この夜にさよなら
 
 
  初秋の風が吹く夕暮れ近く、神官エルディーアは大通りを広場に向かって歩いていた。 
神官の制服ではなかったけれど、夕食のための買い物をする人々は皆、行き過ぎる彼女に敬意あふれる挨拶をしていく。 
  今日は久しぶりの自由時間だった。 
神殿に勤める身に休日などあるはずもないが、ごくたまに個人的な外出を許される時間がある。 
もっとも、エルディーアは公の買い出しも担当していたので、他の神官に比べれば街に出る機会が多い。 
そうでなければ、仲間との繋ぎがつけられないのだから。 
  そう、神官エルディーアとはあくまでも仮の姿。 
もう一つの姿は、ダリスの間諜白鴉。 
請け負った仕事のためにクラインの王都に潜入中なのだ。 
  今は何の約束も無く、気ままに街を歩ける貴重な時間だった。 
彼女は自分の仕事に誇りを持っている。 
だが時には仕事を離れてのんびりする瞬間も必要だ。 
いやむしろ、緊張と弛緩、そのメリハリこそが快感だとも言える。 
  
  噴水の前に差しかかった時、見覚えのあるピンク色の髪が視界に入った。 
(あれは……) 
  広場の外れの並木の下に少女がうずくまり、傍らで蜜色の髪の人物が屈み込んでいる。 
人目を引きそうな二人なのに、日暮れ時のざわめきに紛れてしまい、誰も二人に注意を払う者はいなかった。 
  気付かない振りをして自分も立ち去ろうかと思ったが、なぜか心ひかれて、そのまま無視することができず、神官らしい親切さを装って声をかけることにした。 
「どうかなさいましたか」 
「エルディーア様」 
  顔見知りの神官の登場にほっとした表情で顔を上げたのは、やはり第二王女ディアーナだった。 
そばに控えめに立つのは巷で噂のアンヘル族の騎士見習いだろう。 
クラインの民族政策が変わったのか、はたまた単なる皇太子の気まぐれか、王都で暮らす羽目になったアンヘルの子供については、エルディーアも当然知識はあったが、会うのは初めてだった。 
逆にディアーナの方は、王家の儀式や聖典の勉強などで頻繁に神殿を訪れる。 
特になじんでいる、という訳でもなかったが、ディアーナにとっては心強かったのだろう。 
「あの、わたくし、転んで足を痛くしてしまって……」 
  痛みを訴えるディアーナの顔は、安心からか、べそをかくように歪んだ。 
「見せて下さいませ」 
  そう言いながら、エルディーアはあからさまにスカートをめくったりせずに、そっと裾から手を差し入れて足首を撫で、腫れの具合を確かめた。 
「少し腫れているようですね。王宮までお帰りになるのはご無理かもしれません」 
  やっぱり、という表情で二人の子供は顔を見合わせる。 
  彼女は素早く考えを巡らせていた。 
ここで王女に親切にして、恩を売っておくのは悪くない。 
だが自分が王宮へ送っていくのはまずいような気がする。 
なるべく目立たないようにしなければならない身。あまり大勢に面が割れるのは好ましくない。 
(さて、どうしようかしら……) 
  先に行動を決めたのは騎士見習いの方だった。 
「騎士団で見習いをしているシルフィス=カストリーズと申します。友人を呼んでくる間、姫のお側に付いていていただけないでしょうか」 
  そう言ってエルディーアに頭を下げた。 
  ディアーナは、通りすがりの神官にそのようなことは頼めない、と言って恐縮した。 
だがエルディーアは、自分にとって都合のいい展開だという内心を隠し、にこやかにそれを引き受けた。 
「それより、このままではもうすぐ辺りも薄暗くなってまいります。どこか座れる店にご案内いたしましょう」 
  その提案に従って待ち合わせの場所を確認してから、何度も頭を下げて走って行くシルフィスを見送ると、エルディーアはディアーナに肩を貸しながら、ゆっくりと広場を横切り、小さな構えの店の扉を押した。 
  
