まだ夜も明け切らぬ早暁。
神殿のほの暗い祭壇の前に、一人ひざまずく少年がいる。
「女神さま。お願いです。俺をもっと強くして下さい。もっともっと強くなりたいんです」
少年のうつむいた横顔には、自分の未来を信じる若者だけが持つひたむきさと、そしてある意味無邪気な傲慢さとが、同時に浮かんでいる。
願って努力さえすれば、すべてが手に入ると信じている、若さゆえの特権。
「俺、隊長みたいな立派な騎士になりたいんです。絶対なります」
祈っているのか、願っているのか、それとも誓っているのか、少年は自分でもわかっていないのかもしれない。
とにもかくにも自分の思いのたけを、祭壇に向かってぶつけると、満足したように顔を上げる。
その時。
『お前は本当に強くなりたいのか』
突然天から降ってきたかのような声に、少年は金色の目を大きく見開いた。
『もう一度尋ねる。お前は強くなりたいのか』
「はい! なりたいです!」
二度目の問いかけに、今度は間髪を入れず答える。
『ただ願うだけで叶うとは思っていまい。その願いのために何をするつもりだ』
「何でもします。俺ができることなら、何でも!」
祭壇をまっすぐに見つめて、少年は叫ぶ。
『何でも、だと。ではその心根を、見せてもらおうか』
不思議な声に、少年は疑いのかけらも見せず、大きくうなずいた。
「え? ガゼルがどうしたって?」
シルフィスが振り返った。
「だから、お前なら知ってるだろう」
「なんのこと?」
同期の騎士見習いの言葉に首を傾げたシルフィスを見て、もどかしそうに別の見習いが続ける。
「ガゼルに女ができたんじゃないかってことだよ」
「ええっ」
「そんなに驚くってことは、お前も知らないんだな」
「なんだよ、すっかり噂になってるんだぞ」
何がなんだかわからないまま、目をぱちくりさせるシルフィスに、見習い仲間たちが語るには、こうである。
最近ガゼルの様子がおかしい。毎朝早く、隠れるようにして出て行く。訓練までには戻ってくるが、どこへ行っていたのか聞いても、絶対に教えようとしない。
あやしい、と誰もが思った。外で女と会っているのではないか、というのが、男所帯の見習いたちが出した結論だった。
「ガゼルが? 外で? 女の人と会う?」
シルフィスにとっては、初めて聞く話であり、心当たりなどまるでない。
「午前中の訓練の時、なんだか疲れてる感じだし」
「そうそう。女難の相が出てるって、先輩にも言われてたしな」
それは、先輩騎士が、子供っぽい見習いをからかっただけじゃないか、シルフィスは思った。
「それに、背中に長い髪の毛がついてたこともあるらしいぞ。絶対、女だよ」
「そうでしょうか。長い髪の毛と言っても、女の人とは限りません。筆頭魔導士のシオン様だって、長い髪だし」
シルフィスは反論してみたが、
「ガゼルがシオン様と会ってるっていうのか」
「それは、別の意味で、あやしい」
「いや、そういうことじゃなくて」
話がややこしくなっただけだった。
ガゼルと一番親しいのはお前なのだから、真相をはっきりさせろ、と仲間たちに言われたシルフィスだったが、すっかり困ってしまった。
他人のことを詮索するのは、もともと好きではない。ましてや色恋沙汰など、一番苦手な分野である。
面倒なことになった、と思ったのも束の間、さらに面倒なことが起こった。
「シルフィス〜。聞いたわよ〜」
「どういうことですの」
声の主が誰か、考えなくてもわかる。このクラインでシルフィスが最も親しくしている女子、二名である。
さらに説明するならば、本人たちが望むと望まざるとに関わらず、もつれたものをさらにもつれさせてくれることの多い二人である。
「どういうこと、と言われましても」
シルフィスは、振り返りながら笑顔で答えた。かすかに引きつった笑いに、見えなくもない。
「ガゼルに彼女ができたって聞こえたんだけど」
「それは正確ではありませんね、メイ」
「いーえ、あの見習いの人たちはそう言ってましたわ。ごまかされませんわよ」
「そうよ、シルフィス。なんで隠すかな、水臭いじゃないのよ」
「そうですわ、どうしてわたくしたちに隠すんですの」
「つーか、諸悪の根源はガゼルね。ガゼル、許すまじ」
何をどう許さないのか、いまひとつシルフィスには理解できなかった。だからと言って、この二人のペースで話が続くと、大変なことになる。
直接ガゼルを問い詰める、という二人を必死の思いでなだめ、明日の朝は自分ひとりで行くから、と説得した。
「わたくしたちも行きたいですわ」
「だめです」
「なによ。こっそり付いていっちゃうんだから」
「お二人とも」
シルフィスは少しだけ、声のトーンを落とす。
