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目に染みるような赤を、覚えている。 『お逃げ下さい、王子!』 『我らが敵を引きつけている間にどうかお早く!』 『生きて、いつの日か必ず正義の遂行を!』 「…………ぁっ!」 噛み殺した己が悲鳴で、アルムレディンは目を覚ました。荒い息と共に寝台に半身を起こし、一瞬の後に我に返った。目に映るは見慣れた自室、一度は追われながらも再び帰ってこられた懐かしい部屋を、例え真夜中とても見紛うことはない。 ――赤く、ない。 「夢、だったか……」 額の汗を拭うアルムレディンの唇から言葉が洩れた。その口調は普段の彼にはそぐわない、また一国の王には相応しくないほど、弱く掠れていた。 「全く、子どもみたいだな」 夢に怯えて目を覚ますなんて、と彼は続けた。己を笑って茶化すことで心の平穏を取り戻そうとの意図は、成功したとは言えなかった。 記憶を掘り返す努力なく、先程の夢は鮮やかに甦る。当然だ。同じ夢はこれまでに何度も何度も見た。夢という表現は実は正しくない。どろどろと暗い感情と共に思い起こされる過去、その記憶だ。 叔父が父母を殺し、城を追われたあの日を、どうして忘れられるだろう。アルムレディンを守るために何人もの人が死んでいき、また彼自身初めて人を殺した日だ。 忘れられる、筈がない。 流浪の日々、特にその初期には鮮やかなまま何度も夢が繰り返され、その度に飛び起きた。アルムレディンのために死んでいった人たちが、王子としての務めを果たせと急かしているように思えた。目を覚ます度に思い返す度に、苦しく悔しかった。彼らを殺した男が王として君臨していることに、敵を討てない己自身の無力さに。 簒奪者の叔父はもういない。様々な形の協力を得て、アルムレディンは己が両親を含む数多の死者の仇討ちを果たした。国内の混乱が落ち着いてきたのを待ってダリス国王として正式に即位したのが一年前のことである。その頃にはもう、あの日の夢を見ることはなくなっていた。そして今日までは、夢のことすらも忘れていた。決して忘れてはならなかったのに。 「愚かだな……どうして、忘れていたんだろう」 「――何をですの?」 はっとアルムレディンは傍らを見下ろした。深い瑠璃色の目が彼を見上げていた。 ああ彼女がいたんだ、とアルムレディンは今更ながらに思い出した。顔の輪郭が胸の奥に大切にしまい込んでいた幼い日の面影と重なる。優しい色の眼差しはあの頃とちっとも変わっていない。 「ごめんディアーナ、起こしてしまったんだね」 春の花の色した髪をそっと撫でると、ダリス王妃は「構いませんわ」と小さく微笑んだ。 「嫌な夢でも、ご覧になりましたの?」 一瞬、アルムレディンの顔が強張った。ディアーナは多分何気なく問いかけたのだろうが、顔色の変化から何かを読みとられたらしい。心配そうに眉根を寄せたのが暗い部屋の中でも見て取れた。これでは誤魔化されてはくれまい。 「嫌、と言うのは少し違うかな」 では何なのだろう、とふと思う。うなされて跳ね起きているけれど、夢自体を嫌なものだとは認識できない。嫌な夢と言うよりは寧ろ怖い夢と表現するのが近いのだが、実のところ恐怖感が酷いわけではない。かつてこの夢を見た後はいつも憎悪や後悔で狂わんばかりだったが、夢そのものはそれらの感情とは趣を異にしていた。 す、とディアーナが上半身を起こし、アルムレディンとほぼ同じ高さに視線の位置を合わせた。 「でしたら、悲しい夢なんですの?」 「……ああ」 そうだね、とアルムレディンはほろ苦く笑った。彼女の言葉は的を射ている。 「沢山の人が死んだ夢だよ」 ディアーナの瞳が翳ったのが見えた。アルムレディンは王妃から目を逸らし、立てた右膝に肘をついて顔を覆うように髪を掻き上げた。躊躇いがちな視線が頬に当たるのを感じていたが、今は構えなかった。 「僕の両親は、僕の目の前で殺された。緋毛氈の絨毯の上に、ばったり倒れてね。血も絨毯も、同じように鮮やかな赤なのに、どくどくと流れた血が染み込んでいく様子がはっきりと判った」 消えてゆく生命と流れゆく血のイメージが、恐ろしいほどがっちりと結合した。生々しい現実に悲鳴を上げることも出来なかった。