「確かか? 確かなのか? お前が死を願うのを聞くのが、我が最上の望みだった。お前の人生を支配し、擦り切れさせるよりもはるかに。」
 「では、そうするがいい」

 フリアンは目を閉じ、火を、人影を、この黒い部屋そして魔術と混沌の全てを押し出した。
 なにかがフリアンを捕らえた。まるで20の爪を持つ手の感触のような。彼は高く高く吊るされていった。めまいが彼に目をもう一度開けさせた。フリアンは焼けた黄金の色の虫達の煮え立つ天井に吊るされていた。炎と氷がそこには同時にあった。動くことのできぬ彼は、あのドラムを聞き、漆黒と白い光、永遠と刹那への恐怖を感じた。そして最後の一吹きが来るのを待った。

 彼の頭は血に満たされ、耳にはドラムが鳴り響いていた。しかし、彼の脳と彼の心は(魂ではないが)、彼の肉体から離れていった。そして彼は、目を通してでなく見た、よりはっきりと。

 レピダスは彼の黒い王座から立ちあがり、下に下りて行った。他の獣の顔持つ三人の男達は立ちあがりレピダスの方を向いた。レピダスはエウリディケの横を通りすぎた。まるで彼女が動けない物であるかのように、しかし彼女は振りかえりレピダスを見た。
 フリアンは思った。レピダスはまた一つ嘘を付いたのかもしれない。彼女が何も知らなかったという証拠は何一つない。彼女は全て知っていたのかも、この芝居と死を。

 レピダスはゆっくりとカリプソに近づいた。彼の顕わにされた欲望を下げて。カリプソはその頭を上下に振り、彼を待っていた。その手はすでに胸に添えられ、熟れた果実を見せ付けるように持ち上げていた。

 そんな中、シャーキンは忙しく立ち振る舞っていた。彼はエウリディケを捕まえ、彼女を振り向かせ、彼を見させた。「こっちへ、こっちだ。」(フリアンにはシャーキンの声が聞こえたような気がした。)そしてシャーキンは彼女をホールの中央に連れてきた。

 「見るんだ。あれはなんだ?わかるだろう。奴を見るんだ。奴はあのまま死ぬぞ。もう一握り、息を詰まらせて。そして脳に血があふれかえって。」
 (フリアンは微かに思った、そうか、その時か。)

 エウリディケの頭が持ち上げられ、白い喉が反り返った。ヴェールがはずれ彼女の足元に落ちた。彼女の顔、その目。こうして吊られ、彼自身の体から離れていても、彼はキスがしたかった。その上向きで従順な、そして命なく歌うその口に。

 シャーキンはコートから何かを取り出し、引き裂いてばら撒いた。円を描くように。それはあの半ばとけた手紙。それらは白いサークルとなってシャーキンとエウリディケを包んだ。

 「全能なる神にかけて、そこを動いてはいかん。その中にとどまるのだ。」
 エウリディケはうなずき、フリアンを見上げた。その瞬間、鮫のマスクの男が立ちあがりルナリオの声で叫んだ。
 言葉はなにかの呪言であった。光でもなく動きでもないパワーの奔流が、部屋を越えてその紙のサークルを撃った。純白の透明な球がサークルから湧き上がり、シャーキンを、エウリディケをそれぞれ包み護った。
 「レピダス!」ルナリオは怒鳴った。他のギルドの男達も立ちあがった。
 狼の顔をしたレピダスも肩越しに振りかえり硬直した。彼の物はカリプソの緋色のスカート中に挿しこまれたままだった。
 「何故だドクター。全てが終わった後、あなたは迎えられるはずなのに」
 シャーキンは答えず、子供のような高い声で呼んだ。
 「来るんだ、今!いとしいものよ!」
 体を離れ、留まってもいたフリアンは、その頬に鋭い感触で打たれたのを感じた。覗き穴の窓から飛びこんで、床に向かってダイブする白と黒の羽ばたくもの。
 シャーキンのカササギ。
 一瞬彼の肩に止まったカササギが、舞い上がり白いサークル触れると、それは変化した。
 大きく、大きく。乙女座を示すその超自然の鳥。その嘴が人の背丈よりも高くなると、それは珊瑚の羽を広げた。所々エイリアンブルーに輝く深い漆黒の色。鋭い嘴を広げ、それは一声鳴いた。ホールその物がきしいだ。

 シャーキンはエウリディケを抱えて彼女を少し揺すった。
 「フリアンは死ぬぞ。お前の父がそうさせるんだ。そうさせたいのか?」
 彼女はただの石であった。がその時風が吹き、彼女をそよぐ幹に戻した。花の顔はわずかに横に振られた。
 「いやか?、いやなんだな?」
 今度ははっきりと顔は振られた。彼女の額のダイアモンドが高い悲鳴を上げた。コルネが彼女の頭から落ちて紙のサークルへ向かって転がって行った。燃えながら。
 「わしならレピダスがすることをできる。」シャーキンは言った。
 「わしはお前を私の鏡として使うことができる、ただし代わりにお前の父を殺すために。」
 彼女はシャーキンの腕の中で身動きしなかった。
 「お前の父はわしの道具のことを話していたが、もしお前がいればそれは必要ないのだ。だが、そうすれば、わしの全てと、エウリディケ、お前からはそれ以上を取る事になる。お前は死ぬだろう。だがフリアンは生きる。聞いてるか?フリアンは生きられるんだ。フリアンは全ての言葉を聞いているぞ。レピダスかフリアン。そしてフリアンならお前は死ぬ。
 さあ、どちらを選ぶ。」

