月精  イリス様
 
 
 綺麗な綺麗な満月の夜 
 雲一つなく銀色に染まった夜 
 そんな夜に月の精霊は清らかなる泉に降りてくるという 
 月の光を受け銀色に輝く泉は神聖なる月の精霊の禊の場 
  
  
 満月の夜、人気のない泉に誰かがいれば 
 それは、乙女の姿をした月の精霊かもしれない――― 
  
  
 クライン王国の国境近くに騎士の一団が到着したのは三日前のことである。 
 クライン王国は平和な国ではあるが、やはり目の届きにくい辺境になると山賊やモンスターなど、物騒な輩が出現する確立が高い。 
 故に、こうして時折騎士団が国境の見回りに赴くのだ。 
「第一班、異常なし!」 
「第二班、異常ありません!」 
「第三班、同じく異常なし!」 
 騎士達を3人ほどのグループに分け、交代しながら巡回する。たとえ、同じ場所でも時間が違うと状況が違うので何度でも見回りに行く。こうすることによって、見落としをなくすのだ。 
「第八班、異常ありません」 
「・・・?その怪我はどうしたのですか?」 
 穏やかに報告を聞き、持っていた地図にチェックを入れていた女性が顔を上げ、僅かに首を傾げた。サラサラと純金の輝きを放つ髪が肩から滑り落ちる。 
 他の者と同じ騎士の服を着ているが、胸に付けている階級章は大尉。 
この隊の隊長であることが分かる。 
 顔を上げた女性は息を飲むほどの美貌の持ち主だった。 
 どこまでも澄んだ、エメラルドの瞳。大理石のような肌。紅く色づいた唇。その顔を縁取る純金の髪。 
 まさに、絶世とも言うべき美貌だが、その美しさは人を圧倒するものではなく、密やかに、慎ましやかに、そっとそこに佇んでいるような美しさだった。 
 例えるのなら、月光に照らされた純白の百合の花のような、清楚なもの。 
 それでも、その美貌が近隣諸国に鳴り響いているのは紛れもない事実だった。 
「あ、これは、その・・・」 
 真っ直ぐにエメラルドの宝玉のような瞳を向けられた為か、あちこちに掠り傷を作っている騎士が顔を赤らめる。その両脇では一緒に巡回していた騎士達がくつくつと肩を震わせて笑っていた。 
「シルフィス隊長、こいつは巣から落ちた鳥の雛を戻してやるために樹に登ったんですよ」 
「で、登ったのはいいが、足を滑らせて落ちたわけで」 
「ああ、それで」 
 ふんわりと微笑んだ女性は改めて怪我をしている騎士を見上げる。 
「怪我はそれだけですか?」 
「は、はい」 
「鳥の雛は無事?」 
「はい、ちゃんと巣に戻しました」 
「そう、良かった。貴方も、雛も。・・・ちゃんと傷の手当てをして下さいね」 
 再び微笑した女性は残りの班の報告も聞き、それらをまとめると周囲を見回した。 
「シルフィス隊長、これから副団長の所ですか?」 
 マントを羽織った女性の姿に気づいた騎士の一人が声をかけ、それに女性は微笑んで頷く。 
「ええ、これから報告に行きます。貴方方は先に休んでいて下さい」 
「帰って来たらこっちに来て下さいよ。隊長の分の夕飯も作っているんですから」 
「はい。いつも有り難うございます」 
「あ、いやぁ、こっちは好きでやっているだけで、その・・・」 
 女性の綺麗な微笑みを向けられた途端、顔を赤くする騎士の頭を他の騎士が遠慮なくドついた。 
「てめぇ、ガラにもなく赤くなってんじゃねーよっ」 
「ってー、少しは手加減しろっ」 
「それっくらいでどうにかなるお前か。っと、それよりシルフィス隊長」 
「はい?」 
「今晩、少しだけ、酒を飲んでいいですか?」 
「お酒・・・ですか」 
 二人のやり取りにくすくすと笑っていた女性は騎士の申し出に少し考え込む。 
 任務は一週間。まだあと三日あるが、ここらあたりで一息入れたいのは確かに、人の心理としてあるかもしれない。 
「そう・・・ですね。皆も頑張っていることだし、今晩は一人一本の飲酒を許可します」 
「さっすがシルフィス隊長!話が分かるぜ」 
「ただし」 
 わっと歓声をあげた騎士を戒めるように、女性はビシッと注意事項を言い渡す。 
「周囲の警戒を怠らないこと。そして、必要以上に騒がないこと。いいですね?」 
 少し鋭くなった視線に、騎士二人は思わずこくこくと頷いた。 
 この女性隊長は気さくで話も分かる、実にいい隊長なのだが、規律には厳しく、違反した者には決して甘い顔をしないのだ。 
 一個小隊を預かるだけあって剣の腕は抜群、そんな彼女とタメを張れるのは同僚である銀髪の騎士隊長とクライン王国一の剣技を持つ副団長ぐらいではないだろうかと密かに噂されている。その女性相手に無謀な事をする気はさらさらない。 
 若い女性隊長は己の持つ美貌と実力、そしてその心で見事に隊を纏めていた。 
  