それが結果的に相手の出足を遅らせ、九死に一生を得た理由の一つとなった。 「人を殺したのも、あの日が初めてだった」 死にたくなかった。だから殺した。 だけど、血があんなにも温かなものだとは知らなかった。勢いよく噴き出した血に、目の前が真っ赤になった。そして、恐ろしいと思った。人を殺すことの重さを否応なく理解した。 「だけど茫然としてはいられなかった。だって僕は、死ねなかったから。僕を守るために死んだ人たちのために」 生き延びないと彼らの生命は無駄となる。剣を血で染め上げてでも、全身を真っ赤に塗らしてでも、彼らの願いに応えねばならなかった。いつの日か必ず、彼らの仇を討つために。 「ここしばらくは思い出さなかったんだ。彼らのおかげで助かっておきながら、忘れていたんだ――全てが赤く染まったあの日のことを」 「アルム……」 そっと腕に手を添えられて、アルムレディンは我に返った。瑠璃の目が優しく潤んでアルムレディンを見上げていた。はっと気付いてアルムレディンは笑ってみせる。 「ごめん。聞いて楽しい話じゃないね」 そんなことはありませんわ、とディアーナは首を振った。 「大切なお話ですわ。わたくしが貴方と再会できたのも、王妃として側にいられるのも、貴方を守って下さった方々のお陰です。貴方が大変でしたとき、わたくしは平和なクラインの王宮でのんびり過ごしていたのです。ずっと守られて戦えないわたくしが出来るのは、貴方の側でお話を聞くことだけですもの」 「……ありがとう」 健気に微笑むディアーナの額に、アルムレディンは唇で軽く触れた。 「その心だけで充分だよ。君がいてくれたから僕は、今までは夜中に飛び起きたりしなかったのだと思うからね」 「お役に立てて光栄ですわ」 茶目っ気のある笑顔で応えたディアーナは、しかしすぐに不思議そうに小首を傾げた。 「ではどうして今夜、夢をご覧になったのでしょう?」 「忘れられて寂しかったのかな。それとも、君に打ち明けてすっきりしてしまえってことかもしれない――恥ずかしながら、夕焼け空はまだ少し苦手なんだ」 全てが赤く染まった情景は、あの日のことを連想させるから。 そうでしたの、と視線をどこか遠くに彷徨わせたディアーナにアルムレディンは苦笑した。 「心配しなくてもいいよ。夕日を見たら金縛りに合う、とか言うなら別だけど」 それでもまだ心配そうな彼女の髪を宥めるように撫でる。 「余り遅くまで起きていると、明日に差し支える。ちゃんと休まないとね」 瑠璃の目にはまだ何か言いたそうな色が宿ってはいたが、それでもディアーナは頷いて寝台に体を預けた。 そして数日後。 「出かけるよ、アルム」 「……いきなりだな、ナイン」 ノックもなしに執務室に入ってきた人物を認め、アルムレディンは一つ息をついた。深く艶やかな紺色の髪を一つに纏め、海神色の騎士装束に身を包んだ乱入者の名はナイン=ツァーレ。アルムレディンの乳兄弟にして親友である筆頭魔法騎士だ。 「まだ公務中なんだけど」 「そんなもの放っておいてこちらに付き合いたまえ。何なら後で仕事を手伝ってもいい」 「それなら助かるけど、一体何の用だ?」 「遠乗りさ」 ふんと鼻で笑ってナインは、挑発的な眼差しを向けてきた。 「国王陛下に置かれましては甚だ御不快とは存じ上げますが、拙めの嘆願をお聞き入れ下さいましょうや?」 慇懃無礼とはこのことを言うのだろう、仕方なくアルムレディンは立ち上がった。日没までにはまだ少しあるが、今日回ってきた書類のうち重要なものは全て片付いている。少しぐらい乳兄弟の気まぐれに付き合っても罪にはならないだろう。 「どこまで行く気だ?」 轡を並べて城門をでたところで、アルムレディンは尋ねた。 「秘密」 「おい」 「ま、それほど遠くまでは行かないって」 「ならいいけど」 「たまには息抜きをした方がいいよ。最近ずっと部屋に籠もりっぱなしだろう」 「……そうかな」 「自覚がなさ過ぎるのが問題だね」 やれやれ、とナインは馬ながら器用に肩を竦めてみせた。 会話を交わすうちに広い街並みを外れ、二騎はやや起伏のある郊外の丘へと差し掛かった。子どもの頃に何度か馬を走らせた道だが、意外なほど懐かしく感じた。そう言えば、とアルムレディンは記憶を反芻した。