「ここはお茶をいただく店でございます。小さいけれど居心地がよいので、時々こっそり足を運んでおりますの」 
  その言葉通りエルディーアと顔なじみらしい店主は、足をかばってつらそうだったディアーナにすすんで湿布をしてくれた。 
エルディーアが頼んでくれた暖かいハーブティーを手に、ようやく人心地着いたディアーナは、感謝の気持ちをまっすぐに表した瞳でエルディーアを見つめた。 
「ありがとうございました。本当に助かりましたですわ」 
「神官として、いえ、人として当然のことをしただけでございます」 
「でも、あの、わたくしのせいで神殿に帰るのが遅れてしまうのではありませんの?」 
「そうかもしれませんが、ご心配には及びません。神殿というのは姫さまが思うほど、頭の固いところではございませんから」 
  事実、王女を助けたとなれば、一晩寝ずの祈りといったような形ばかりの罰を受けるだけで済むだろう。 
(貧乏人の小娘が相手だったら、どうだかわからないけどね) 
  エルディーアは持ち前の辛辣さで神殿の器量を嘲笑った。 
  目の前の王女は無邪気で、他人の善意を疑おうともしない。 
店主がおまけにと付けてくれた砂糖菓子に喜んでいる。 
そして物珍しそうにあたりを見回しては、彼女にいろいろと話し掛けてくる。 
「お食事は外で食べたりなさるんですの?」 
「じゃあお料理はどなたがなさってるのかしら?」 
  純粋な好奇心のままに繰り出される他愛もない質問。 
いつものエルディーアなら、そのままさりげなく情報収集に入っていくはずだった。 
実のないおしゃべりから情報を拾い出したり、巧みな話術で相手の心をつかんだり、どんなチャンスでも生かさなければ、間諜の仕事は勤まらない。 
そのつもりで王女と二人きりになったはずなのに、どうもいつものペースがつかめない。 
  王女が余りにも無防備だからだろうか。どうせこの娘は何も知るまい、という気持ちがそうさせるのか。どんな相手でも侮ることは危険なのだが。 
  そうやって何とはなしに逡巡していたので、ディアーナに、 
「……それで、エルディーア様はどちらのお生まれなんですの?」 
  と尋ねられた時、思い切り虚を衝かれてしまった。 
「えっ?」 
「あの、エルディーアってお名前、とってもきれいだから、どちらの方なのかなあ、と思って……」 
  尋ねた当人はただの世間話のつもりなのだろう。 
しかしエルディーアにとっては軽々しく答えることのできない問いだった。 
それが相手にとって致命的に危険な質問であることにも気付かない子供。こんな子供、いつもなら軽くあしらっているのに。 
「私は神官になった時から、生まれも育ちも、過去はすべて断ち切って、ただ女神に仕える道を選んだのです」 
  その余りにも子供子供した態度に毒気を抜かれたとしか思えなかった。 
だから公式通りの答えの後、思わず自分の口を付いて出た言葉に、一番驚いたのは、エルディーア自身だった。 
「そうですね、私の名前……エルディーアというのは、遠い西の異国の言葉で『昼』という意味なのです……ディアーナ様のディアも同じですわ」 
「まあ、そうですの? ディアーナというのは大昔の月の精霊の名前だと言われたことがありましたけど、ディアだけだと、西の国では昼間のことなんですのね」 
  女の子らしい興味を一杯に示して、目をきらきらさせながらディアーナは続けた。 
「それでしたら、夜というのはどういう言葉なんですかしら?」 
「夜……それは……」 
  その菫色の瞳に魅入られたかのように、エルディーアが答えてしまいそうになったその時。 
  不意に店の外がざわめき、騒々しく扉が開けられた。 
「ここね? ディア! 足は大丈夫?」 
  クラインには珍しい断髪でスカートも短い少女が飛び込んできた。 
魔法研究院のトップシークレットにしては目立ちすぎの少女だ。 
「ああもう、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、メイ」 
  後ろから付いてきたシルフィスが急いで扉を閉める。 
  さっき友人を呼んでくる、と言ったのはこの少女のことだったのか、とエルディーアは合点がいった。 
  ディアーナの表情も今までよりずっと和んだものになって、 
「迎えに来てくれたんですのね、ありがとうですわ」 
  友人たちに手を差し伸べる。 
「んもー、あんたって、自分が思ってるよりとろいんだから、気を付けなくちゃ!」 
「ううー、わかっていますわ」 
「そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか、ね」 
  差し出された手をがしっと握ってまくしたてるメイを前にして口をとがらせるディアーナと、寄り添って立つシルフィス。 
  三人は、閉店間際で静かだった店内を一気ににぎわし、その場を華やいだ雰囲気にした。 
「メイのほうきに二人乗っても大丈夫ですの?」 
「私も少し心配ですが、この際しかたありません」 
「だーいじょうぶ! 王宮の塀を越える高さくらいまでなら、まあなんとかなるでしょ」 
  彼らの振りまく空気に飲まれたかのように、エルディーアは黙ってその様子を見つめていた。何も言葉が出てこなかった。 
(この子たちは……) 
  ついと立ち上がると、数枚の貨幣をテーブルの上に置いた。 
「ご主人、こちらのお嬢さん方にもお茶を差し上げてね」 
「エルディーアさま!」 
  慌ててこちらを向いた三人にいつもの作った笑顔で答える。 
「よろしいのです。急いでいらしたのでしょう。少し休んでいかれなさいませ」 
「ありがとうございます」 
「あらためてお礼にうかがいます」 
  素直な感謝の言葉を背に、エルディーアは店を出た。 
  