  
「副団長。シルフイス・カストリーズです」 
 一つのテントの前に立ち止まった女性は中にいるだろう人物に声をかけると中から低い男の声で応えが返ってきた。 
「シルフィスか。入れ」 
「失礼します」 
 テントの中に入ると黒髪の男と銀髪の青年が顔を上げる。 
「よ、シルフィス。お前も報告か?」 
「うん、そう。ガゼルも?」 
「おう」 
 同じ時期に騎士としての修行を続けた同期?仲間として、銀髪の青年は女性の心許せる友人の一人である。そのためか、青年に対する言葉遣いはぐっと砕けたものだ。 
「それで、どうだった?」 
 黒髪の男の問いかけに表情を引き締めた女性はてきぱきと巡回の報告をする。 
「・・・というわけで、私の隊で担当していた土地の異常はありませんでした」 
「そうか。ご苦労だった」 
 地図に視線を落とし、女性の報告に頷く男は女性が騎士見習いとして王都に出てきてからの上司だ。その時は大尉だった男も昇進を重ね、今では副団長にまでその地位を上り詰めている。その男の下で修行を続け、見事に騎士となった今でも女性と青年は男の腹心の部下として勤めていた。 
「シルフィス、ガゼル、ご苦労だったな。どうだ、一緒に夕食はどうだ?」 
「やった! 頂きます!」 
「あ、すみません。私はちょっと・・・」 
 上司の誘いに青年は手を打ちつけて喜んだが、女性は申し訳なさそうに断りの言葉を口にする。 
「なんでだ? たまには一緒に食おーぜ」 
「うーん・・・せっかく誘ってもらったのに悪いけど。でも、皆が私の分も作ってくれているんだ」 
「へぇ、マメだなぁ、お前んトコの部下」 
「そうだね。皆、いい人達だよ」 
 にっこりと、てらいもなく自分の部下を褒めるのはこの女性ぐらいだろう。 
 もっとも、彼女の部下達は直接な下心ありで自分の上司に気に入られようと密かな努力をしているだけに過ぎないのだが。 
 美人で気さくで地位もあり、しかも有能で王族からの覚えもめでたい。そんな彼女を狙っている輩は星の数ほどいて、女性の部下達ももちろん、例外ではないのだ。 
 女性自身もいつまでもフリーでいるため、水面下の争奪戦はますます激化していっている。そんなことには気づかない女性は呑気なものだ。 
「それにね、今晩はお酒を飲んでもいいって言ったから。酔っ払う人はいないとは思うけど、万が一ってこともあるしね」 
 『酒』という単語に反応したのは女性の上司である副団長だった。青空の瞳が部下である女性へと向けられる。 
「飲酒を許可したのか」 
「あ、はい。一人につき一本だけを。この辺りで彼らも一息つきたいようでしたので、私の判断で許可を出しました」 
「そういえば、お前の部下達は酒豪と酒好きが揃っていたっけ、確か」 
「まぁね」 
 くすくすと笑みを零す女性もざるとまでは言わないが、なかなかいけるクチだ。以前、女性を酔い潰そうとして飲み比べを挑んだ部下達が逆に潰れたのはあまりにも有名な話である。 
「俺達も騎士見習いの時にけっこう鍛えられたよなぁ」 
「お陰で今、助かっているよ」 
 もし、この話を女性の部下達が聞けば、当時の隊員達を恨むに違いない。 
「ですので、副団長。申し訳ありませんが、私はこれで失礼します。夕食はまたの機会ということに・・・」 
「ああ。そういうことなら仕方あるまい」 
「今度は一緒に食おーぜ、シルフィス」 
 軽く頷く上司とにっと笑い、親指を立てる同僚に軽く頭を下げ、女性はテントを辞すが、数歩歩くと立ち止まり、そっと後ろを振りかえった。 
 月光に照らし出された女性の顔は、先程の冷静な表情とは一変してひどく切なげで、それ故にどこか艶やかな雰囲気を漂わせている。 
「・・・・・・」 
 小さく呟いた声はあまりにも儚く、風がその声を攫ったために誰の名前を女性が呟いたのかは分からない。 
 だが。軽く頭を振り、再び顔を上げたとき。そこにあったのは最年少で部隊を預かるようになった、女性隊長としての凛々しい表情だった。 
  
