バンシーの声は止み、別れの日は訪れる。 まだ夕刻と呼ぶには日が高く、通りにはそれなりに人が溢れている。この男も普段はその一員となっているのだが、今日は違うようだ。 来るまでに何人か見知った顔に声を掛けられたが丁重に追い返して目的の場所に着いた。 久方ぶりに訪れた錠前亭は前回来た時と変わらぬ容貌でそこにある。 「ま、二ヶ月や三ヶ月で変わるもんじゃないけどな。」 慣れた素振りで扉を開け、気配に気が付き顔を上げた主人と軽く挨拶を交わす。 階段を上がり目的の扉の前で一応のノック音を鳴らした。 「突然ですね。何事かと思いましたよ。」 気分を害した風なのは了承を得ずに入ったからだ。 「ささやかな嫌がらせってやつだ。気にするな。」 悪びれることなくシオンが言う。 別にいいですけどね、と呆れた様子で奥に戻り椅子に腰掛ける。 「出かけるところだったのか?」 既にイーリスは外出着を着込み身支度も済ませた感じだった。しかし、帰るつもりも詫びるつもりもない。 「ええ、気分が向いたので広場にでも行こうかと思ってたんです。」 すっかり出かける気はなくしたようでベールを取ってしまう。 「ここのところ通りでも見かけませんでしたがどうしたんです。」 言外に何の用だと聞いているのだ。 「悪いな。お国の事情ってやつだよ。」 一人部屋のこの部屋に余分な椅子はなく仕方ないのでシオンはベットに腰掛ける。用途が違うため位置が低くて座りにくい。知っていてイーリスはサッサと椅子に座ったのだとシオンはわかった。 「お国の…」 嫌なものを聞いたとイーリスは僅かに眉を寄せる。 王族貴族に偏見を持つイーリスには煩わしい話だったか、シオンは気がついたがこのまま話を逸らすのもわざとらしい。 「ああ、ダリスとの話はお前も知ってるだろう。戦火は免れたがまだ問題が山積みでな。それに駆け回ってたわけ。」 場を和ませる目的で少々ふざけて言ったのだが通用しないことは知っていた。 「そのお忙しい王宮魔道士様が何の用です。」 嫌味も笑みもたっぷりとシオンに向けられる。 「もうすぐクラインを立つだろう? せめて最後くらい手向けようと思ったのさ。」 「私が行くのはもう少し後ですよ。」 「知ってるさ。だが、俺の方がそうしょっちゅう暇が出来るわけではないんでな。」 勝手ですね。とイーリスは浅く笑う。 「で?」 「で?ってお前な。」 「まさか別れを惜しむのに手ぶらで来たわけではないでしょう?」 要するに餞別を要求しているのだ。シオンはにやりと笑う。 「ああ、そろそろオヤジが持ってくるはずだ。」 友人らしい物言いに、シオンは何処か安心する。ついこの間までは今にも死にそうな顔をしていたのに… (全ては女神の思し召しってことかな。) 春、予期せずクラインで再会し、今ここでこうして話している。事態はよい方へと結果的には転がったのだ。 頃合良く部屋の扉から小気味いい音が響き、愛想のいい主人が顔を覗かせた。 「…ずいぶん手軽な酒ですね。」 それでも結構な値が張る代物なのだがイーリスは不満げに呟いた。 シオンは笑うしかない。 「勘弁してくれよ。今日暇を見つけて今日思い立って今日やってきたんだからさ。」 その分量は用意してあるはずだ。とシオンは続ける。 「では、明日ゆっくり吟味したものを送ってください。ああ、あなたは要りませんよ。暇がないんでしょう?」 そう言いつつも自分はサッサとその手軽な酒に口を付けている。 酷い言い様だ。シオンは毒づきながらも負けじとグラスに酒を注いだ。 真昼間から宴の様である。 二人は暫く何も言わず黙々と酒を飲み交わしていたがややあってシオンが口を開いた。 「行くんだな。」 「ええ、そうしたらこれまでとおなじでしょう?」 会う前に戻るだけ、貴方にはあまり関係ないでしょう。と、イーリスが冷たく漏らす。 確かに別れを悲しむような馴れ馴れしい仲ではない。跋の悪いものを感じシオンはほぞをかんだ。 しかし、多分もうこれっきり会うこともないだろうとシオンは何故か確信していた。脈絡のないただの勘。だからこそ当たるだろう。 (確かに、気に病む問題でもないか。) 手にしていたグラスを一気に飲み干しながらシオンはそう思い直した。 気の迷いだったのだ。道は分かたれて考え方も分かれた。固執する必要は何処にもない。 「そうですよ。」 考えを見透かしたようにイーリスが相づちを打った。 にやりとシオンが笑う。 「そうだな。」 そうして空いたグラスに再び酒を注ぎ、ついでに向かいの相手にも注いでやった。 「そういやお前、嬢ちゃんと行くってのは本気か?」 「嬢ちゃん? ああ、彼女のことですか。 本気ですよ。」 何でもない様子でさらりと流す。 「とんでもない物好きってのは身近にいるもんだな。」 わざとらしく感心した風を装ってシオンが肯く。 イーリスはあくまでそれを笑顔で受け止めグラスを空けた。 大きなくしゃみは辺りに轟く。 「大丈夫ですか? メイ。」 「うん。誰かが噂したんでしょう。」 意外に鋭いメイのコメントはシルフィスにはどうやら冗談と受け止められたらしい。笑うべきなのか迷っている様子が傍目からも分かった。 「それより、まずいですよそれは。」 「うん。わかっているんだけどね。話すタイミングってのがなくて。」 話が逸れそうになってシルフィスが慌てて戻した。それにメイは人事のように同意する。 「タイミングの問題ではないでしょう。まだキールに話していないなんて…。」 そうなのだ。最近特に忙しそうにしていたので話す暇がなかったのだ。それも、「メイを元の世界に帰す」とその事で一生懸命のようだった。……言える訳がない。 「帰らない」なんて。 メイはこれ見よがしのため息を一際大きく吐いた。 また、一波乱ありそうである。
シルフィスもメイのこと心配してくれてます。友人からの祝福という餞(はなむけ)ほど、幸せなものはないでしょう。 同人誌用にいただいた原稿でしたが、空葉月さんがご自分のサイトには アップなさらないそうなので、こちらに掲載させていただきます。 空葉月さん、ありがとうございました。 |