城を追われて流離っていた頃は勿論だが、復権後も一度として通った覚えはない。それどころか、結構好きだった遠乗り自体も復権以来初めてのような気がする。どうやらナインの言うとおり、執務ばかりで煮詰まっていたのに自覚がなかったらしい。 「――到着」 乳兄弟がそう呟いたのは、王都近郊にある小高い丘の上だった。王都から徒歩で来るのにはやや距離があるため、人気は少なく草花は自然のままに放置されている。まだ幼かった頃、天気の良い春の日などには時々、弁当持参でピクニックに来たものだ。流石に復興途上のダリスにはそんな余裕はなく人っ子一人いない――と思いきや。 「お待たせいたしました、妃殿下」 「いいえ、こちらこそ我が儘を言ってごめんなさいですの、ナイン」 馬から下りたナインが恭しく膝をついて木陰から現れた人物を出迎える。春の花の色した髪と優しい瑠璃の目を持つ彼女をアルムレディンは大変よく知っており、それゆえに意外だった。 「……ディアーナ?」 「はいですわ」 歩み出たディアーナの背後、木立の深くに一台の馬車と御者、それに騎士らしき人物が一人窺えた。王妃をここまで連れてきたらしい彼らに「ご苦労」と訳知り顔で声をかけたナインは、馬車が走り出すのを見てからひらりと再び騎乗した。 「では我らはこれにて失礼を」 「こら待て、ナイン! 説明しろ!」 叫ぶ国王を後目に、ナインは「妃殿下」とディアーナへと顔を向ける。 「邪魔者は退散いたします故、ごゆっくり」 「面倒をかけてごめんなさいね、ナイン」 和やかな挨拶を王妃と交わし、ナインは馬に一鞭くれるとそのまま走り去った。頭を抱えたい衝動に駆られながら、アルムレディンは王妃へと向き直る。 「説明してくれるかな、ディアーナ」 「勿論ですわ、アルム」 にっこりと邪気のない笑顔で答えられると、追求する気力が失せそうになる。 「でも、わたくしからお話しするより、ご覧になった方がよろしいですわ」 こちらへ、とディアーナはすいと腕を伸ばした。指の先には丘の頂上、そして茜色に染まった空。 僅かに歩みが鈍る。数日前に見た赤い夢が、否応なしに思い出される。どうしてこんな風景を見せるのかと、問い質したい欲求をアルムレディンは制御する。何の意図も意味もなく彼女が、こんなことをするはずがないのだから。 ディアーナは丘の端まで来て歩みを止めた。アルムレディンが彼女に並んで止まると、白い指が「見て下さいな」と斜め下を指す。 眼下に広がるは鮮やかに赤い――街。 中央に聳える王城を取り囲み、玩具のように小さな建物が広がっている。東から迫る夕闇に備えて既に明かりを灯している家も見える。 ――己の護るべきもの。 「綺麗でしょう?」 広がる城下を見つめたまま、ディアーナが語りかける。 「夕暮れ時は街に一番活気が宿る時間だって、わたくしのお兄様は言いましたの。わたくしがこちらに嫁ぐ前の夜、実は御自分も時々王宮を抜け出して街に出かけているって教えてくださいましたわ。王都を一望できる場所から見る夕色の街が一番だって」 アルムレディンは微動だにせず街を見つめ、王妃の言葉を聞いていた。 「赤は血の色、そして燃えさかる生命の色ですわ。沢山の人たちの生きる力が、この風景には詰まっていますの」 如何? と優しい声が耳に届く。 「愛しいと思いません?」 「――うん」 ごく自然にアルムレディンは頷いていた。血を連想していたはずの真っ赤な夕日、だがとても美しい。 「綺麗な――赤だね」 傍らを顧みると、鮮やかな赤に髪を染めながらディアーナがこちらを見ている。目に染みるようなその赤はとても美しく、愛おしい。 だから夢を見たのかもしれない、アルムレディンはふと考えついた。傍らに癒しをくれる優しい瑠璃の目があると知り、死んでいった彼らは再び夢に現れた。自分が赤い夢の呪縛を乗り越えられるように、と――ご都合主義で無茶な理屈だが、アルムレディンはそう考えたかった。 「ありがとう、ディアーナ」 告げた言葉に茜色の女神は、とろけるような笑顔で応えてくれた。
やりました、アルムレディン王子ですよ、皆さん! 波瀾万丈でどちらかと言えば修羅場ばかりだったろう彼の人生で、ディアーナが救いになれれば 本当にこんなに素敵なことはないですね。 リリティアさん、ありがとうございました。 |