五月の恋人
 
 
  ガゼルは弁解しなかった。 
  叱られるのは承知の上でやったこと。ちょっと左の頬が痛いけど、大したことはない。あんな奴のパンチを食らってしまったことの方が痛い。 
  レオニスが渋面で尋ねる。 
「喧嘩は禁止だ。だが理由は聞く。もう一度尋ねる。原因は何だ」 
「特に申し上げるようなことではありません」 
  さっきまで殴り合っていた隣の部隊の連中も、今は同様にそれぞれの隊長の部屋で、上官から問いただされているはずだ。あいつらが何て答えるかは知らない。だが、ガゼルは自分からは何も言うつもりはなかった。 
「・・・ガゼル。最近喧嘩が多すぎる。自ら火中の栗を拾うような真似をわざわざするな」 
  すでにあきらめの境地に達しているのか、レオニスのお説教は珍しく短い。 
「はい、隊長」 
  神妙な顔をして答えたガゼルだが、自分が悪かったとは全然思っていなかった。心酔する隊長に頭痛の種を蒔いていることを、申し訳なく思ってはいるのだが。 
「追って双方に処分が出る。謹慎するほどでもないだろう。午後からの平常任務に就くように」 
  ガゼルは一礼して、レオニスの部屋を出た。 
  騎士や見習い同士の喧嘩は、禁止されてはいるが、日常茶飯事だ。あまりにも頻繁だからこそ、禁止されていると言ってもいい。 
  ガゼルは決して喧嘩を好む質ではなかった。喧嘩っ早いように見えても、人に手をあげるようなことは、元来好きではなかった。だが、ある特定の理由で喧嘩を売られたら、必ず買うことに決めている。その理由とは、恋人シルフィスに関わることだった。 
  
  
  この春、ガゼルが騎士になった時、シルフィスは騎士にはならなかった。ガゼルと心を通わせて女性に分化したシルフィスは、自分の意志で騎士団を出た。ガゼルは反対したが、彼女は譲らなかった。分化した自分は、別の目的を見つけたから、と言って笑っていた。今は、見習いの世話係で引き続き宿舎にいるガゼルの代わりに、市街地のガゼルの家にいる。 
  なんでそういうことになったのか、今思い出してみてもよくわからない。シルフィスが、村に帰らず王都で暮らすことを望んだのが大きかった。三月の終わりに、ガゼルが彼女を家族に紹介したら、家族みんな、といってもとりわけ母親だったのだが、すっかり彼女と意気投合してしまって、そのままガゼルの家で暮らすことになってしまったのだ。一応、花嫁修業とかいうやつらしい。 
  最初、ガゼルは嬉しかった。騎士になるより自分を選んでくれたような気がして。それに、正直、恋人同士で騎士団にいるとか、将来、夫婦になったりしたら(これを考えるといつも赤面してしまうのだが)一緒に騎士団で勤務するなんてことが、可能なんだろうか。前例もないし、想像も付かない。面倒くさいことにならなくてよかったような気にもなったものだ。 
  ガゼルの家にいるといっても、一つ屋根の下に暮らすわけではない。たまの休日にしか会えないのも、見習い時代とは違って、なんだか新鮮で楽しかった。まだまだ恋人同士という実感は少なかったが、少なくとも、騎士団のアイドルだったとも言うべきシルフィスを独り占めしているという状況は、ガゼルにとって大いなる幸福だった。 
  
  
  とはいえ、人生楽しいことばかりではない。本人が幸せであればあるほど、周囲に雑音が起きるもの。 
「シルフィスの方が強かったよな」 
「ガゼルの奴、女に負けるのが嫌で、家に押し込めたんじゃないのか」 
  そんな陰口は聞き慣れた。この程度、シルフィスを恋人にしたらどんな男でも言われるだろう。 
  だが。 
「うまくやったな、シルフィス」 
「どうせ女になっちまったら騎士になれるはずないもんな」 
  シルフィスを侮辱することは許さない。それがやっかみ半分で自分を挑発しているのだとわかっていても。 
  最初のうちは、きっちり勝負をつけるのが男らしいと思っていた。そのうち、いちいち喧嘩を買っている自分が、ちょっと情けなく思えてきた。 
(シルフィスはよくケンカ売られてたけど、きれいにいなしてたよな) 
  自分がもっと大人だったら、こんなことを気にしないでいられるのだろうか。 
  最近、ガゼルは考える。 
  みんながこんなにもシルフィスにこだわっているのは、嫉妬心からだけではなくて、あのシルフィスが騎士団からいなくなってしまったことが納得いかないからだ。みんな彼女を好きだった。自分は彼女にふさわしくないと思われているのかもしれない。 
  しかも。 
  見習いとして優秀な成績を修めていたシルフィス。いまだに多くは伏せられているが、先のダリスとの紛争の終結に当たって、何か特別な任務を果たしもしたらしい。素質もあって、努力もして、人から好かれて・・・・・・ 
  本当は心の底で気になっていた。不安だから、他人に言われると無視できない。 
  シルフィスの方が騎士団に残るべき人間だったのではないだろうか。 
  
