四月のさよなら

 研究院の長い廊下に、朝の柔らかい日の光が差し込んでいる。
 アイシュが弟の部屋の前に立って、扉に置いた手に力を込めると、思った通り鍵がかかっておらず、扉はするすると開いた。
 こんな朝早くからキールがいる、ということはつまり、またこの部屋で夜を明かしたということだ。アイシュは眉をくもらせる。
「キール、入りますよ〜」
 扉を閉めて部屋の奥へ進んでいくと、うずたかく積み上がった本の向こうに、キールの背中が見えた。
 ここのところ、この部屋に来る度に、室内の乱雑さが増している。
 以前は物が多いとはいえ、使い勝手よく整頓された部屋だったのに、今では本や道具が使われたそばから積み上げられていて、まったく手入れされていない印象を与える。
 一言で言って、荒んだ部屋だ。
 アイシュが、床や棚に積み上げられた品々に触れないよう、上手くよけながら奥の机にたどりつくと、キールは机につっぷしたままだった。傍らには羽根ペンやインクつぼがそのままになっている。
「ああ〜、やっぱり〜」
 ため息とともに、アイシュはキールを揺り動かす。
「起きてください〜、キール〜」
「うん……」
 ゆっくりと身じろぎしてから、キールが顔を上げた。
 目をしばたかせているその顔は、明らかに、大した時間眠っていないことを物語っている。
「ああ、兄貴か……」
「また徹夜したんですね〜」
 言いながらアイシュは、窓辺でカーテンを引き開けた。
 廊下に満ちていたのと同じ、暖かい光が部屋の中に溢れる。
 キールはというと、まだ完全には目覚め切らない頭で、ぶつぶつと兄のおせっかいに文句を言っている。
「今寝たばかりのに、何で起こすんだ」
「だめですよ〜。ちゃんとベッドで寝ないと疲れが取れませんよ。それに、どうせ食事もろくに摂っていないんでしょう」
 素直じゃない弟の口を封じるかのように、アイシュは手際よく熱いコーヒーを入れる。
「さあ、これですっきりしてくださいね〜」
 もともとキールは、研究に熱中して自宅に帰らず研究院に泊まり込んでしまうことはしょっちゅうだった。寝たり食べたりという生活の基本に頓着しない質で、それはそれで、日常生活をこなしてきた。
 だが、ここしばらくの様子は、今までとは少し、いやかなり違っている。
 まるで、自分で自分を痛めつけているようなところがあって、アイシュはなるべく弟の様子を見に来るようにしていた。
 部屋の荒み具合も、生活リズムの乱れ方も、すべてはキールの心の中を映し出しているものだ。
 今は大人しくコーヒーを飲んでいるキールのことを、アイシュは、クライン中の誰よりも心配していた。
 だから、昨日でも明日でもなく、今日を選んでこの部屋へやって来たのだ。
「今日が何日か、わかりますか〜」
「知るか」
 唐突にも聞こえるアイシュの問いの答えを、わざとはぐらかしたわけではなく、キールは本当に、今日の日付を知らなかった。
 やはり、といった表情で、アイシュは驚きもしない。
「四月一日ですよ」
 その日付の意味を、アイシュは言わなかった。
 キールも尋ねない。
 ちょうど一年前のこの日、異世界の少女がこの世界へ飛び込んできた。そして春を待たぬうちに、女神の大樹の力で元の世界へと帰っていった。
「あの部屋、まだあのままにしているそうですね」
「あの部屋?」
「メイの部屋ですよ」
「ああ」
 突然旅立った彼女の部屋は、彼女が出かけた時のままになっていた。異世界人が使っていた物の魔法反応を、研究院では調べたがっていたが、それを妨害したのはキールだった。緋色の魔導士が渾身の力を込めた封印を、無理矢理に解く度胸のある者は、まだ現れていない。
「そろそろシオン様が開けに来ますよ」
「ふん、上の連中、とうとうあの人に泣き付いたのか」
「いいえ〜、もうとっくにシオン様には依頼が来てたんですが、薔薇が咲いてから、っておっしゃってたんですよ」
「なんだ、それは」
「丹精してる薔薇が咲くまで忙しいからって〜」
「サボリの口実だな」
 空になったコーヒーカップをもてあそびながら、キールは憮然としている。
「待ってるんですよ、シオン様は」
「……わかってるよ」
「キールが泣き止むまで待つって、おっしゃってました」
「誰が泣くか!」
「泣きたい時は思い切り泣いていいんです、全然恥ずかしいことじゃありませんよ」
「だから泣いてないって!」
 ムキになるキールにアイシュは、慰めともお説教ともつかない言葉を続ける。
「あなたは子供の頃も、泣いちゃいけないって自分で決めたら、どこまでも気分の気持ちを押し殺してしまうところがありましたからね〜。涙の後には虹も出るって、昔の歌にもあるじゃないですか。人は泣いた後に笑顔を取り戻すものなんです。雨がやんでお日様が出るのと同じですね〜」
 それを遮るように、キールは音を立ててカップを置いた。