  
 月の光が森の中を銀色に染める。 
 時はすでに夜半過ぎ。 
 蒼と銀が混在しているような森の中、一つの白い影が足早にある場所へと歩いていた。もともと身軽であるらしく、体重を感じさせないその動きは時折、幽玄の雰囲気を漂わせる。 
 しばらく歩いていた白い人影は少し開けた場所に出ると、眩しそうに瞳を細めた。 
 そこは、小さな泉だった。 
 銀の円盤のような満月の光に照らされ、銀色に輝く泉は神秘的な色合いを見せている。 
「・・・綺麗・・・」 
 感嘆したようなため息が紅く色づいた唇から零れた。もう一歩、泉へと進み出た人影の姿を月光が照らし出す。 
 月光に照らし出された白い人影は騎士服に身を包んだ女性隊長だった。 
 いつもならもう床に就いている時刻なのだが、今晩特別に許可した飲酒のお陰で彼女の部下達はやたらと陽気になり、自分達の隊長にも杯を勧めたのだ。 
 女性は飲むつもりはなかったのだが半ば強引に飲まされ、たかが一本で酔っ払いはしないものの、確実に酔いの残る体から酒気を追い払おうと近くの泉まで水浴びに来たわけである。 
「こんな泉で水浴びするのも気が引けるけど・・・でも、得した気にも 
なるな」 
 やはり、酔いが回っているのだろう、くすくすと上機嫌で笑うと女性は手早く服を脱ぐと近くの樹にかけ、そっと泉に入った。 
「ふぅ・・・気持ちいい・・・」 
 ひんやりとした泉の水は確実に体から酒気を追い払っていく。両手で水を掬い、軽く体にかけると女性は肩まで泉に身を沈めた。纏めていない、腰まで届く純金の髪が水面でゆらゆらと揺れる。高揚した気分のまま、純金の月の精霊のような女性は泉で泳いだり、掬った水を空に放ったりしながら銀色の満月を眺めていた。 
  
  
 カサ・・・ 
  
  
「誰っ!?」 
 微かな下草の音・・・人の足によって起こる音を聞き分けた女性の顔が一瞬にして厳しく引き締まり、小さく、しかし鋭く誰何する。優雅にしか見えないその白い手には何時の間にか短剣が握られていた。 
 神経を集中させ、気配を探る。音がした方向から確かに、人の気配がする。己の気配を消そうともせず、また、殺気や敵意も感じられないが油断は出来ない。 
 女性が見つめる視線の先で一つの影が姿を現した。その姿を見た女性が息を呑む。 
「副団長・・・レオニス、様・・・」 
 眩しそうに瞳を細め、女性を見つめる人物は黒髪と青空の瞳の、彼女の上司だった・・・。 
  
  
(・・・眠れない) 
 時は夜半を過ぎ、いい加減眠らなければならないことは分かっているが、眠りの妖精はちっとも男の上には舞い降りてこない。 
 原因は分かっている。大人気ないとは分かっているが、自分は純金の女性隊長の部下達に嫉妬しているのだ。彼女が自分との夕食よりも彼らとの夕食を選んだがために。 
「・・・少し、見回りをするか」 
 諦めのため息をつきつつ、男は身を起こした。どうしても眠れないのなら、少し体を動かした方がいいかもしれないだろうと思い、テントから外へと出る。 
「今日は満月・・・か」 
 月を眺めると一人の人物を連想する。太陽のように派手ではなく、けれども闇の中では確かな光を放つ月のような女性を。 
「シルフィス・・・」 
 重症だな、と思う。視線は何時の間にか彼女を追い、何を見ても彼女を連想するようになってしまっては言い訳も出来ない。 
 そう、心はすでに女性への想いでがんじがらめに縛られていることを。 
「・・・ん?」 
 鋭敏な男の聴覚に引っかかるものがあった。立ち止まり、気配を探る。 
  
  
・・・ピシャッ・・・パシャン・・・ 
  
  
「水の・・・音?」 
 微かに耳に届いた水の音。この近辺の地図を思い浮かべ、音の方向に小さな泉があったことを思い出す。思い出せば、やたらとその水音が気になった。散々迷ったが結局、その音の正体を確かめに行くことにする。取り越し苦労ならそれに越したことはない、と。 
 そして。男は泉で禊をする月の精霊を目撃した・・・。 
  