 彼女の顔は上に向けられ、フリアンは再び彼女の顔を見ることができた。彼女の顔には何の表情も無かった。無慈悲な神が彼女をそう創ったように。しかし、フリアンには全てを読み取ることができた。嵐が彼女の中にあり、潮が争っているのを。

 フリアンの肉体が声を絞り出した。
 「だめだ!」
 しかし、エウリディケの顔は沈み上げられ、再び沈んだ。彼女はうなずいた。
 レピダスは生贄を放し、狼の顔真っ直ぐ向け、二匹の蛇のようにその目がにらんだ。
 だが、シャーキンは呟きつづけ、光のシャワーが降り注ぎ、炎は高く高くそびえ立った。カササギはその羽をあおった。
 フリアンは必死にもがき、その中に落ちてシャーキンを止めようとした。

 叫び声のような音が響いた。呪われた千もの声がその中にあった。それは耳の中のドラムを引き裂き、サークルの外はオリカルチの魔法が泡となって幾千もはじけていた。

 フリアンは見ている他何もできなかった。魔術の連鎖の中に突き落とされて、彼はエウリディケを抱きしめていなければならなかった。彼が愛した女はシャーキンの引き裂くような声の後ろでクリスタルへと変わっていった。彼女を透かして見ることさえできた。まるで薄いガラスを通して見るように。
 サファイア色の閃光が彼女の目から上へ下へ光った。突然、彼女の透けた体から四っつの光の矢が放たれた。その色は冷たく、地には存在し得ない青。光の矢の三つまでは四角形の隅に飛んで行った。そして残る一つは狼の顔した男へ。光は槍のように体を貫いた。

 空気は沸き立ち、弾けた。その赤い表面はほとんど黒くなっていった。フリアンは天井の高さを感じた。そして、落ちていった、ゆっくりと羽が落ちる様に。彼の体は柔らかく床を打った。
 
 ここからあの鮫のマスクが命を持つのが見て取れた。命を持ったマスクの口は内側に裏返っていった。ルナリオは叫び、抗った。血が噴水のように湧き上がり、鮫のマスクの歯はその口の中の顔を噛み砕いていった。また三つの叫び声。蝙蝠は自由になり、自らの下の男の顔を、目を引き裂き食らっていた。白熊は頭ごと首をねじ切っていた。そして、男の首の骨が砕ける音が耳を打つように続いた。
 レピダスは自分の膝の上で赤い狼のマスクと争っていた、自らの首を噛み裂いているそれと。

 「今いるところにいるんだ。」シャーキンの声が一マイルも遠くからのように聞こえた。
 「サークルに触るな。静かにしていろ。」
 「エウリディケ」フリアンは言った。
 「静かに」魔術師は神の声で言った。
 全ての叫び声が止んだ時、四っつのマスクの獣達は自らが作った残骸から離れた。あるものは羽ばたき、あるもの転がり、あるものは歩みながら下へと下り、黒曜石の床に溶けていった。そして彼らは、毛皮や、羽、皮、歯へとバラバラになっていった。まるで炎に炙られた鉛のように、だがそれらが黄金になることはなかった。残されたのは汚らしい残骸、命の無い。

 フリアンはカリプソを助け起こしていた。彼女はレピダスの血まみれ肉隗からさほど遠くないところにいた。
 「一人して、あっちへ行って!」
 「ああ、だが最初にこれをとってからだ」
 彼はマスクを緩めた。
 「だめ、やめてよ。わたし死ぬわ」
 「これを付け続けていれば死ぬんだ。」
 「取ればいいのよ、私の顔も一緒にはがれちゃうんだから。」
 「信用していいよ。そんなことはない」
 彼がマスクを取ると、彼女の顔は青白く、やつれていた。
 「わたし、生きてるの?」
 「生きてるさ」
 フリアンが立ちあがらせると、彼女は突然両手に顔をうずめて泣き出した。彼はジュゼッペの名前を聞いた。彼はカリプソを残して、ゆっくりとシャーキンのもとに歩み寄った。円を描いていた白い紙はすでに燃え尽きて炭となっていた。元のサイズとなったカササギがシャーキンの肩に止まっていた。
 「なぜ、彼女を使った?」
 フリアンは言った。
 「だが、あんたはこうした死は気にかけないというわけか。これはあんたにとっては科学、そうなんだろう?」
 「もし、命をすくえるチャンスがあるなら、わしはリスクを取る。生きることはリスクを取ることに値するからな。
 だが、このマスクメーカーギルドの中にできたギルドは、暇つぶしで殺す。だから可能ならここへ見に来たかったというわけだ。」