「別に、泣きたいからとか、悲しいからとか、そんな理由であの部屋を閉じたんじゃない」
 どこか苛立った様子で、キールは饒舌になる。
「封印したのは、あの瞬間、とにかく何か魔法を使いたかったからだ。封印を解かないのは、あれから、魔法を使いたくないからだ。……俺には魔法を使う自信がない」
「え…」
「止まない雨はないとか、終わらないトンネルはないとか、よく言うけど、どうしてそんなことがわかるんだ。前に通ったトンネルに出口があったからって、今入ったトンネルに出口があるって、どうしてわかる。昨日の夜が明けて今日になったからって、今日の夜が必ず終わって明日がくると、どうしてわかる。
 ……昨日呪文を唱えた時に力を貸してくれた聖霊が、今日も必ず手を貸してくれるなんて、どうしてわかるんだ」
「あいかわらず理屈っぽいですね、キールは」
 アイシュの口調は変わらない。
「わからないからこそ、信じるんです。明日も朝がくると信じて眠るんです。朝になったら目が覚めると信じて眠るんです。ただ信じるだけです。わかる必要なんかありません」
「そう…なのかな」
「聖霊の力も、それを信じて呪文を唱えることしか、わたし達にはできないんですから」
「……」
「聖霊を疑うのは、自分の力でメイを帰してやれなかったからですか。それとも、帰したくないという、自分の願いが叶わなかったからですか」
「……!」
 弾かれたように顔を上げて、キールはアイシュの顔を見つめる。
「言わなかったんでしょう、メイに、自分の気持ちを。だから後悔しているんでしょう」
「そんなんじゃ、ない」
 そう言ったキールの声は、今までの勢いがなく、その思いが本当はどこにあるのか、あからさまだった。
 少しの間の沈黙。
「行ってくる」
 突然、キールは立ち上がった。
「キール?」
「シオン様に勝手に開けられて、後から自慢されるなんて御免だ」
 メイの部屋の封印のことを言っているのだ。
「私も行きます〜」
 部屋を出るキールの後を、慌ててアイシュも追いかける。
 その問題の部屋の前で、いきなり魔法の封印を解くことをせず、少しの間キールはただ立っていた。
 毎日魔法の研究に打ち込んではいたけれど、この扉を封印して以来、実際に魔法を使うことを避けてきた。
 しかめっ面で扉を睨んで、やはり魔法を使えずあきらめるのかと見えたが、ようやく印を結び呪文を唱える。
 これまでの心中の葛藤にはおかまいなく、すんなりと封印の魔法は解けた。
 解けるに決まっている。それでもキールは、ほっとしたように息をついた。
 数週間閉め切っていただけで、その部屋の中はすっかり埃っぽくなっている。
 もとは倉庫だったから、最初から日当たりのよいところではない。
 それでも、先ほどのアイシュのように、キールが大きく窓を開け放つと、新しい空気とともに明るい光が入り込んでくる。
 戸外では、この窓が閉じられた時には裸だった木立も芽吹き、鳥たちが春の恵みを声高に告げている。
「さっきの話だけど」
 窓辺に立って外を向いたままの姿勢で、キールが話し出した。
「どんな悲しみもいつかは終わるって、兄貴は思ってるのか」
「思っています」
 間髪を入れず、答えが返る。
「必ず笑顔になれるときがくると、信じています」
「そうかな……いや、笑顔になるってのは本当かもしれない」
 アイシュはキールの後ろ姿を、黙って見つめる。
「あの時、なんであんなことを言ったんだろう。なんであんなことしたんだろう。あの時の俺は、なんであんなに馬鹿だったんだろう。そう思って笑っちまうんだな」
「……それでも、笑える方がいいんです。泣いたり、笑ったり、怒ったり、後悔したりしながら、悲しみを飲み込んでいくんでしょう」
 暗い室内を窓の形に白く切り取ったように浮かび上がる外光の中で、キールの姿は黒いシルエットにしか見えない。
「だからキールも、いつでも泣いていいんですよ〜」
「泣いてないって言ってるだろ!」
「さあ、簡単にお掃除をしましょうね〜」
 振り向かないキールをそのままに、アイシュは掃除道具を取りに出ていった。
 キールは目を閉じて、大きく息を吸い込む。
「春なんだな」
 そこで言葉を切って目を開ける。
「否応なく、春は来ちまうんだな」
 鳥の声や木々のざわめきが、四月の空気とともにキールをつつんでいた。


    メイの同人誌『高気圧ビーナス』のために書きました。
    なのに失恋キールです。
    ごめんなさい。こういう動きのない話は、上手い人しか書いちゃいけないんです。でも書きたかったんです。
    タイトルはかなり悩みました。まだちょっと不満。
    テーマはエレファントカシマシの「悲しみの果て」そのものです。
    アイデアは随分前からあったのですが、今回無理矢理書きました。
 

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