  
 ゆらゆらと水面に揺れる純金の糸。 
 木の葉を光に透かしたような新緑の光。 
 水のベールを纏った滑らかな肌。 
 華奢ですらりとした肢体。 
 無邪気に無垢に水と戯れる、まるで月の精霊のような存在。 
 ―――魅入られずには、いられない。 
 自覚する前に体が動いた。 
 足元で下草が音を立て、その瞬間に泉の幻想的な空間が消え去る。 
「誰っ!?」 
 振り返った精霊の手には使い込まれた短剣。 
 剣など似合わぬ容姿を持ちながらしかし今、目の前にいる精霊のような女性は緊迫感という空気を友にしてアンバランスな魅力を放ってている。そして、それがしっくりくるほど剣を握ったその姿は似合っていた。 
「副団長・・・レオニス、様・・・」 
 呆然と呟く女性の姿を、樹の影から出てきた男は少し眩しそうに見つめる。 
 優雅でしなやかな月の精霊の化身もまた、短剣を握ったまま男を見つめたがはっと今の自分の姿を思い出した。 
 そう、水浴びをしている自分が全裸だということに。 
「き、きゃあっ」 
 思い出した途端、真っ赤になって小さな悲鳴を上げ、慌てて肩まで沈んだ女性は泉の水だけでなく、自分の両手をも使って自分の肢体を隠した。 
 そんな女性を見つめていた男がふいに動いた。 
 泉の岸辺に片膝をつき、請う様にそっと片手を差し出す。 
「まさしく、乙女の姿をした月の精霊だな・・・」 
 差し出された手を見つめ、とまどう女性だったが男は気にすることなく水面で揺れている純金の髪を一房、掬い上げた。 
「副団長・・・?」 
「レオニス、だ」 
「え?」 
 短く訂正した男の言葉に女性は更にとまどう。そんな女性の様子が分かっているだろうに、男は頓着することなく己が手にした一房の純金の髪に唇を寄せた。髪に口付けたまま、驚きに息を呑む女性をちらりと見遣る。 
「己の意に染まぬ行為を仕掛けた者を、精霊は決して許さないという。 
その怒りは相手の命でしか鎮められない。・・・お前は、どうする? 
その手にある短剣で、私の命を奪うか?」 
「副団長・・・つっ」 
「レオニスだと言っただろう?」 
 そう言いながら男は手にした髪を引っ張った。軽くとはいえ、引っ張られる痛みに顔をしかめ、岸辺に更に近づいた女性の両頬に男の手が触れる。 
「お前は月の精霊・・・この行為を行う私の命を奪うか?」 
「副団・・・!?」 
「レオニスだ、シルフィス・・・」 
 三度、女性の言葉を訂正した男は再び顔を傾け、先程口付けた女性の唇を奪った。女性の瞳が驚きで見開かれる。 
 深く、深く求められる口付けに体の力が失われ、手にしていた短剣が泉の底へと沈んでいく。 
「・・・ん、は、ぁ・・・」 
 瞳を潤ませ、ため息を零した女性は自分を見つめる男を見つめ返した。 
「私の命を奪うか?・・・お前になら、奪われてもかまわないが」 
 静かに訊ねる男に女性は頭を横に振り、その動きに合わせて純金の髪が水面で揺れた。 
「いいえ・・・いいえ、貴方の命を奪うなど・・・」 
 潤んだエメラルドの瞳が熱を孕み、ただひたすらに男を見つめる。 
「私は・・・月の精霊ではありません。ただの、人を愛する女です」 
 白く、優雅な手が持ち上げられ、男へと差し出される。 
「ずっと・・・貴方を、副軍・・・いえ、レオニス様を愛していました。ずっと・・・」 
 差し出された手を掴み、掌に口付けた男はその手を引き寄せ、細く柔らかな 
体を抱き締めた。 
「レオニス様・・・濡れますよ」 
「かまわない。・・・愛している、シルフィス」 
「レオニス様・・・」 
 真摯で真剣な言葉。それ故に、何も言えなくなった女性は男の胸に顔を埋め、両腕を男の背中に回す。更に男の腕の力が入った。 
「愛しています」 
「愛している」 
 繰り返す、恋人達の囁きは静かな泉の空気に溶けていった。 
  
  
 月の精霊を見かけただろうか 
 満月に輝く泉で水と戯れる精霊を 
  
  
 精霊が両手を広げて貴方を迎え入れたら 
 貴方だけの乙女に精霊はなるだろう・・・ 
 
    幻想的な色艶とでも申しましょうか。素敵ですー!  
    同人誌用にいただいた原稿でしたが、イリスさんがご自分のサイトには  
    アップなさらないそうなので、こちらに掲載させていただきます。  
    イリスさん、ありがとうございました。  
 
 
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