 フリアンは見下ろした。サークルの向こうにエウリディケが横たわっていた。彼女の髪は解きほぐされ、光にきらめく絹のように広がっていた。彼女は乳の白からできていた。もうガラスではなく。彼女の目のなかで青い炎がきらめいた、まるで、彼女にはかなうことのなかった瞬きのように。
 灰となった白薔薇。
 灰となった月。
 彼は跪き、彼女を抱き起こすと、彼女の顔を見つめた。
 「彼女はお前のために望んで死んでいった。」シャーキンは言った。
 「お前はこれを忘れることができないだろう。これが愛か?」

 そう、愛であった。狂気の、語ることのできぬ、定められていなかった。そして手遅れになるまで信じられなかった愛。
 「そして、彼女は死んだと」
 「首に触ってみろ、お前は何もわからんのか?」
 フリアンは指を彼女の首筋にあてた。エウリディケの鼓動がまるで蝶の羽ばたきのように微かに感じられた。だが、こうして感じている中でも、鼓動は途絶え途絶えになり、止まった。彼は崩れ落ちた。だが、鼓動はまた再び弱弱しく始まった。
 「死んでいく、彼女は死ぬんだ」
 「わしなら彼女を救えるかもしれん。お前も知っているとおりわしは腕前が良いからな。」
 「できやしないさ。あんたは彼女をバラバラに吹き飛ばしたんだ。彼女は死んでいくんだ。あんたが彼女を死から連れ戻せないといって、」
 「お前の過去を振り返るな。」シャーキンは言った。
 「お前は自分が大事にしていたものをなくした。だが全てを無くしたのか?
 最初のエウリディケの話をお前は知っているか?彼女の愛人は彼女に振りかえった。そうするなと言われていたのに。彼らは地の底から戻ってきていたんだ。彼女は半ばまだ死んでいた。彼女にはそうして男に見られるのが耐えられず、地獄へ戻って行かざるをえなかったんだ。
 もし、男が待っていたら、太陽の光は彼女を完全にしただろう。
 待ちきれん。
 男はみんな阿呆よ。」

 フリアンは彼の顔を彼女の銀の髪に沈めた。そして、思った。

 And after you darkness.



エピローグ The Heart


 1週間が過ぎた。季節は冬へと移ろいでいく。

 運河のゴンドラは今も昔も上り下り行く、時には野菜や果物と、一度は処女マリアの象徴を帯びた司祭と香の行列を乗せて。

 そして雨がもたらされた。



 彼女はベッドに横たわり、時が過ぎ行くのを感じていた。

 時に夢...

 預けられた尼僧院のこと、

 神への感謝の日々、彼女にはそれが何なのかわかりはしなかったが。

 父との出会い、

 新しい家、快適で、喜びに満ちた、学びの日々。

 そしてその終わり−レイプ



 続いたのは空白、肉に満たされた、愛の無い流れ行く時。

 その空白の中で、彼女は息をし、動いていたが、生きてはいなかった。

 それは夢。永い眠りの日々、彼が現われるまでは。

 「どなたかな、マダム」

 すでに知っていた美しい声。その時から彼女はすでに彼の一部だった。



 シャーキンが彼女にすべての出来事を語り、レピダスが死んだことを告げた時、彼女は答えた。

 「私のただ一人の父はフリアンです。彼は私の兄であり息子。もう一人の私。私には他に何もいりません。」

 「いつの日か彼も死のうに。」

 「その時は私もそうするでしょう。」

 「そんな遠い時では...いや、今ではない。先の事だ。」

 そして彼女は尋ねる。

 「いつフリアンに会えるの?」

 シャーキンは答える。

 「お前が生きていることを、奴が疑いもなく信じられるようになるまでだ。」



 時に、父の館で見たハンサムな顔を持つ女を見かけた。

 カリプソは彼女に手をやり、彼女の物語を聞かせた。


 時に、手紙。シャーキンの書いた。

 その手紙には、レピダスがオリカルチの部族で魔術を学ぶ際に、呪いをかけられたこと。

 この呪いによって、レピダスは得た力をあのように使わされていったことが書かれていた。

 手紙の最後は、危機を防いだ自分への長い賛辞で結ばれていた。

 
 ・・・・・・・


 紺碧のヴェルヴェットドレス。

 ほこりのたまった部屋には、長く使われなかったハープシコードが一つ。

 彼女は褪せたけん盤の上に指を置く。

 奏でられるのは古い、子供の時に憶えた調べ。

 自分では歌うことのかなわぬ子供の歌。


 「もし、彼が私のものなら、彼は私のところにやって来る

  もし、彼が私のものなら、私は彼のものになるの

  もし、私が彼のものなら、彼は私のものになるの」

 

 階段の音が聞こえた。

 

 向き合った彼の瞳。

 出会ったとき、彼は空っぽであった。まるで海がいなくなってしまった岸のように。

 それは彼女の持っていた長い長い空白の時と同じ。

 彼の瞳の中に彼女がうつる。

 彼女には空っぽだった岸に海が戻ってきたのが見えた。

 大いなる海の水。それは、新たな命と共に彼を包んでいた。

 そう、永遠の命。



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