「そんなことをされては困ります」
そういうシルフィスに、普段にはない凄みを感じたのかもしれない。メイとディアーナは、顔を見合わせた後、渋々といった様子でうなずいた。
そんなこんなで翌日の朝を迎えた。
見習いたちや、ディアーナやメイとのすったもんだを、ガゼルに少しも悟らせないところがシルフィスのすごいところでもある。
渦中の人であるガゼルは、自分が隊内の注目を集めていることにまったく気付いていなかった。いつも通りにたくさん夕食のおかずを食べ、健やかに眠りにつき、力いっぱい早起きをして、張り切って出かけていった。
いつも通りでないのは、シルフィスが後をつけていたことである。
朝早いと言っても、まだ太陽は昇りきっていない。真夏の早朝とは訳が違う。
薄青いもやがかかったように眠っている街の中を、早歩きで急ぐガゼルを追いかけながら、シルフィスは思った。
(ガゼルが朝早く出かけていると知ったみんなは、どうして自分で後をつけなかったんだろう)
他の見習いたちに代わって答えるなら、それは、後をつけたとガゼルに知られた時の影響がシルフィスなら最も小さいだろうと思われるからである。ついでに言うなら、シルフィスがお人よしであるという可能性も、否定できない。
いずれにしろ、そうしないと話が進まないから、というのは、言ってはいけないお約束である。
突然、シルフィスは立ち止まった。
ガゼルの姿が見当たらない。
尾行の最中に他の事を考えてしまったせいか、とも思ったが、シルフィスは冷静に辺りを見回すと、ガゼルの行き先を正確に察知した。
この先にある場所で、ガゼルが用のありそうな場所と言えば、神殿しかない。確か新年に、ガゼルが神殿に参拝しているのを見たことがある。
ある確信を持って、シルフィスは神殿へと足を向けた。
祭壇を覗いたが誰もいない。
敷地の奥へ奥へと進んでいくと、奥まった裏庭の方から、人の気配がした。
がさがさと下草を踏み分ける音。
そして、不意にガゼルの大声が響く。
「でやーっ!」
シルフィスは、慌てて声のする方へ走った。
「ガゼル!」
木立の脇から飛び出すと、護身用の小剣に手を添える。もしもガゼルの身に危険が迫っているようなら、なんとしてでも助けなければ。
「無事かっ!」
そんな緊迫した一連の動作を迎えたのは、ガゼルの不審そうなまなざしだった。
「シルフィス? なんでお前がここに?」
先ほどまでは持っていなかった木刀を構えて、ガゼルは背中を向けた体勢のまま、首だけこちらにひねってシルフィスを見ていた。
ガゼルが正対する方向には、やはり木刀を構えた一人の女。
その姿に、シルフィスは見覚えがあった。
「あなたは……白鴉(しろがらす)!」
細かいことは省略するが、かつて白鴉としてシルフィスの前に立ちはだかった女は、今は神官として、神殿で大人しくしているはずであった。
「違うよ、シルフィス」
答えたのはガゼル。
「このお方は、明鴉(あけがらす)。エーべの女神様が、俺のためにつかわして下さった、剣の先生だ!」
「……は?」
シルフィスは固まった。
「俺が神殿でお祈りしたら、剣の稽古をしてくれるって、女神様の声がしたんだ。それからこの先生と一緒に、毎朝秘密の特訓してたんだ」
「……どうして秘密なの」
「先生が秘密だって言ったから」
そう言ってから、ガゼルはばつが悪そうに、先生と呼ぶ女を振り返った。
「うわあ、どうしよう、先生、シルフィスにバレちゃったよ」
シルフィスとしては、ガゼルが隠れて剣の稽古をすること自体は、問題ないと思っている。問題があるとすれば、明鴉と名乗るこの女が、ガゼルを利用して何か企んでいるのではないか、ということだ。
お人好しに分類されるシルフィスだが、この女に関しては、それなりに用心深くなってしまう。シリアスな外見に騙されてはいけないのだ。
「誰にも言わないという約束だったはず」
それまで黙っていた女が、口を開いた。
「でも、俺が教えたんじゃなくて、シルフィスの方がここへ来たんだし」
確かに、シルフィスがここに来たのは、ガゼルが教えたせいではない。しかし、聞かれもしないのに何をしているか話したのは、ガゼルである。
「先生、お願いします、訓練を続けてください!」
ガゼルは必死に頼み込むが、そこへシルフィスが割って入った。
「明鴉…さん。いったいどういうおつもりなんですか」
ことと次第によっては、という意気込みで、シルフィスは尋ねた。
悪意があるとは思わない。しかし、年上の女は扱いにくいものだと、シルフィスは経験上、痛いほど心得ていた。
「別に。他意はない」
しれっとした風に、女が答える。
