傷心−chagrin−
  
  王都の裏町のあやしげな宿屋の一室で、彼らは向かい合っていた。質素な服装に身をやつした青年が、粗末な椅子に腰掛けている。こんな胡散臭い場所にいても身に着いた高貴さを隠せない彼が、扉の前に佇むもう一人の人物に呼び出されたのだ。いや、呼び出したのは彼の方だと言うのが正しい。相手はただ場所を定めただけなのだから。  
「本当にいらっしゃるとは思いませんでした、殿下」  
「……尊称で呼ばないでくれ、レオニス……」  
  その青い目が自分を見詰めるのに耐えられなくて、セイリオスは俯く。こうして二人きりになれる瞬間をどんなに待ち焦がれていたことか。隠しているつもりでも、恐らく気付かれていたはずのこの想いを、一度だけでも叶えて欲しくて、文を書いたのが昨日のこと。断られるどころか無視されるのも覚悟の上だったが、思いがけず返事が来たのだ。こんな所を指定して来たということは、レオニスは自分を抱いてくれるのか。羞恥と期待とで胸が震える。  
「……それで、殿下は私に何をお望みなのですか」  
「……愛してくれなどと、無理なことは望んでいないよ」  
  あんな手紙を書いて、そしてこんな場所まで来ておきながら、今更恥ずかしがることはないのだ。もう引き返せないことに変わりはない。  
「ただ、今夜だけでいいから、私と過ごしてほしい……」  
  レオニスが自分をどう思っているかは、正直よくわからない。少なくとも、愛情を持っていないことは確かだ。自分が彼に対して持っているような愛情は、期待すべくもない。だがそれでも構わなかった。同情でも哀れみでもよかった。強制的に命令することだけは避けたのが、最後の矜持というもの。それでも、レオニスが単なる忠誠心に基づいて行動してくれることも、計算に入れていたのかもしれない。それほどまでに、セイリオスはレオニスを求めていた。  
「臣下の者の前でそのような卑屈なことをおっしゃるとは、情けないとはお思いになりませんか」  
  それこそ情け容赦のないレオニスの言葉に、思わずセイリオスは肩を竦める。  
「怒っているのか?」  
  媚びるように上目遣いで尋ねるセイリオスの姿には、威厳も誇りもない。レオニスの口許が小さく歪む。  
  これが日頃尊大な皇太子なのか。王妃の墓前で自分を罵り、妹姫が騎士団を訪れるからと言っては叱責した皇太子。それもこれも私に特別な感情を持っていたからだと? 馬鹿馬鹿しい。  
  愛がなくてもいいからと、一夜の契りを女と交わしたことなら、レオニスにも当然あった。だからこそ、彼自身には、そんなことでは心が満たされるはずもないとわかっている。手紙を読んだ時も、こんな戯言には耳を貸さず、ただ家臣らしく諭して終わりにしようと思ったのに、レオニスの中のもうひとりの自分が囁いたのだ。この王子様を抱いてやれ、と。  
  そうだ、この男は皇太子、現国王の息子なのだ。かつて、自分の想い人を奪い、子を生した男の、血を分けた息子。  
  希望も無く失意の底にあった頃見た、嫌な夢を思い出す。初めて愛したあの人を、あの時の皇太子が組み敷く夢を見て、脂汗をかいて飛び起きたことがよくあった。見たこともないはずのそんな光景を見せる、自分の下衆な心根が許せなかった。長い間忘れていたあの暗い夜の思いが甦る。  
「怒ってなどおりません……ただ……」  
  意地の悪い影がレオニスの表情をよぎる。  
「どうすれば殿下のお気に召しますのか、自分のような者にはわかりかねます」  
  微かに笑みを浮かべているようにさえ見えるレオニスに、セイリオスは目眩がする思いだった。わかっているくせに言わせようとしている。けれど、逆らうことなどできない。  
「……私を抱いてくれ……お願いだ……」  
  ありったけの力を振り絞ったのに、それでもなお弱々しい声しか出ないことに、セイリオスは自分でも驚く。  
「……それでは、お望みどおり抱いて差し上げましょう」  
  セイリオスの肩がぴくりと動く。  
「ですが、私は、女しか抱いたことがありませんので。お心にかなうかどうか、自信はございませんが」  
「敬語で話すのはやめてくれないか……」  
  常と変わらない敬語で綴られる言葉が、いつも見えないレオニスの心を、より一層厚く遮るようで、セイリオスを不安にさせる。  
「いいえ。そういう訳にはまいりませんので」  
  表情を変えないままのレオニスの言葉には、凄みさえあった。そこに込められた自分に対する敵意を感じ取れないほどに、鈍感なセイリオスではなかった。やはり自分は嫌われていたのだな。それならそれでいい。どうせ優しい言葉をかけてもらえることなど期待してはいない。もしかしたら、哀れみで抱かれるよりは憎まれて抱かれる方が幸せだ。たとえ憎しみでも、相手の心の中に自分が強烈に存在していることがわかるなら、それ以上何を望むだろう。  
  それは奇妙な逆転。一見低姿勢で敬語で話す男が、この場の支配者。いつもは人々にかしずかれ敬われる若者は、今はただ彼の前に屈従するのみ。  
  レオニスに促されるまま、セイリオスは服を脱ぐと、寝台に横たわる。明かりが点いたままので、仰向けになるのはさすがに躊躇われ、壁を向く。心臓が早鐘のように打っている。  
「あまり明るいのも、興ざめでしょう、殿下」  
  ランプの火が小さく落とされる。そうして、セイリオスは背中に、レオニスの肌が触れるのを感じ、身体中の血が泡立つ思いだった。  