  外はすでに夜の帳が下り始めていた。 
家々の屋根が黒いシルエットとなって、ちょうど色を失い黒へと転じようとしている空に浮かび上がっている。 
西の空には早くも光る一番星が見える。 
  表面上は穏やかに別れたが、彼女の心の中は激しく波立っていた。 
  あの場にあれ以上居続けることができなかった。 
あの子供たちの無邪気さ。素直とか前向きとかひたむきとか、そう呼ぶのかもしれない。 
世間知らずとか甘ったれとかお馬鹿さんとか、そう呼ぶこともできるだろう。 
それらすべてを合わせた、生命の輝きのとしか言いようのないもの。もはや自分が持っていないもの。 
それがまぶしすぎて、あの場に居たたまれなかったのだ。 
  あの三人のことは知っていた。だが三人を結び付けて考えたことは今まで無かった。 
もしも一人一人別々に出会っていたとしたら、けっして気付かなかっただろう。 
(女神に祝福された、というのはああいうのをいうのだろうか) 
  女神など信じてもいないくせに。エルディーアは自嘲する。 
  さきほどのディアーナの問いが甦る。 
『それでは、夜というのはどういう言葉なんですかしら?』 
  夜。それこそ彼女の本当の名前。 
  過去を捨てたのは神官になった時じゃない。本当の名前を捨てて、白鴉の二つ名を得た時。もうずっと前から。 
  皮肉なものだ。「夜」という名を捨て、身を沈めたのが闇の仕事。 
  クラインに潜入するために偽名を決める時、「昼」と付けたのはちょっとした悪戯心ゆえだった。 
だがすぐにそんな戯れの結果の皮肉に気付いた。 
昼の光の中では「昼」の名を持つ神官になりすます。 
けれど夜になっても「夜」の名の自分に戻ることはありえない。 
「夜」の名は捨てたのだから。 
  後悔しているのか、と自分に問うてみる。それとも羨んでいるとでもいうのか。あの力強く陰りのない子供たちを。 
  そこで不意に、エルディーアは我に返った。 
  人影もまばらな広場の端に、少し離れた木立の陰からこちらを窺う一人の男がいる。 
(あれは……あの子の保護者代わりの……) 
  おそらく、帰りが遅くなるのを見越して、こっそり見守っているつもりなのだろう。 
さっきの様子では、見守られている本人は気付いていまい。 
  上手に気配を周囲に溶け込ませてさりげなく立っているとはいえ、普段の彼女ならもっと早く気付かねばならないところだった。 
平凡な神官らしく装っている以上、こちらは気付かない振りをせねばならない。 
だがもしかしたら、気取られたかもしれなかった。 
今の自分は信用できない、と彼女は思った。 
(あの男の立場なら、どこかで作戦全体の進行に関わってくるはず……。私の担当には絡まないでほしいものだわ) 
  そうやって白鴉として計算をしながらも、心はまた違う方へと向かう。 
  こんな時間まであの子供に気を配って。何があの男にあそこまでさせるのだろう。 
  義務。責任感。ただの情。それとももっと深い想い……? 
(ああ、そうなのか) 
  今、彼女にははっきりとわかった。 
  王女と騎士見習いと研究院の居候。 
日の光の世界で生きるあの子供たちを、自分は恐れている。 
  もうすぐ政情は大きく動くだろう。 
自分の仕事は間諜だけではすまず、 次は刺客としての腕が求められるようになる。 
その時きっと、あの三人が自分の前に立ちふさがるだろう。 
理屈ではない。仕事柄、勘は大事にしている。とりわけ悪い予感は。 
あの三人の誰か、もしかしたら全員のせいで、自分の仕事は困難なことになるに違いない。 
  だからといってどうなるものでもないのだ。 
今ここで三人を始末してしまえるわけでもなし。 
  自分で選んだのだ。この道を。 
  疑いも恐れも知らぬ笑顔で、信頼できる友人がいて、ああやって見守る保護者がいて。 
  そんな生き方は捨ててきた。 
  エルディーアとして過ごす昼の光の下の自分は偽り。 
白鴉も夜の闇の中に溶け込むことはできない。 
それでいい。 
愛だのぬくもりだの、そんなものはいらない。 
信じられるのは、ただ自分の強さだけ。 
  二度と昔の名前など思い出すまい、とエルディーアは自分をいましめた。 
(安らげる夜なんて、もうないのよ) 
  顔を上げ、まっすぐに前を見て、神殿への道を歩いて行く。 
  窓に明りのともる街並みも見ない。星をたたえた空も見ない。 
  ただ自分が挑む未来だけを見つめて歩いていく。 
  夜の道を一人、本当に探し求めるものも見ぬままに。 
 
 

    ノーチェとエルディーアの名前の秘密(大げさ)に気付いてから、名前と昼夜とを絡めた話が書けないかなあ、と思っていました。
    「この夜にさよなら」というのは甲斐バンド(古すぎ?)の曲のタイトルです。
    誰かの温もりを探して今夜もさまよう…という歌詞はノーチェじゃないのですが、とても好きな曲なのでタイトルに使いました。
    でも必ずしもタイトルと中身が合っていませんね。というよりストーリー自体ちょっと意味不明かも…。
    事件を起こさないで内面を描写するのは難しいです。独白に頼って単調になっちゃうし。
    力の限界を感じつつ、自分としては彼女に思い入れながら書くことができました。
    最後に出てくる男は誰でもいいのです。王宮の人でも研究院の人でも騎士団の人でも、お好みでどうぞ♪ 
 
 
 
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