「素直に善意からと受け取ってよろしいんでしょうか」
慎重に言葉を選ぶシルフィスに、不安になったのはガゼルの方だった。
「なんだよ、シルフィス、俺の先生になんか文句あんのかよ」
「文句なんかないよ。ただ、確認したいだけだよ」
「もしかして、二人とも知り合いなのか?」
妙なところで勘のいいガゼルは、眉をひそめる。自分一人の秘密の先生だと思っていたのに、と顔に書いてある。
「善意も何も」
シルフィスやガゼルの内心をまるで無視するかのように、女は言った。
「暇だったから」
「……あ、そうですか」
「……って、ええっ? 暇って?」
この人ってそういう人なんだよな、とシルフィスが思う一方で、ガゼルは口をぽかんと開けている。
「え、あの、先生ってエーべの女神様のおつかいなんですよね?」
ためらいがちなガゼルの問いかけに、女は答えた。
「その通りだ。ガゼル、神殿でのお前の願いが聞き届けられたのだ」
そうして、びしっとガゼルを指差した。
「信じなさい。信じる者は救われる」
「はいっ!」
ガゼルは目をきらきらさせて、大きく返事をした。
シルフィスはと言えば、それ以上ガゼルの夢を壊さないように、黙っているしかなかった。
今度は女の方から、シルフィスに近づいてくると、ささやくように話しかけてきた。
「シルフィス。私は退屈だけど、面倒を起こしたいわけじゃないの。わかってくれるかしら」
「面倒を起こさないでほしいと、私も心から思っています」
「あなたが遊んでくれないから、この坊やに相手をしてもらったのよ。誤解しないでね」
「あー、はいはい。誤解なんてしませんから」
「相変わらず冷たいのね。まあ、いいわ。あの子なかなか筋がよくて、けっこう楽しめたし」
もう何も言いたくない、とシルフィスは思った。
「なんだよー、なに二人で話してるんだよー」
ガゼルが心配そうに近寄ってくる。そのガゼルに大きく向き直った女は、
「ガゼル、今日はこれで終わりにする。続きはシルフィスがやってくれるはず」
と言い放った。
「え、でも、先生!」
「明日お前が一人で来たら、また続きを。もしもまた、シルフィスがついてくるようなら、もう二度としない」
「わかりました!絶対に一人で来ますから!」
意気込んでガゼルは答えると、いいな、というようにシルフィスを見つめた。
シルフィスも、もう関わりたくなかったので、ぶんぶんと頭を縦に振る。
「ではまた」
そう言ってから、女はもう一度シルフィスを見た。
「ノーチェはいつでもあなたを見ているわ、シルフィス」
そうして、返事を待たずに身を翻すと、木立の中に消えていった。
「見てなくていいです……」
シルフィスは、疲れたようにつぶやく。
「今のってどういう意味だ?ノーチェってなんだ?」
疑うことを知らないガゼルが、首を傾げる。
「ノーチェっていうのは……。きっと神殿の人かなんかだよ」
苦し紛れのシルフィスの言葉に、
「あ、そうか、きっと女神様の子分なんだな。ノーチェ様に言われて、明鴉先生が来てくれたんだな」
ガゼルは一人で完結して、納得してくれた。
「とにかく、シルフィス、さっきの先生の言葉、忘れるなよ」
「え?」
いつでも見ている、という不気味な捨て台詞のことか、と思ってぎくりとしたシルフィスだったが、
「明日からは俺一人で来るんだからな。邪魔するなよ」
「……わかったよ」
いっそのこと、他の見習いたちが言っていたように、普通の女性と会っているのだったら、どんなにかよかったろうに、というシルフィスの心のつぶやきは、当然ガゼルには届かなかった。
「じゃ、シルフィス、先生が木刀二本置いてってくれたから、一勝負しようぜ」
ごきげんなガゼルを前に、シルフィスはもうひとつ、頭痛の種を思い出した。
ディアーナとメイにはなんと言えばいいのか。
女難の相が出ているのは、シルフィスの方だった。
タイトルのインパクトだけで持っている、と言っても過言ではないですね(汗)。すみません。
とにかくノーチェの話が書きたかったんです。
しかし出来上がってみると、シルフィスの話ですね、これは。
ノーチェに振り回されるシルフィス。
これは男に分化したシルフィスで、ノーチェに言い寄られて困っている、という設定にした方がわかりやすかったかもしれません。
でも、あえて男でも女でも、未分化でも、どうでもいいようにしてみました。
女性に分化して隊長とくっついたシルフィスに、レズっ気たっぷりに迫るノーチェってのも考えたんですけどね!
ノーチェとガゼルのコンビも、いろいろいじりがいがありそうです。
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