届け我が想い
夜の風に乗り
星の海を翔け
月の神の胸へ
大陸西岸に位置する港町にある日、吟遊詩人が現れた。色素の薄い端正な容貌は、貿易の拠点となる大きな港ならともかく、地方都市に過ぎないこの町ではなかなかお目にかかれるものではない。
物珍しさに集まった人々の前で優雅に一礼し、吟遊詩人は竪琴を取り出した。数度弦を弾いて調音し、ふっと小さく微笑む。一拍の間を置いて竪琴は、南の国の音楽を奏で始めた。
愚かしきは我がこころ
忌まわしきは我が想い
吟遊詩人は毎日のように歌い続けた。
南海に眠る秘宝を巡る冒険譚、中原を巡る戦乱の歴史、遙か東の国に伝わる神話を。
龍の信を得た少年を、彷徨える亡国の王子を、敵同士の家に生まれた男女の恋を。
人々は彼の歌に聞き入り、数多の物語に心奪われる。
まるで夢を見るように。
遠く彼方 御身は在る
清らなる 空の彼方に
一日の終わりに、吟遊詩人は決まって同じ物語を歌う。
それは悲しい男の物語。
月の女神に恋した男の物語。
我を照らす御身が光
其は慈悲 愛に非ず
美しい調べに情感に溢れた歌声が重なる。
決して叶わぬ恋をする男に聴衆は共感し、まるで我が事のように心を痛める。詩人の歌声にはそれだけの力がある。
幾度繰り返されてもその物語は、胸を切なく締め付ける。
目の前に男の姿を描き出せそうなほどに。
激しくもなく 冷たくもなく
ただ静やかに ただ涼やかに
優しき光もて天地を照らす
我が狂熱すら清めるが如く
叶わぬ恋に絶望した男は、やがて死を望むようになる。
美しい月の夜、男は湖に身を投げる。水面に映る月へと飛び込むように。
だが男は死なない。寸前で月の女神に救われたから。
それもやはり、女神の慈悲に過ぎないけれど。
男の心を変えさせるには充分だった。
叶わずとも 叶わぬなら
我は語ろう 御身が慈悲
命拾いした男は、その足で神殿へ向かう。女神の慈悲を人々に知らしめるため、神官を志す。
残った全てを神職に捧げた男は神官長となり、多くの信者に敬愛されながら人生を閉じた。
男が没した夜は新月だったが、空には月が昇り、男の黄泉路を照らしたという。
最後の和音が静かに風に溶けていった。
吟遊詩人が頭を下げると、途端にうるさいほどの拍手が沸き起こる。
人々がそれぞれの仕事に散ってゆく中、一人の少年が吟遊詩人に近付いた。どうしました、と問う詩人に向かい、疑問を口にする。
あれは本当のお話なの、と。
詩人の赤い目が一瞬見開かれ、続いてにっこりと微笑む。
「本当のお話ですよ。月の女神は男を救ってくれたのです」
暗い淀みに捉えられるのも厭わずに。
貴方の優しさを偽善と見ていた私すらも。
真っ直ぐに手を伸ばし、引き上げてくれた。
私の――月の女神。
数日後、吟遊詩人は港町を立ち去った。
港町の住民も、それまでの生活に戻った。
詩人が残した物語を語り合いながら。
月に恋した男の話を語り継ぎながら。
『歌は、どんな喜びも悲しみも……痛みすらも伝えてくれる魔法の呪文です。いえ、心に干渉する魔法が無い以上、これも魔法の一つなのかもしれませんね』
『そうなると、イーリスも魔法使いって事になりますわね!』
貴方の慈愛を歌いましょう。
貴方に魔法を掛けましょう。
貴方に永遠を贈りましょう。
歌という魔法に寄せて――
イーリス×ディアをリクエストして書いていただきました。
不幸が似合う男イーリス。でもそれも美しい愛のメモリー(爆)
切ないけど美しいお話ですね。余韻があってとても素敵です。
リリティアさん、ありがとうございました。
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