朝。ガゼルが訓練場にいると、レオニスがやって来た。
「おはようございます!」
「朝稽古か。久しぶりに私と手合わせしてみるか」
「え、いいんですか。今日は休日だったんだじゃないんですか」
目をきらきらさせてガゼルは答える。正規の訓練以外で、レオニスに稽古をつけてもらえることは、滅多にない。
早起きした甲斐があったと喜んだのも束の間。
びしばしびしばし。
まったく手加減無しでぼろぼろにされてしまった。
「まだまだだ」
そう言うとレオニスは、遅まきながら集まってきた同僚達の驚きのまなざしも気にすることなく立ち去った。
「おいガゼル、お前なにやったんだよ」
「なにって」
「レオニス隊長、怒ってたじゃないか」
「そうか? ちょっと機嫌が悪いだけだろ」
「ちょっと・・・?」
ガゼル以外の者たちには、レオニスの目付きも声音も、いつも以上に恐ろしいものに感じられたのだが、ガゼルはあまり気にしていなかった。
それというのも、彼には隊長の機嫌の悪い理由に心当たりがあるからで、わかっていれば別にとりたてて騒ぐほどのことではない。
王宮の中庭では、アイシュがぼろぼろと書類を落として歩いていた。
くすくすと笑いながらそれを拾って回っているのは、ディアーナだ。
「アイシュ、まだ落としてますわよ」
「すいませんー」
かがんで書類を拾う手元に、影がさした。
「あら」
ディアーナが見上げると、レオニスが見下ろしている。
とっても恐い顔に見えたけれど、それはきっと逆光のせいだろう、と彼女は思った。
「今日はお休みじゃありませんでしたの、レオニス」
「・・・お手伝いいたします」
「ありがとうございますー。助かりますー」
ばさばさばさ
アイシュが立ち止まったりお辞儀をしたりするたびに、書類が落ちていく。
「アイシュ殿。動かないで下さい」
レオニスの声に、アイシュは固まった。
それは、困っている人を善意で助ける場面にはまったく似つかわしくない声色だった。
たとえて言うなら、立てこもる凶悪犯が人質に凶器を突きつけながら言う台詞のようで。
アイシュが戦慄を感じたと言っても言い過ぎではない。
アイシュが動かなければ、書類を拾ってしまうのは簡単だ。
すぱぱぱぱぱぱ
「どうぞ」
「まあレオニス、素早いですわ」
「ありがとうございますー」
一瞬背中に冷たい汗が流れたことはあっという間に過去のことになり、アイシュは心から礼を言う。
「では」
「さようなら、ですの」
立ち去りかけたレオニスは、突然振り返った。
「姫。お忍びはご遠慮ください」
「えっ・・・(ど、どうしてわかったんですの)」
「よろしいですね」
「えーと」
「よろしいですね」
それはたとえて言うなら、結婚の申込みに来た娘の恋人に向かって早すぎると言って睨み付けるどこかの父親のようで(ディアーナは女の子なのに)。
ディアーナの寿命も確実に縮んだと言っても言い過ぎではない。
「うう。今日のレオニス、やっぱり恐いですわ・・・」
ディアーナの呟きは、もちろんレオニスには届いていない。
「だめだと言ってるだろう」
「いいじゃん、課題なら後でちゃんとやるもん!」
「お前はそう言っていつも遅れるじゃないか」
研究院の前に響く声は、キールとメイだ。
「ちょっと街に行ってくるだけだって言ってるじゃない」
「その『ちょっと』が信用できないんだ」
言い返そうとしたメイは、なにか言い知れない暗いオーラが近付いてくるのを感じて、あわててあたりを見回す。
「こ 、このプレッシャーは一体!」
「なにを言ってる。隊長殿だ」
確かに、珍しいことに研究院に向かってレオニスが歩いてくる。
いつも「さわやか」とか「にこやか」とかいう修飾語は決して付かない彼だが、今日はどう見ても、不機嫌という書き文字を背負っている。
「こ、こわ・・・」
「失礼・・・殿下をお見かけしなかったか」
「知らない」
ぶんぶんと首を振るメイとともに、キールも肩をすくめてみせる。
「存じません」
「そうか。邪魔をした」
すたすたすた
それっきり、通り過ぎて行ってしまった。
「それだけ・・・?」
