Diamond  リリティア様
 
 
 門を出たところで彼は振り返った。 
 一年近く滞在していたクラインの町並みが、向こうに見える。王都の郊外へと続く門。郊外の湖は詩の題材にしたいほど美しく澄み切っているので、彼は毎日のようにこの門をくぐって訪れたものだ。 
 だが、今日は違う。今日は、街には帰らない。このまま、クラインを去る。 
 この国でも、多くの人々と出会った。古い知人にも再会した。王族とも知り合うことになった。……いろいろ、あった。そして今、別れねばならない。それが異邦人の定めだ。今までと同じように、新たな国へと移動する。許されるぎりぎりまで彼はこの国に留まり続けた。すぐに国境に向かわねば滞在期間を越えてしまい罰せられることだろう。 
 それでも彼――イーリス=アヴニールは、街を見つめていた。祈るにも似た眼差しを王都の町並みに向け続けていた。 
「……未練、ですね」 
 柔らかな声が口から零れた。血の色を映した目を細め、ため息をつく。 
「何も言っていないのに、見送りを望むとは……」 
 待ち望むはただ一人、この命を救ってくれた少女。 
 彼女が来ることはあり得ない。自分の出立は誰にも語っていないし、別れも手紙で済ませた。その手紙すら、彼女の元に届くは明日だ。待つだけ時間の無駄、絶対に来ない。 
 それでも――待ちたかったのだ。 
 だがそれも、もう終わらせねばならない。 
 風が吹き、ショールを乱す。イーリスの背から、王都へ向かって吹く風。それに乗せて、言葉を紡ぐ。 
「きっと貴方は、怒るでしょうね」 
 様子が容易に想像でき、イーリスは口元を綻ばせた。 
「怒らないで欲しいとは言いません。むしろ、どんどん怒って下さい。それだけ貴方が私のことを考えているという大切な証です」 
 王都を去る理由は手紙に書いた。別れの挨拶も書き記した。だけど書かなかった言葉がある。 
「貴方を愛していますよ――メイ」 
  
  
  
 いつから貴方だけが、違って見えたのでしょう。 
 最初はただのけちな娘だと思っていたのに。 
 それは酷い誤解でしたね。貴方は私の取り巻きたちとは違っていた。夢見ることを知っていながら、決して夢に縋らなかった。現実を肯定してその中で生きる貴方に、私は親近感を覚えたのです。 
 現実を斜に構えて見ているのでもなかった。そこが私とは異なる点でした。全てをあるがままに見て、自分自身を曲げずに生きている。何かを恨むことも誰かを羨むこともなく、いつ如何なる時でも己を通す強さは輝かしいほどでした。 
 夢見る少女たちと同じではないけれど、世慣れた女たちとも違う。そんな不思議さが貴方の魅力でした。 
 浅ましい好奇心、そう言われても仕方がありません。それは確かに事実なのですから。 
 ですが、それは始まりのきっかけに過ぎませんでした。貴方が教えてくれた言葉ですよ、「終わりよければ全て良し」とね。行き着いた現実こそが全てであって、途中の過程がどうであろうと全く構わないのです。 
 私が貴方の前でバンシーの笛を吹いたときのことを覚えていますか? 忘れたなんて言っても聞きませんよ。 
 あの時貴方が言った言葉を、私は忘れられないのですから。 
 私の家系を愛しているからこそバンシーは泣く、と。 
 思いもしなかった言葉でした。家系に取り憑いている化物だから愛情など持ち合わせてなどいない、と信じていました。今まで誰一人としてそう言う解釈をしなかったのに、貴方は迷わずにそう答えた。 
 そのときの私の驚愕が、想像できますか? 
 そう、驚いていたのですよ。そう見えないように必死で取り繕っていましたけどね。 
 そう……あの時、なのでしょうね。貴方を見る目が確実に変わった瞬間とは。 
 がさつで脳天気なだけの小娘が――実はそう思っていたのですよ――化物の心情を全く新しい視点から捉えてみせたとき、私の脳裏に一条の光が煌めいて見えました。 
 金剛石を知っていますか? この世で最も硬い物質である宝石です。原石は黒く汚らしい石にすぎませんが、職人が研磨すると美しい輝きを放ち「宝石の王者」とも呼ばれます。 
 貴方は、その金剛石です。 
 心の中に何よりも美しく強い光を秘めている。幸運にも私は、それを見ることができた。 
 女神エーベに私は心から感謝します。貴方の光を私に投げかけてくれたことに。 
 