  レオニスの手が、ゆっくりとセイリオスの身体の上を動いていく。セイリオスは耐え切れず、彼に向き直ってその身体を掻き抱こうとした。だが。  
「私に、触れないでください」  
  初めて間近で覗き込んだレオニスの瞳。そこには、言葉以上に冷徹な拒絶の色があった。瞬間、セイリオスは悟った。彼が自分を抱くのは、憎しみからですらないと。むしろそれは蔑みからなのだと。触れることすら許さないほどの激しい拒絶。それはセイリオスの愛情に対する完全な否定。  
  思考が停止し脱力したセイリオスは、そのままうつ伏せに組み伏せられた。レオニスの指が、唇が、セイリオスの身体の線をなぞる。丹念な愛撫。だがそれは同時に蹂躪と侵蝕。愛が無いのに身体を合わせるということは、人形になるのと同じことなのだ。  
  打ちひしがれた心とは裏腹に、身体は敏感に反応していく。セイリオスはぼんやりと思う。たとえ心が向けられることがなくても、今レオニスの腕の中にいることは変わらない。ならばこの快楽に身を委ねよう。何も考えたくない。頭の芯が痺れていく。  
「……ああっ…レオ…ニス……」  
  何度セイリオスがその名を呼んでも、彼がセイリオスの名を口にすることは、最後までなかった。  
  そのまま後ろから貫かれたセイリオスが、何度目かにレオニスの名を呼んで、その背を仰け反らせた時、細い顎に指がかかり、唇が重ねられた。それが、初めて許された接吻だった。悦楽の波に飲み込まれながら喉を鳴らすセイリオスの手を取ると、レオニスはその手をセイリオス自身のもとに導き、それを握らせた。レオニスの手に包まれたまま自分で自分の中心に与える刺激に耐え切れず、セイリオスは、声にならない声を上げて、自らを失っていった。  
  うつ伏せに手足を投げ出したセイリオスの傍らで、レオニスは黙って服を着ていた。こんな抱き方は虚しいだけだと知っていた。だが後悔はしていない。  
「レオニス……」  
  のろのろと身体を起こしながら、セイリオスは声を振り絞った。  
「何でしょうか、殿下」  
「……最後まで、殿下と呼ぶんだな……」  
  既に自嘲の響きすらない淡々とした口調で、セイリオスは続ける。  
「そんなに私が嫌いなら、なぜ抱いたんだ。男を抱く趣味はないと言っていたのに。……そしてこのまま、君の中では、今日のことはなかったことになるんだろうな」  
「いいえ、殿下。私は今日の日を忘れることはないでしょう」  
  意外な返答に、セイリオスの胸が鳴った。  
「……レオニス?」  
「これから、王宮で、式典の場で、殿下のお姿を見る度に、私は今日のことを思い出すでしょう。この皇太子が自分の腕の下で、どんな顔をし、どんな声を上げていたかを」  
  それは決して美しい思い出として偲ばれるのではない。皇太子の醜態として記憶し続けるという、冥い情熱。そうやって一生、セイリオスを蔑み続けるのだ。  
  セイリオスは、空虚な思いを噛み締める。  
「君は、本当は王家を憎んでいるんだね……皇太子である私のことも……」  
  せめて憎んでほしいという倒錯した願いを込めたセイリオスの言葉に、  
「さあ…それはどうでしょうか」  
  レオニスもまた、彼にしては珍しく、熱に浮かされたかのように喋り続ける。  
「王家は至高の存在として必要です。忠誠を誓っているのは偽りではありません。王家を憎んだこともありません。ですが、王家に属する方々に対しては、個人的にいろいろと思うこともございます」  
  その時セイリオスは気付いた。レオニスは自分を見ていない。自分を通り越して、ここにいない誰かを見ている。……父上なのか。セイリオスは慄然とした。  
「……君は、父上を貶めるために、私を抱いたのか?」  
「……私から申し上げることは何も」  
  否定しないのは肯定の印。  
  そのまま立ち去ろうとするレオニスの背中に、必死になってセイリオスは叫んだ。  
「では、では、私が王家の一員であったとしても、国王陛下の息子でなかったら、今日ここに来ることはなかったと言うんだな?」  
「面白い仮定ですね……そうですね、殿下が仮に、先の妃殿下の隠し子であらせられたとしたら、忠誠をお誓いするとはしても、それ以上特別にどうこう申し上げることは、なかろうかと存じます」  
  レオニスはそこで言葉を切って、この部屋に入ってから今までで、最も柔らかい声で言った。  
「ですが、それは無駄な仮定というものです。殿下は、現国王陛下の実子であらせられるのですから」  
  扉を開けて部屋を出て行くレオニスを、もはやセイリオスは引きとめることもできなかった。  
  マリーレインを抱いた国王の息子だから、だから自分を辱めたのか。だとすれば、もしも自分の出生の秘密を知ったとしたら、レオニスはどう思うだろう。今日のこの醜聞を、心から恥じ後悔するのだろうか。きっとそうなのだ。自分は彼にとって、ある男の息子という、それだけの意味しかない存在なのだ。  
  レオニスにとって、自分は、それ自身としては何の意味も価値もない人間であること。それが何よりもセイリオスを打ちのめした。  
  セイリオスの肩が震え、彼はそのまま寝台の上に突っ伏した。声を上げて泣いているつもりだったが、ひゅうひゅうと掠れた音が喉から漏れるだけだった。それはセイリオスの中で砕けた何かが、彼の喉の奥を塞いでいるからだった。  
 
  
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