「おおかた、お忍び中の殿下を探しに街へ行くんだろう」
「・・・そうだね・・・」
「で? お前も街に行きたいんだったな」
今のレオニスは、理由は知らないがとてつもなく不機嫌で、凶悪で、冷厳で、とにかく、殿下を見つけたときのリアクションを想像するだけで、恐いものがある。
なにか非常事態なのか、考えてみたがわかるわけがない。
わかるのは、きっと街中で筆舌に尽くし難い修羅場が繰り広げられるだろう、ということだ。
「・・・やめとく」
好奇心あふれるメイだが、命は惜しい。それほどまでに、レオニスの後ろ姿は恐かった。
そして予想通り、お忍びで城下にいたセイリオスはレオニスに発見された。
一国の皇太子が一介の騎士にこっぴどく叱られるという、ある意味とても微笑ましい光景である。
「殿下。即刻王宮にお戻りください」
「もう戻るところだ」
「では、直ちにお戻りください」
いつになく執拗な態度にさすがのセイリオスもたじろぎ気味だ。
「仕事熱心なのもいいが、今日は休暇ではなかったかい」
「たとえ通常の任務が休みでも、見過ごすわけには参りません」
レオニスは、背景にあたかもごおっと炎が燃え上がるかのように言い切った。
だがそれは赤い熱血の炎ではなくて、逆らうことを許さない、気合と執念のこもった説教の炎なのだった。
(何か、私が恨みを買うようなことをしたとでも言うのか!)
と心の中で叫んだセイリオスだったが、向こうの方が正論なので、それ以上抵抗するのはやめて、言う通りにすることにした。
さすがに、王宮まで送ってくるというのは辞退する。
レオニスの雰囲気があまりにも険悪なので、ごろつき除けにはいつも以上に役立っただろうけれど、不機嫌オーラに巻き込まれたくなかったからだ。
触らぬ神に祟りなし。
それでも祟られてしまう者もいる。
陽射しの強い時間を避けて広場に出てきたイーリスは、なぜか人通りがほとんどないことに気付いた。
商売だから、その日の行事などはすべて計算して行動している。
人出や天気を見込んで、広場に出たり出なかったりするのだ。
今日の人通りの少なさはいったいどうしたことか。
歌を始めるかどうか迷っていると、遠くを一人の男が歩いているのが見える。
その男の姿から、イーリスは、なぜこんなに広場が閑散としているのか、の答えを知った。
もとから愛想がいいとは言えない男だったが、今日はまた、たとえて言うなら苦虫を百万匹かみつぶしたような渋面で(厭なたとえだ)、怒っているわけではないのかもしれないが、近付くことを拒む不吉なオーラを発している。
子供なら泣き出しても不思議はない。
人々がおそれをなして、彼に近付かなくなるのももっともだ。
必然的に、彼が街を歩き回れば回るほど、人通りが減っていく。
防犯効果は抜群だが、営業妨害もはなはだしい。
(やれやれ、今日は諦めた方がよさそうですね)
イーリスは、彼の不機嫌の理由には興味がなかったし、慰めたり励ましたり、ましてや和ませたり癒したりする気は毛頭なかったので、さっさと店じまいした。
たっぷり午後の時間を女友達の一人と過ごしたシオンは、上機嫌で居酒屋に入った。
こんな騒がしい店に気楽に入れるのも、勘当されたおかげ、などとのんきに構えていたが、今日はどことなくいつもと様子が違う。
違和感に首をかしげると、店主が泣き付いてきた。
「シオン様、ちょうどよかった。何とかしてくださいよ」
見れば店の隅に、一人飲んでいる男がいる。
落込んでいるようにも見えるが、殺気立った仏頂面で、周りのものは明らかに気圧されて悪酔いしている。
店内には、賑やかなようでヤケクソな雰囲気が満ちていた。
(あー・・・)
できれば関わりたくない、と思ったのに、ちょうど相手が顔を上げたところで、ばっちりと目が合ってしまった。
店主に押し出されるような格好で、しかたなく近寄っていく。
「よー、レオニス、まずそうな酒だな」
「・・・・・・何か」
「お前さんのことなんかどうでもいいが、酒は楽しく飲むのがいい。じゃ」
とっとと退散しようとしたシオンの腕が、がしっとつかまれた。
