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夕刻、話があって客人のいる離れを訪れたシルフィスは、彼の不在を知って外へ探しに出た。 彼のいる場所はいつもだいたい決まっていたし、道は一本道だから行き違いになることもない。急ぐことはないとわかっていた。それでも自然と足が小走りになる。はやる気持ちを押さえ切れない体は、弾むように前へと駆けた。夏の初めの清々しい空気が肺から体全体に回り、心地よい酩酊感に大声で笑い出したくなるほどだった。 シルフィスはこの季節が好きだ。森は緑の色濃さを一段と増し、その中で育まれる生命のざわめきをもはや隠そうとしない。日増しに長く、強くなっていく日射し。それでも、太陽が西の山陰に落ちようとしているこの時間ともなると、肌に当たる風は時折ひやりと冷たい。 居住区と森との境界線をなすように小さな川が流れている。そのほとりが彼のお気に入りの場所だということをシルフィスは知っていた。その方角に足を向けてしばらく行くと、案の定、風に乗って竪琴の音がかすかに聞こえてきた。 王都のあらゆる階層の人々を魅了してやまなかった澄んだ調べが、今はたった一人の聴衆も期待せず、おしゃべりな小川のせせらぎと競い合うようにあたりの空気を震わせている。それを耳にしたシルフィスは歩調をゆるめた。彼が演奏しているのなら、そこにずかずかと踏み込むような真似は出来ない。少しの間立ち止まって乱れた呼吸を整えてから歩き出す。 やがて、川岸に腰をおろす彼の後ろ姿が見えてきた。つま先から手首までを包む長いローブに、頭からすっぽりとベールをかぶったいでたちは、他人と間違えようがない。 声を掛けようとしてすぐに思い直す。先程から流れている曲はまだ続いていた。彼の指が紡ぎ出す音楽を今中断させてしまうのはあまりに惜しい。 そのまま近くの木に背中をもたせかけ、軽く目をつぶる。ちょうど広場でよく彼の演奏を聴いていた時のように。 吟遊詩人イーリス=アヴニール。シルフィスが流浪の身である青年に出会ったのは王都でのこと。それから、広場で歌や楽器を披露する彼のそばで、どれだけの時を過ごしたろう。 あの日、異邦人である彼に許された滞在期間が終わり、彼は王都を出て違う街へと旅立とうとしていた。突然別れを告げられて呆然としつつも、自分は彼に付いて行くと決めて少しも迷わなかった。どうしてあんなに大胆な決断が即座に出来たのか、時々思い返しては我がことながら不思議な気持ちになる。 クラインを出た後、およそ数ヶ月の二人旅を経て、彼らは首尾良くシルフィスの生まれ故郷であるアンヘル村に到着した。突然戻って来たシルフィスに周囲は驚きを隠せなかったが、アンヘルの伝承音楽について学びたいという訪問の目的が歓迎され、イーリスが長老の尊敬すべき客として遇されたのは幸運なことだった。 ――なんてきれいな曲なんだろう。 思わずため息が口をついて出る。 イーリスから竪琴を習い始めたのは二人で王都を出てすぐ。まだ人前で演奏できるような腕前ではないが、そんな自分にさえ彼の持つ並々ならぬ技量は明らかだ。旅の途中の街々で他の吟遊詩人の演奏を何度も聴いたけれど、イーリスのように弾き歌う者は一人もいなかった。複雑に響きあう音と音。刻まれる変則的な拍子にリードし、リードされる旋律の軽やかな美しさ。 ――ん? でもなんだかちょっと・・・? シルフィスはうっとりと閉じていた瞳を開けて、彼の人の姿を凝視した。 短い間とはいえ片時もそばを離れず彼の演奏を聴いてきたシルフィスの耳にだけとらえることのできるかすかな疵が、若者の眉をひそめさせたのだ。弦をさばく手のほんのわずかな乱れが、本来伸びやかな音の流れを阻害し、彼の演奏を妙に緊迫感あふれた息苦しいものに変えてしまっている。 ――どうしちゃったんだろう。これじゃあまるで・・・。 その時、ばしん、という鈍い音がしたと思うと、いきなり曲が途絶えた。イーリスが、弦を掻き鳴らしていた手を反射的に口元に持っていくのを見て、シルフィスは思わず叫んでいた。 「イーリス! どうしたんですか!」 「シルフィス・・・」 駆け寄ってくる若者を見とめて、イーリスは困ったように微笑んだ。 「人が悪いですよ。いつからいたんです。」 「手、見せてください!」 若者の剣幕に気圧されたように、吟遊詩人はおとなしく右手を差し出した。 「おおげさな。琴の絃が切れただけですよ。別になんともありません。」 言い訳めいてつぶやく彼を黙殺して、その手をとって子細に検分する。シルフィスがほっとしたことに、彼の手に傷ついた様子はなかった。 「今痛まなくてもあとで腫れてくるかもしれません。」 ちょっと待っててください、と言いおいて、金の髪の若者は身軽に川縁へと降りていくと持っていたハンカチを川の水に浸した。