  
  午後の任務は二人一組の巡回だった。 
  これまではいつも、先輩騎士との行動だったが、騎士になって一月、今日は初めて同期と二人組だ。パートナーが気心の知れた奴なので、ちょっとほっとする。 
「よろしくな」 
「ああ、こっちもな」 
  午前中のケンカのせいで少し歪んでいるガゼルの顔を見ても、相棒は何も言わなかった。 
  巡回ルートを確認し、帯剣して街へ出る。新米騎士にとっては、まだまだ緊張する瞬間だ。 
  今日は晴天。晴れの日の方が事件が起こりやすいとはいえ、近衛騎士の巡回中にわざわざ騒ぎを起こす輩は少ない。これまでの巡回では、特に大きな事件に出会ったことはなかった。 
  ところが、大通りへの角を曲がったところで、走ってくる数人の子供たちに呼び止められた。 
「騎士さま!」 
「ケンカだ、ケンカ」 
「酔っ払いだよ」 
「すぐ来て!」 
  口々に叫ぶ子供たちに、ガゼルと同僚は顔を見合わせると、騒然としている繁華街の方へ走り出した。 
  人だかりから、わっと歓声が上がる。どうやらそこが乱闘の中心らしい。 
  ガゼルは人垣をかきわけて中へ飛び込んだ。 
「おら〜っ! 街中でケンカは禁止だぜ〜っ!」 
  その声に、足元に何人もの男を転がしたまま振りかえったのは、蜜色の髪を高く束ねた若い娘。 
「あ、ガゼル」 
「シ、シルフィス〜?」 
  一瞬動きの止まったシルフィスに向かって、最後の一人が殴り掛かってくる。 
  ガゼルは反射的に飛び出して、パンチを顔で受け止めた。 
  目の前で星がちかちかする。スローモーションで、シルフィスがくるりとスカートをひるがえして、そいつの腹にこぶしを叩き込むの見える。 
(俺って、かっこわりい・・・・・・) 
  周囲から起こるひときわ大きな歓声や口笛をBGMに、ガゼルの目の前は文字どおり真っ暗になった。 
  