「お待ちください」
椅子から腰を浮かせたレオニスの目は、しっかりと座っている。
「私の方から申し上げたいことがございます」
「うっ・・・酔っ払いの相手はごめんだぜ」
「中庭での不謹慎な言動はお慎みください。街中でも困ります。風紀が乱れます」
酒のせいか、いつもより十倍は饒舌だ。
「ほっとけ。外では大したことしてねーぞ」
「あなたの存在そのものが、特に年少の者に悪い影響を与えます」
「そこまで言うか、普通」
酒のせいか、いつもより百倍はストレートな表現だ。
「するとなにか。俺の影響を受けちゃ困る奴でもいるってのか」
「一般論です」
「はーん、さては、シルフィスが俺に惚れたら困るなあーとか思ってんだろ」
「シルフィス?」
レオニスは眉間を寄せたかと思うと、ふっと笑った。いつもより千倍は表情豊かなような気がする。
「それはいいんです。シルフィスがあなたに心動かされるはずがありません」
「あのなあ、なんでそんなこと言えるんだ」
「私が決めました(きっぱり)」
「・・・てめー、けんか売ってんのか」
大の男が二人、顔を突き合わせてにらみあっていると。
「隊長!」
一陣の清涼な風が吹き込むように、割り込んできた者があった。
「シルフィス」
「やはりこちらだったんですね。ガゼルに言われて来たんです」
「ガゼルに?」
「はい。今日は休日だったからこちらでお酒を召し上がっているだろうからって。お疲れの様子だったから迎えに行って来いって」
「お前の用事はもう済んだのか」
「はい。軍団長からの急な用向きで、せっかく誘ってくださったのに、すみませんでした」
「いや」
謎はすべて解けた、とシオンは思った。いつになく酒癖が悪いと思ったら、そういうわけだったのか。ガゼルに気を遣われてどうする。
「あー、俺もいるんだけど」
「はい、シオン様。隊長のお相手をしてくださって、ありがとうございます」
(違う! ぜんぜん違う!)
レオニスは、先ほどのまでの勢いはどこへやら、いつものだんまりに戻ってしまっている。
「隊長、もしかして、少し酔ってらっしゃいますか」
「いや」
「駄目です、飲み過ぎては。さあ、ご一緒しますので帰りましょう」
「ああ」
明らかに、あからさまに、今までの万倍は上機嫌な様子で、レオニスはシルフィスに引っ張られて行ってしまった。
かかあ天下決定か、とシオンは思わずため息をつく。
(まあ、あの男が今日みたいな調子で不機嫌だったら、周りが被害甚大だからな)
と見てもいないのに想像だけで、今日の惨状を見通したシオンはさすがに偉い。
こうしてレオニス隊長のブルーな休日は、最後に薔薇色になって終わる。
「ちょっと待て!」
シオンがこちらを向いた。
「なんだ、この話は。シルフィスの出番がこれっぽっちでいいのか。だいたい、ブルーなのはレオニスじゃなくて他の連中だろうが!」
作者に言いたいことがあるようだ。
「こんなの読者が納得しないぞ。聞いてんのか」
いいんだよ。最初からレオシルだってわかってんだから。
「とにかく、俺をオチに使うのはやめろー!」
フェイドアウト
2002年の2月に発行した『Azur−碧空−』のために書いたものです。
「レオニス隊長のブルーな中庭」のシリーズになるのかな?
開き直った結果、こういう路線になっております。
実はこのネタは、今をさかのぼること何年か前、シルフィスファンが集まったチャットで、みんなでおしゃべりしていた時に作ったものです。
その時は、隊長の誕生日のプレゼントが話題になっていて、やっぱりシルフィスが一番だろう、という結論だったのですが、
じゃあもしもシルフィスがいなかったら、隊長は誕生日に何をするの?という話になり、きっと不機嫌だろうねえってことで、こんなことに……。
無理矢理オールキャラにしたのはわたくしの力技でございます。
この頃から語り手というか書き手が出張ってくる傾向が強くなってます(汗)
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