ばしっ!
耳障りな音を立てて、ガゼルの模擬刀が飛んだ。
訓練場にいた全員が息を潜めたが、彼らが予期したような罵声の代わりに、
「やる気がないなら帰れ」
レオニスは低く静かに言っただけだった。
言われたガゼルは黙って一礼すると、落ちた模擬刀を拾ってその場を後にした。
「ガゼル!」
シルフィスが小さく叫んで、上官がこちらに背を向けて見ない振りをしているのを確認すると、そのままガゼルを追って走っていく。
「……ガゼル……」
ガゼルのここしばらくの集中力の無さは、傍から見てもあからさまだった。
他の見習い達はいろいろと取り沙汰していたが、シルフィスには心当たりがあった。
ガゼルがこんなふうになったのは、シルフィスたちが最後のダリス行きから帰ってきた日。
ダリスへの道では同行していた少女が、クラインへは二度と戻ることがなかったあの日からだった。
「みんな心配してるよ」
「うん」
「隊長もすごく気にしてるんだよ、ガゼルのこと」
「別にふてくされてる訳じゃない。ちょっと頭を冷やしてくる。今のままじゃ危ないだけだから」
「……気持ちはわかるけど……」
その言葉に、初めてガゼルはシルフィスの目をまっすぐに見た。
「わかる? お前にわかるのか?」
見送ることができたお前にわかるのか?……そこまでは言わずに言葉を飲み込む。
シルフィスを咎めるような響きはなかった。ただ尋ねただけのその調子に、かえって「そんなはずはない」という強い否定が感じられて、シルフィスは胸を衝かれた。
「……ごめん、私……」
「謝らなくていい。心配すんな。訓練には戻るから、少し一人にしておいてくれ」
そのまま振り向きもせず歩いていくガゼルを、シルフィスは黙って見送るしかなかった。
冬にしては暖かい午後の日差しに、ガゼルは自室の窓を開けてみる。
空が抜けるように青い。
机の上できらりと光る物があった。
それは、小物屋の主人が渡してくれた小さな銀色の円盤。メイが受け取るはずだった物。
受け取るはずだったメイは、もういない。
さよならも言えなかった。こんな別れが来るなんて、思ってもいなかった。
さよならだけじゃない。大事なことは何にも言っていなかった。
円盤を手に取ってみる。
今はこれだけが、自分にとって、メイが存在していたことの証し。
メイが元の世界に帰ったと知らされた時、ただ頭が真っ白になった。
慌てて研究院へ行ったが、メイの部屋は封鎖されていて、近づくことすら許されない。
部屋に行ったとしてもどうしようもなかったのだが、封鎖されているというその事実が、ガゼルにあらためて現実を突きつける。
ようやくキールを捕まえて、その時の話を聞いた。
シルフィスからも聞いていたが、その場にいた他の者にも聞かずにはいられなかった。
「そっか……あいつ、笑って行ったのか……」
「メイにとってはこれが一番よかったんだ。短い間だったけどあいつはここで幸せだったと思うぞ」
キールが珍しく気を遣っているのがわかったが、だからといって、はいそうですね、とにっこりすることもできなかった。
「その……メイの持ってた物はどうなるんだ?」
とっさに浮かんだことだった。形見分け…というと何だか嫌な感じだが、どうしてもメイの物が欲しい気がする。
キールの目が困ったように曇る。メイの私物はすべて研究院が管理するという。
メイの思い出の品を、自分は何も持っていない、と落ち込みかけたガゼルが思い出したのが、あの小物屋だった。
あれはメイと自分だけの秘密。他の奴らは知らない。
あまりに高すぎて一度は諦めたあの小さな銀色の円盤。だけど心底残念そうなメイの態度に、強引に店の主人に頼み込んで、売らないで取り置いてもらっていた。
小物屋に走ったガゼルを迎えた店の主人は、いつもと違う彼の様子に少し戸惑った風だった。
「あの銀色の円盤のことなんだけど……」
「ああ、少しは金ができたのかい? そういえば最近あの嬢ちゃん、見に来ないなあ。前は3日とあけず覗きに来てたのに」
「その……詳しいことは言えないんだけど……」
ガゼルは一瞬言いよどんだが、思い切って言った。
「あいつは、もう来ないんだ」
「そりゃあまた……」
「でも俺が代わりに全額払うから、倍額でも払うから、だから、今まで通り、誰にも売らないでここに置いておいてくれ!
頼むよ!」
主人は少し考える風だったが、店の奥に引っ込むと、すぐに戻ってきた。手にはあの円盤を持って。
「お前さんに渡しておこう」
「え!…でも」
「くれてやる訳じゃないぞ。ちゃんとお代はもらうからな。…お前さんが持っていた方がいいだろう」
「ありがとう! ……俺、おっちゃんの親切、忘れないよ!」
ガゼルは自分では少しも気付いていなかった。
自分がどんなに打ちひしがれた顔で店に入ってきたか。
そして今、どんなに喜びに溢れた顔をしているか。
店の主人でなくとも気付いただろう。少年が少女にどんな感情を抱いていたのか。
多分、わかっていなかったのは当の少年だけだったのだ。
手にした円盤に、自分の顔がぼんやりと歪んで写っている。
この円盤を見つけて、メイを店に連れて行った時のことを、ガゼルは思い返した。
(確かあいつ、めちゃめちゃ大騒ぎしてたんだよな。これは、ナントカだ、とか言って)
あの時メイは何と言ったんだっけ。それからバイトしてでも払うって言って、それからどうしたんだっけ。
メイの表情ははっきりと思い出せるのに、彼女の言葉は思い出すことができなかった。
そんなに以前のことでもないのに、どうしてだろう。
自分はこのままメイのことを少しずつ忘れていくのか、と思うと、無性に腹が立った。
窓から入ってくる空気は少し冷たい。
ガゼルは円盤を両手に持つと、その手をまっすぐ空に向かって伸ばしてみた。
真ん中の小さな穴から青空が見える。
(この穴を通って向こう側に行ったら、メイのいる世界にいけるかな……)
ふと浮かんだ考えの、あまりの馬鹿馬鹿しさに、自分で笑ってしまう。
メイのいる世界……
考えるだけでも不思議だった。
今、メイがいない世界に自分がいる。
自分がいない世界にメイがいる。
「メイ」
声に出して名前を呼んでみる。
円盤の向こうの青空に向かって、今なら言える。
「メイ……好きだ。好きだったんだ」
初めて声にした想いは、小さな青空に吸い込まれていった。
とあるCDを聴いていたら、「君がいない世界では生きていけない」「悲しくて君の名を呼んでももう二度と会えない」
という歌詞が次々出てきて、いなくなっちゃうといったらメイだよなー、と思った結果、できました。
メイの出番がまったくありません。レオニスとシルフィス(あとキール)がいるので許して。
結局、失恋ガゼルですね・・・ごめんガゼル、幸せにしてあげられなくて。
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