イーリスは一言もないまま、鮮やかな夕焼け色に染まりつつある空を背景に水辺に立つシルフィスの姿を見守った。 「冷やしてからしばらく動かさない方がいいですよね? あとで部屋に薬を持っていきます。打ち身によく効く薬草がありますから。」 「全く、心配性にもほどがありますよ。」 固く絞ったハンカチで彼の手に湿布しながら鹿爪らしく言うシルフィスに、イーリスはわざと素っ気無く応じた。台詞に反して、若者に向けられる紅玉の瞳にはひどく優しい色の光が宿っていたのだが。それに気づかない若者は気を悪くしたのか、少し強い口調で言った。 「お言葉ですが。あなたの言い方で言えば、この手も竪琴も大事な商売道具でしょう? それを両方一度に傷つけてしまうなんて、あなたらしくないですよ、イーリス。 それにさっきの演奏だって・・・。いつものあなたならあんな風に弾かないでしょう。どうしたんです? 何かあったんですか?」 シルフィスの言葉に、イーリスは表情を固くした。 「そこまで聞かれてしまうとは。本当に耳がいいんですね。」 ――それと同じくらい、私の気持ちには鈍感ですけどね。 心の中で付け加えると、イーリスは川の水面に目をやったまま静かな声で口を切った。 「・・・あなたに王都の騎士団から手紙が届いていたそうですね。もう一度騎士団に戻らないかという誘いを、あなたは断ったとか。」 吟遊詩人の言葉はシルフィスにとって予想外のものだった。しばし絶句したあと恐る恐る尋ねる。 「・・・誰に聞いたんですか?」 「先程、長老に――あなたのお祖父様に教えていただきました。・・・そんな大事なことを、どうして話してくださらなかったのですか。」 イーリスの口調には明らかに詰問する響きがあった。 クラインの近衛騎士団の印も麗々しい書信が使者付きで長老の元に届けられたのは数週間前のことだという。ずっと先に出立したシルフィス達を追い越す形になったわけである。王都を出た後、目的地はアンヘル村と決まっていたものの、最初は旅慣れないシルフィスのために、そして途中からはまるで旅の終わりを惜しむかのように、イーリスは決して先を急ごうとしなかった。結果、二人が村に到着した時にはすでに、王都からの使者はその場を辞したあとだった。騎士団の知り合いだったのだろうかと、村の者に使者の特徴を尋ねてみたが、特に心当たりのある者ではなく、シルフィスは妙にほっとした思いだった。 長老に見せられた書信には、極めて簡明な文章でシルフィスの今後の扱いについて述べられていた。まず、今回のことは極めて遺憾かつ残念であるが、シルフィス=カストリーズが騎士団小隊から除名されたということ。 正騎士となるために必要な『騎士見習い』という訓練制度は通常は一年以上の期間を要するが、家庭の事情などで中断を余儀なくされる例も過去にはあったこと。その場合でも、本人の強い意志と努力があれば復帰も不可能ではなく、シルフィスにその意志があるならば相談してほしいということ。 最後に、アンヘル村への旅が恙無く終わった折には王都の友人・知人に消息をぜひ知らせてやって欲しいこと。 淡々と綴られた文面の最後には、シルフィスが敬愛してやまない元上司の名があった。彼には恩を仇で返すようなことをしたのに、手紙には非難がましさは一切なく、行間には若者の将来を惜しみ心配する気持ちが溢れていて、シルフィスは読みながらあやうく泣いてしまいそうになった。 何日もかかって、返答の手紙を書いた。 かの人からの手紙は長老から譲り受け、宝物として大切にしまってある。 確かに自分は手紙の件についてイーリスに話さなかった。彼に余計な気遣いをさせたくなかったためだったが、それがこんなに彼の怒りを買うとは正直思っていなかった。困惑して押し黙るシルフィスに、イーリスは自嘲するような苦い笑いを口の端にのせた。 「私には相談する価値もないということですか?」 思いも寄らない言葉に、シルフィスの頬に血の色が上る。思わず声が大きくなる。 「そんな・・・違います!」 「なら、どうして。」 「では、もし相談していたらあなたは何と答えたんですか? あなたを置いて一人クラインに戻れと? そうおっしゃるつもりなんですか?」 相手の視線を跳ね返すように傲然と面を上げ、金色の髪の若者は問い返す。その挑むような表情は息を飲むほど鮮やかに美しく、吟遊詩人は一瞬我を忘れた。彼の真意を質そうとする強い視線から瞳を逸らすことさえもままならない。 苦しそうに息をついて先に目を伏せたのはイーリスの方だった。 「・・・まさか。今さらあなたを手放すなんて、そんなこと出来るわけがない。 出来るわけがないというのに・・・それでも考えてしまう自分がいるんです。」 ――王都で初めて会った時のあなたは、何かに焦っているような苦しい表情をしていた。それが日を重ねるごとによく笑うようになった。どんどんのびやかないい顔になっていきましたね。