  
「俺がこいつらを自警団に引き渡してくるから、お前はそのお嬢さんからお話を伺っておくように」 
  わざとまじめくさった顔で言ってから二人を残して行ってしまった相棒に、おうと手を上げたガゼルは、大きく息をついた。 
  野次馬はもういなくなって、大通りは普段の姿に戻っている。 
  邪魔にならないよう道端の花壇の縁に腰掛けて、タオルで目を冷やす。今日は殴られてばっかりだ。 
「ガゼル、大丈夫?」 
  シルフィスが心配そうな顔で覗き込む。 
「ああ、大したことねえよ。そういうお前は?」 
「うん。平気。かばってくれてありがとう」 
  屈託なく微笑むシルフィスに、ガゼルはつい口を尖らせる。 
「あのなあ。お前もケンカの当事者だとすると、調書を取らなきゃいけねーんだぞ」 
「通りすがりだったんだけど、見過ごせなくて。取調べられても、別に私は構わないよ」 
(俺がかまうんだよ〜!) 
というガゼルの心の叫びは、しっかり顔に出ていたらしい。 
「迷惑だったんだね、ごめん」 
  そう素直に謝られては、ますますガゼルの立場がない。 
「いいよ。ケンカのメンツがわからないのはよくあることだから、適当にごまかしとくよ」 
  報告書にシルフィスの名前を書いて出したら、隊長がどんな顔をするかな、と一瞬思ったけれど、市民に取り押さえてもらうとは到着が遅いからだ、と結局怒られるに決まっている。相棒も無難な報告書を望んでいるに違いない。 
  どっちにしろ、自分が殴られて気絶して、シルフィスに助けられたなんて、そんなこと書きたくなかった。 
  さっきのケンカを収めた後も、街のみんなが彼女を誉めちぎっていた。今だって、こうして座っている間にも、通りを行き交う人たちの多くがシルフィスに親し気に挨拶していく。 
  少し前の自分なら、この強くて美しくて人気者の女性が自分の恋人であることを、ただ誇らしく思うだけだった。 
  だが、最近の自分は素直にそう喜ぶことができない。 
(シルフィスの方が騎士に向いていたのかな・・・?) 
「ガゼル、怒ってる?」 
「えっ?」 
「ガゼルのお母さんに言われるんだ。スカートはいてる時は蹴りを入れちゃ駄目だって」 
  女らしくおしとやかにしろ、とは言わないガゼルの母だったが、スカートで乱闘するな、とは言ってくれていたらしい。それはそれで大事なことだ。 
「別に、怒ってなんかいないよ」 
「そうなの? ・・・靴屋のおじいさんにはね、女の子は危ないことに首をつっこむもんじゃないって、いつも言われるから・・・」 
  あの頑固じいさんなら言いそうだ、と思ったところでガゼルははっとする。 
「いつも? いつもって、何やってんだよ!」 
「ケンカや恐喝を見ると放っておけなくてね。見習いだった頃は、こんなに軽犯罪が多いなんて知らなかったよ」 
  その生真面目な言葉はガゼルを硬直させた。 
「お前、まさかいつも今日みたいに・・・」 
「うん。でも騎士団のみんながいない時だよ」 
  今日の巡回が自分だったのは奇跡だった。思わずエーベ神に感謝する。 
  だがこんな風に考えるのは、やっぱり自分の見栄なんだろうか。 
  ガゼルの心は揺らぐ。 
(シルフィス、本当は騎士になりたかったとか・・・?) 
  それを見逃すシルフィスではなかった。 
「ガゼル。やっぱり怒ってるんだね。本当ならガゼルがやるべきことだったのに、でしゃばっちゃったから」 
「違う! そんなんじゃねえよ」 
  ガゼルは勢いよく首を横に振る。 
「お前がそういうの見過ごせないって知ってるから・・・・・・」 
  きりりとした瞳で見つめられると、隠し事はできない。ここまで来たら勢いだ。ガゼルは思い切って聞いてみることにした。 
「シルフィス。ほんとは騎士団に残りたかったんじゃないのか?」 
「え?」 
  まったく予期せぬ問いだったらしく、きょとんとした顔でシルフィスはガゼルを見る。 
「だからさ。お前なら、希望すれば女でも騎士になれたんだ。騎士になってれば、ケンカの仲裁だって正々堂々できたし。お前の腕ならもっと重要な任務もまかされただろうし」 
  少し考えるように首をかしげたシルフィスだったが、すぐに微笑んだ。 
「そっか。前にも少し話したけど、でもまだ話し足りなかったかもしれない。それに、あの時はまだ自分でも、ひとに説明できるほどわかっていなかったと思うし」 
  言いながら、シルフィスはガゼルの隣りに腰をおろした。 
  