 
 あの時。 
 私が黄泉へと片足を踏み入れた時。 
 貴方は、来て下さいました。 
 私のために。バンシーに捕らわれた私のために。 
 私はあのまま、捕らわれてもよかった。一族の最後の一人までバンシーが取り殺そうというのならば、その願いを叶えてやろうと思っていた。 
 この世に心残りが全くなかったわけではありません。ですが、私にとってバンシーの与える死は必然だったのです。一族にかけられた呪いなのだからいつかバンシーが私を殺すだろうと、幼い頃から信じ込んでいました。 
 だから、抵抗しようとは全く思わなかったのです。それが「必然」だと判断し――諦めていました。 
 なのに、貴方は来た。私を助けに。 
 正直あの時、私は貴方に憤りを覚えました。必然である私の運命に介入してきたから、予定を狂わせたから。邪魔をしないで欲しかったのです。 
 何故なら……貴方を巻き添えにしたくなかった。 
 貴方にはもっと生きていて欲しいと、心から思っていました。だからこんなところで、死ぬべき運命の私に関わってはならない、と。バンシーが貴方に危害を及ぼすところを見たくなかった。バンシーは私一人で満足するはずなのに、一族とは何の関係もない貴方まで黄泉へと連れ込むかもしれない……それだけが恐ろしかった。貴方が来て下さった喜びも、その恐怖に比べたら風の前の塵にも等しかった。 
 そう、私はあの時……貴方を守りたかった。 
 滑稽です。状況というものを判っていなかったとしか思えませんね。 
 ですが、本気でした。貴方を守るためなら死ぬことも怖くありませんでした。安っぽい自己犠牲の精神にすぎませんが、本当にそう思っていたのです。 
 結果として、貴方も私もバンシーの呪縛から逃れることができました。貴方の心の強さが、それを成し遂げてくれました。 
 貴方の魂の輝きが、バンシーを浄化してくれた。永きにわたるバンシーの怨念も一族の呪いも、ただ貴方一人によって清められたのです。 
 目を覚ましたとき世界が輝いて見えたのは本当です。その中で一番美しい輝きは、貴方でした。 
 
 
 貴方が異邦人と言うことを知ったのはいつだったのか、覚えていません。 
 私も異邦人という点では同じ。ですが、貴方と私との間には明確に線が引かれる。 
 私は望んでそうなったに対し、貴方は望まずしてなった。 
 事故だと、聞きました。そうであるがため、帰ることができないと。 
 偶然によって引き離されるまで、貴方はごく普通の家庭に育ちごく普通の生活を営んでいた。懐かしい故郷に帰るために貴方はここにいて、その術を探している。 
 貴方の心を完全に理解することは到底不可能ですが、ある程度ならば想像することはできます。遠く離れてしまった故郷のことを貴方はいろいろと語ってくださった。私の知る世界とは異なる、貴方の故郷。 
 ですから、貴方が帰りたがっていることは痛い程良く判ります。はっきりした言葉にならなくても表情や声音が充分すぎるほど物語っています。それは決して恥ずかしいことではありません。私ですら時折望郷の念に駆られることがあるのですから。 
 貴方には帰るべき場所がある。どれほど隔たっていても、ちゃんと存在する。帰るための努力をしないと届かぬ場所へ、貴方は帰らねばならない。 
 別れを告げる言葉を手紙に託したのは、それが理由です。貴方と顔を合わせると、自分が何を口走ってしまうか容易に想像がつきます。己の思いを止められなくなる。 
 貴方は金剛石。美しく強く輝く宝石。 
 金剛石はその輝き故に多くの人の心を惑わせ、数多の伝説を創り出してきました。勿論金剛石には罪はありません。惑わされる人の弱さこそが罪。 
 ほら、貴方は私の心を惑わせている。貴方を我が物にしたくてたまらなくなる。 
 貴方と会えぬはそれがため。貴方を連れ去りたい私の心を表に出さぬため。 
 貴方には故郷があり、そこへ帰って真っ当な生を送ってほしいのです。幸せになってほしい、それが私の心からの願いです。 
 連れ去ってしまいたい私の思いもまた真実ですが、貴方が幸せになれないと解っている以上それはできません。ならば私にできることはただ一つ。 
 例え世界を隔てても、貴方に貰ったこの命の続く限り祈っています。 
 メイ=フジワラの幸せを、ずっと。 
 