・・・自分ではわからなかったですか? 黙って耳を傾けていたシルフィスが首を傾げるのを見て、彼は微笑んだ。 「流浪の身の上になってから、その日その日を生き抜くことで精一杯な毎日が続くうち、いつかそれが私の習い性になりました。昨日が今日、今日が明日に繋がっていくことなど端から当てにせず、夜眠り朝にふたたび目覚めることがなくても何の痛痒も感じない。そんな生き方をしてきたのです。 だから、若木のように日増しに枝をはり、美しい緑の葉を繁らせていくあなたが眩しくてならなかった。初めて本気で欲しいと思いました。例えどんな代価を払っても・・・。」 イーリスは瞳を曇らせた。 「ですが、その代価を払ったのは私でなくあなたの方だった。あなたには、騎士としての輝かしい未来が待っていたのに。あんなに健やかに日に向かって伸びていた木を、私は根こそぎ持ち去るようなことをしてしまった。 クラインを出てからというもの、別れて来た方々とあなたとの絆を感じるたびに、そう思わずにいられないのです。」 「イーリス・・・」 シルフィスは、おずおずと彼の方に手を伸ばし、やがて意を決したように大きく腕を回して彼を抱きしめた。 「ごめんなさい。あなたをそんなに悲しませるなんて思わなかった。心配させたくなかったのに、却って心配させてしまったんですね。 確かに私は騎士団に戻る気はありません。いただいた手紙にはきちんとお断りの返事を出しましたし、長老もわかって下さいました。 でも・・・笑わないでくださいね。私は騎士になることを諦めたわけじゃないんです。」 驚いたように顔をあげる青年に、シルフィスは肯いた。 「私は見習いとしての訓練を受けながら、目指すべき『騎士』とは何かをずっと考えていました。そして、私を教えて導いて下さったある方に、私は教えられました。騎士とは身分や位じゃない。武器を操る技量や力じゃない。心のあり方なのだと。 何かを守るために自分の持てる全てを投げ出すことができる、それが騎士です。 それも、がむしゃらに命を賭ければいいわけじゃなくて・・・どう言えばいいのかな、自分を生かすことが守る対象を生かすことにもつながる、そんな生き方をすること。勝手な解釈かもしれませんが、それが私にとっての『騎士』だと、そう思うのです。 今の私はあなたとあなたの歌を守りたい。 そのために剣を振るうことは出来ないけれど。それでも、何かせずにはおれない。気づかないうちに一度あなたを失いかけた、もうあんなのはいやなんです。 ・・・だから、私をそばに置いてください。私にあなたを守らせてください。私が迷わず歩いていけるように。」 シルフィスはそこまで言うと、一人で勝手に真っ赤になってしまった。 「全く、あなたって人は・・・。」 細い体を抱き返し、白くなめらかな頬に唇を寄せながら、吟遊詩人は心の中で呟いた。 ――愛していますよ、美しく気高い人。恋人というにはまだほんの少し幼いけれど、ね。 長老から手紙の件を聞かされた時、胸に荒れ狂ったのはまぎれもなく嫉妬の感情だった。元部下であるとはいえ、そこまで深く若者を思いやることのできる心に。そして遠く離れてなお、二人を結ぶ絆の強さに。さらにつけ加えるに、そのことに対してシルフィスの方は全く無自覚なのだ。これでは太刀打ちのしようがない。 ――これからも、あなたの中で輝きつづける『騎士』という名の星に、私はずっと嫉妬しつづけるのでしょうね。でも、美しいものに焦がれて生きるのは吟遊詩人の定め。そんな人生も悪くないのかも。 「あなたのおっしゃることはわかりました。が、シルフィス、その言い方はまるで・・・プロポーズのようですよ。」 揶揄するようにささやかれて、シルフィスは青年を恨めしそうに睨んだ。 「どうおとりになっても結構です。少なくとも私は困りませんから。」 その口調に潜んだ微妙な調子に、イーリスは相手の顔をまじまじと見詰めた。 「ええ、その、分化・・・が始まった・・・みたいです。あなたに知らせたくてここまで来たんです。あなたのような方と二人きりで旅をしていたくせに、今頃やっと始まるなんて鈍感もいいところだと友人達にさんざんからかわれました。」 「あなたは・・・私をまた驚かせましたね? 今日で二度目・・・いや、三度目です。 本当に、どうしてもっと早く言わないんです。」 「切り札はぎりぎり最後まで出すなとおっしゃったのはあなたですよ。」 「・・・意味がわかって言ってるんですか。」 「たぶん。」 「本当に?」 ささやき交わす恋人達の上に、いつしか星がまたたき始めていた。
HENNAさんとはいつも「イーリスって焼きもちやきだよね」と言い合ってます。 同人誌用にいただいた原稿でしたが、HENNAさんがご自分のサイトには アップなさらないそうなので、こちらに掲載させていただきます。 HENNAさん、ありがとうございました。 |