  
「最初は、騎士見習いになった以上、必ず騎士にならなきゃいけないのかと思った時もあった。無理矢理ってことはなかったけれど、周りのみんなが騎士を目指している中で、隊長みたいに素晴らしい人にも出会えて、男になっていたらきっと迷わず騎士になっていたと思う」 
  ずきり、とガゼルの胸が痛んだ。 
「それって・・・・・・」 
「勘違いしないで。女だから騎士になれないなんて、これっぽっちも思っていないよ。そうだね、もしも好きになったのがガゼルじゃなかったら、やっぱり騎士になっていたかも・・・・・・」 
「はあ〜?」 
(俺と一緒じゃ騎士なんかやってられないってことか〜?) 
  突然の展開に付いていけなくて、ガゼルの頭の中はぐるぐると渦を巻いている。 
「たとえが悪かったかな。ガゼルと一緒に騎士の仕事をするのも、楽しいかな、とも思ったんだけど」 
「俺じゃあ力不足ってことか? 騎士になったお前を守ってやれないからか?」 
  ガゼルは本当は恐かった。答えを聞いたら、立ち直れないかもしれない。でも今聞かなきゃ。今でなきゃ駄目だ。 
  そんな態度を予想していたかのように、シルフィスは穏やかに続けた。 
「騎士になりたいとは、思わなくなったんだよ。むしろ騎士団を出たいと、そう思ったんだ」 
「騎士団が居心地悪くなったのか?」 
「ううん、全然。騎士や騎士団が嫌いになったんじゃない。あそこではいろんなことがあって、おかげで自分も成長した。でも、いつも隊長をはじめとする大きな力に守られてた。分化してみて自分が何を一番したいのか、って考えた時、もっと広い世界に出てみたくなったんだ」 
  初めて触れるシルフィスの本心の一端に、ガゼルは息を詰めて聞き入る。 
「アンヘル村に比べればここは大都会だったけど、去年一年間、私が見てきた王都は、騎士見習いとして見た王都だった。今度は騎士団の外から、王都の一員になって、外から騎士団を、ううん、ガゼルのことを見たいと思った」 
「お、おれ?」 
「騎士にならなくても、何かを守ることってできるよね。私にとって一番大事なのは、ガゼルだったから」 
  そこまで言って言葉を切ると、シルフィスは少し照れたように笑いながら、それでもまっすぐにガゼルの瞳を見つめた。 
「だから、ガゼルの生まれたこの街も、大切なものになったんだ。なのに、私はこの街のこと何にも知らないなあ、と思って。ここに住む普通の市民として暮らしてみたくなったんだ。ガゼルが騎士団に入る前に、ずうっとそうしてきたように」 
  あなたの育った街だから。あなたの育った家で。あなたが暮らした家族と一緒に。 
  あなたの過ごした時間を追いかけてみたかった。 
  知りたいのは、あなたのこと。あなたのすべて。 
  だって、好きだから。 
  シルフィスの緑の瞳が映す真実の言葉は、ガゼルの心に一直線に届いた。 
「私のわがままだっていうのはわかっていたんだけど・・・・・・」 
  言葉の途中で、ガゼルはシルフィスの腕をつかんだ。 
「俺が悪かった」 
「え? だから違うんだよ。ガゼルのせいじゃ・・・・・・」 
「そうじゃない。俺、自分と騎士団のことばっかり考えてた。お前のほんとの気持ち、考えたことなかった」 
  どうして疑ったりしたんだろう。シルフィスが自分のために嫌々犠牲になってるなんて、そんなのは思い上がりだ。他人の言葉に惑わされず、ただ彼女だけを見ていれば悩むことなどなかったのに。 
  今はもう迷わない。自分だってシルフィスが好きなのだ。 
「ううん。私の方こそ、こんな風に自分のことしゃべったりしなかったから」 
  シルフィスの手が、ガゼルの手に添えられる。 
「私たち、こんな風に自分の気持ちを話したこと、今までなかったね」 
「そうだな。まだまだ相手のことで、知らないこといっぱいあるよな」 
  そうして二人は、互いのおでこをこつんと合わせた。 
「へへ。お前のこと、前よりずっと好きになった気がする」 
  両想いになったからって、急に何もかも分かり合えるわけじゃない。恋はこれから。長い長い恋人同士の時間は、ここから始まるのだから。 
  
  
「お取り込み中たいへん恐縮ですが」 
  突然の声にはっとして顔を上げる二人。 
  声の主はいつのまにか戻っていた同僚だった。 
  気が付けば周りには、近所の子供たち、物売りのおじさん、洗濯かごを抱えたおばさん。みんな輪になってこっちを見ている。美味しいものを食べたような笑顔と共に。 
「たはは・・・・・・い、いつのまに・・・・・・」 
「なあ、ガゼル。ちんぴらにやられて気絶したことか、今のことか、せめてどっちかは土産話にさせてくれよな」 
  相棒がにやにやしながら言った。選択の余地はないだろう。女っ気の乏しい騎士団だ。どっちの話がうけるかは目に見えている。 
(まあいいか) 
  冷やかしもやっかみもこれからは素直に受け止めよう。シルフィスは俺の恋人だ。もう誰ともケンカする必要なんかない。 
  そんな気持ちでシルフィスを見ると、彼女もまた笑顔でガゼルを見返している。おかしくて、二人で声をそろえて笑った。 
  五月の空も二人のために笑っているような、晴れ渡った王都の午後だった。 
 

    一度だけガゼルをシルフィスと幸せにしてあげよう。そう思って書き始めたお話です。
    シルフィスは、皇太子妃になったり吟遊詩人のお伴になったりしない限り、女騎士になると設定されることが多いようです。
    ですが、シルフィスが恋人同士で騎士というお話は、隊長の話で書いているので、今回はあえて騎士団をやめさせてみました。
    大袈裟な覚悟をするわけでもなく、さっぱりと新しい道を選べる人って素敵だと思います。
    そういう大事な決断をさせる人に巡り合えること自体が素敵なことです。
    ガゼルにもそんな魅力があると、うまく伝えることができたらよいのですが。
    このまま一度だけシルフィスと幸せなガゼルのままで終わるのかどうか?  
 
 
 
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