 
 王都から東に四日ほど歩いた頃、関所が見えてきた。そろそろ西の空が赤らんできた頃合いだが、関所に並んでいる者の姿はない。 
 今日はイーリスがクラインに滞在できる最後の日だった。夕暮れの鐘と共に関所は閉まるから、それまでに通過すればよい。かなりぎりぎりの日程だったが、どうやら間に合いそうだ。ほっと小さく息をつき、イーリスは振り返って太陽の位置を確認しようとした。 
「……ん?」 
 日除けのショールを上げ、イーリスは空に目を凝らす。やや茜色がかかった空に、黒い染みのようなものが見える。雲ではない。小さく、ただ一点――否、少しずつ大きくなっている。 
「あれは……」 
 その姿。王都で見た。何度も失敗してその度再挑戦していたのを覚えている。ああ、上手く乗れるようになったのか。 
「メイ……」 
 何故ここに、と言う疑問を持つ余裕はなかった。ただその姿を見られることが嬉しすぎて、何も考えられない。 
「イーリス! ……ってキャーッ、危ない!」 
 もの凄い速度で飛んできた箒は減速が充分に効かず、どんっと音を立てて二人はぶつかり、そのまま倒れた。 
「大丈夫ですか、メイ?」 
 自分の痛みをこらえてイーリスは上半身を起こし、咄嗟に庇ったメイを見た。一拍遅れて小柄な身体が跳ね上がり、イーリスの胸ぐらを掴む。 
「そんなことはどうでもいいの! どうして、どうして急にいなくなるのよ!」 
「……理由なら、手紙に書いたとおりです」 
 頬を真っ赤に染めて怒鳴っているメイに戸惑いつつ、イーリスは答えた。だがそれは満足のいく回答ではなかったらしい。 
「そんなことじゃないの! あたしに何も言わずに、いなくならなくてもいいじゃない! 酷いよ! 嫌いなら嫌いって、はっきり言ってよ! こんな遠回しに意地悪しなくてもいいじゃない!」 
「嫌いって、ちょっと、メイ……」 
 慌てて言いかけて、そのとき初めてイーリスは気付いた。今にも零れそうな、透明な雫。 
「泣いて……いるのですか?」 
「怒ってるのよ!」 
 間髪入れず返ってきた言葉にも構わず、イーリスは右手でメイの目元にそっと触れた。暖かいものが指先を伝う。拭っても拭っても、流れ続ける。 
「酷いよ……」 
 勢いを急に失って、メイは俯いた。静かな動作でイーリスの手を払いのける。 
「こんなの酷いよ。優しくしないでよ。はっきりしてよ。思ったままを言ってよ。嫌いなら嫌いって言って、そうしてよ」 
「何を言っているのです?」 
 胸に湧く衝動を抑えて、イーリスは尋ねた。 
「私は、貴方を嫌ったことはありませんよ」 
「じゃあなんでいなくなるのよ!」 
 急にメイが顔を上げ、視線が間近で交錯した。吐息がかかるほど、側で。 
 全く、とイーリスは呟き、不審そうに見上げるメイの頬に両の手を軽く添え、唇を重ね合わせた。 
「――こう、したくなるからですよ」 
「ーーーーーーー!」 
 真っ赤な顔でぱくぱくと口を開閉させるメイをイーリスは微笑みを浮かべて見つめた。 
「貴方が好きですよ、メイ。このまま連れ去ってしまいたいくらいに」 
 茫然とした表情のメイに苦笑しながら、ですが、とイーリスは続けた。 
「貴方は故郷に帰ることが目標で、私はそれを妨げたくないのです。まさか追いかけてこられるとは思いませんでしたが」 
 言いながらイーリスは身体をメイの下から抜き、立ち上がって衣服の砂埃を払った。座り込んだままのメイは魂が抜けたようにそれを見ている。 
「ここでお別れです。私は今日中に関所を通過しなくてはならない。貴方が無事に帰郷できることを旅の空から祈っていますよ」 
 さようなら、と言ってイーリスは身を翻し、関所へと歩を進めた。先程までは僅かに赤みが差しただけの空が、今でははっきりと朱色に染まっている。まだ日は落ちきっていないので日没までの通過は確実に可能だが、一刻も早くメイの側を立ち去りたかった。そう思って歩みを早めた、そのとき。 
「待ってよ!」 
 叫びと共に服の裾が強く引っ張られ、イーリスは数歩たたらを踏んだ。振り返ろうとしたら、ぎゅっと背中から抱きつかれる感触。 
「メイ?」 
 首だけを後ろ向きにして小柄な少女を見やると、見上げる茶色の目と視線が重なった。 
「あたしも、行く」 
 一瞬の沈黙の後、イーリスは掠れた声で言った。 
「……本気ですか?」 
「うん」 
 茶色の目の奥に宿る強い光が、イーリスを射抜く。 
 この光だ、とイーリスは胸の奥が熱くなった。何よりも硬く美しい、金剛石の光。何よりも強い、至高の輝き。 
 知らず、口元が綻んでいた。目敏くメイが見つけ、にっこりと笑う。 
「いいよね?」 
「ええ、勿論です」 
 もう誰にも止められない。勿論、イーリスに止める気は毛頭ない。 
 彼女は、金剛石だから。 
「お手をどうぞ、姫君」 
 おっとりとした動作で手を横に出すと、腰に回されていた腕がするりと解けて彼の腕に回された。 
「では、行きましょうか」 
「うん!」 
 夕日を背に二人は歩き始めた。迷わずに、共に歩く道を目指して。 
  
 

    初のイーリス創作です。リリティアさんのサイトでキリ番を踏んだらいただきました。  
    空の一点から大きくなってくるメイの姿が目に浮かびます。  
    それに、しっかり自己分析できているところがイーリスらしいですよね。  
    イーリスとメイ、実はお気に入りの二人組です。 
    リリティアさん、ありがとうございました。
 
 
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