ひどく、寒いと感じる瞬間があった。 太陽の照りつける夏だろうが、木枯らしの吹く冬だろうが、それはお構いなしに襲ってきた。例えば咲き乱れる花の群れの中、差し込む日差しの中、ふと肌を襲う喪失感。何人の者に回りを囲まれていようとも、まるで己ただ一人がそこに取り残され、立ち尽くしているような、そんな時。 体を包む寒さは、時に彼を立っていられないほどに動揺させた。 その原因は分かっている。彼自身が知りすぎるほどに知っていて、なおかつそれからは逃れられない。いくら表を飾っても、所詮己は己でしかないのだと。自分を信頼する者を、彼が彼であることを疑いさえしないものを欺き続けるには彼はあまりにも繊細だった。誠実すぎた、と言ってもいいのかも知れない。逃げ出したくなるような脅迫観念。しかしそれから逃れる術はどこにもなく、やはりそこに、薄い微笑みを貼り付かせたまま立っていなくてはならない空虚感。その衝動が、彼を自身の破壊へと導くのか。 それは、彼にとって逃げ道だったのか。それとも、ますます彼を闇の中へと追いつめる、自らの首にかけた縄だったのか。 その答えを知ることも、知ろうというつもりもないままに、彼はまた寝台に身を横たえる。 「ん…っ……」 彼をもてあそぶ指に、手に、体を任せる。 「…ぁ、は……っ…」 肌に浮く汗は、それでも彼がその行為に慣れたことを示していた。それから快楽を得る術を知ったことを表していた。 「ぁ…あ……」 何度、こうやって抱かれたのだろうか。その寒さが彼を襲うたびに。どうしようもない喪失感に嘖まれる度に、彼は、その男を呼んだ。彼を抱く、冷たいままの手。労りなど知らないかのような機械的なその動き。そして、まるで彼を痛めつけて壊してしまわんとでも言うような乱暴な行為。 それらが、彼を喜ばせた。そうやって堕ちていく自分を見るのが心地いい。一人、ここにこうしていることは我慢ならなかった。それが救済にはほど遠いものなのだとしても、そうであることこそが、彼の望みだった。 誰か、この身を貶めて欲しい。 「…お前は……」 闇の広がる部屋で、セイリオスはそうつぶやいた。寝台の向こうに体を起き上がらせ、乱れた着衣を手早く整えるレオニスの背中は振り向かなかった。 「お前は、なぜ私を抱く…?」 その言葉に、レオニスはわずかに動きを止めた。肩からずり落ちた夜着を片手で抑え、セイリオスはもう一度小さくその問いを繰り返した。 「なぜ……」 「命令ですから」 いらえは、冷たかった。セイリオスの頬に浮かんだのは、取ってつけたような薄い微笑。 「そうしろと、命ぜられたから、と?」 「そうです」 身支度を終えたレオニスは、いつものように、セイリオスの方を振り向こうとはせずに立ち上がった。 「レオニス……」 寒い。凍えそうに、体が戦いた。体中を走る悪寒に耐えきれず、セイリオスは震える指を伸ばした。しかし、その指は彼には届かない。セイリオスは体を起こし、身を乗り出してレオニスの背中を追いかけた。 「待て、レオニス」 振り向いた青の双眸は、決してセイリオスを温めるためにそこにあるのではないのに。それが、まるで真冬の空の下、焚かれた赤い炎であるかのように、セイリオスはそれにすがった。 「…もう、一度」 浮かんだ笑みは、嘲笑だった。彼の冷たい美貌は、そのように笑うと凄みを増した。それでも、それが彼を包む優しいそれであると、セイリオスは夢想する。それが、彼自身を求める優しい恋人であるとでも言わんばかりに、その思いに身を投じ、セイリオスはレオニスに腕を投げ掛けた。 レオニスが寝台に膝を乗せるか乗せないかの内に、セイリオスの唇が彼のそれを奪った。吸い上げて、レオニスの舌を絡めとる。舐め上げて自身の体液をこすりつけて。重なり合った唇の隙間から、透明な唾液がこぼれて落ちた。 「ん……っ…」 申し訳程度に夜着を羽織っただけのセイリオスの体が寝台に押し付けられる。その胸が荒々しくはだけられて、上下する胸の突起が指先に押しつぶされた。 「は、ぁ……」 最初は、そのような愛撫に性感は目覚めようとはしなかった。組み敷いた女性のそれをそのように弄んだことはあっても、そうされるべき立場には、彼はなかった。この男の前で初めて、己の位置を下に置き、男にもてあそばれる立場に立つことになった。そうすることで、わずかづつ、自分の知らないところで体が変わってきているような気がする。 肌を走る手のひら、指で与えられる愛撫、舌先でなぞられる濡れた感触。それら全てが、今のセイリオスの性感を刺した。まるで、男の腕の中で喘ぐ女のように、セイリオスは淫らな声を続けざまに醸し出した。 「あ、ぁ、っ…」 その声が上がるたびに、レオニスはやはりあの嘲笑の色を帯びた笑いを漏らした。ときには、嫌悪そのものというように眉を顰めることもあった。そんなふうに嘲られる自分が、何よりの快感だった。 「…ぁ…ぁっ……」 レオニスの指が腹部まで伸びて、腰に至る皮膚をわずかにつまみ上げた。それに、びくりと腰が震える。続けて、舌が這った。体の側面を舐め上げられて、咽喉がのけ反った。 「や、ぁ…っ…」 自分の体に潜む秘密を、レオニスに教えられた。自分の、そのような場所から性感が呼び起こされるなどと、レオニスと体を重ねるまでは知りもしなかった。胸の突起が立ち上がり、そこをわざとのように髪でくすぐられるたびに体が跳ねた。 「っ…ぁ……」 腰を押さえられて、そこに息づく彼自身を握り締められる。無意識のうちに、その直接的な刺激から逃げようとする腰は強く寝台に押し付けられたままだ。 「や、っ…っん…ぁ…」 それに、唇を寄せるようなことはしなかった。レオニスは、片手でセイリオスの腰を押さえたまま、もう一つの手で荒々しい刺激を加えるのみ。そう、それ以上の行為は恋人同士の間にのみ交わされるべきものだった。舌を使った柔らかな愛撫も、唇を寄せる優しい行為も。 レオニスは、ただセイリオスの中に宿る性感を最も直接的な方法で誘い出そうとしているにすぎなかった。そして、そんなセイリオスの視線に入るレオニス自身も、感情などはどこかに置き去りに、ただ男としての性を目覚めさせられているだけなのだ 「ぁ、ぁっ……っ…」 何度も彼を受け入れて、最初の頃ほどには入念に解きほぐされずとも、セイリオスにはレオニスを受け入れる用意があった。濡らした指で何度か入り口を刺激され、くすぐられるだけで、それに過敏に反応するセイリオスとともに、その場所はレオニスの侵入を許した。こじ開けられる痛みは最初だけ、やがて、セイリオスの口から漏れ出したのは今までとは比べ物にならないほどの愉悦の叫び。 「あ…っ…、…っ…ん」 最奥にレオニス自身が突き当たるたび、セイリオスはもがいた。寝台にひかれた白い布を握り締め、ぎりりと歯を鳴らしてその強すぎる快楽から逃げようとする。それをレオニスは許さずに、まるでそれが拷問であるかのようにセイリオスの腰を押さえ、さらにその奥を探りださんとでも言うように強く押し付けた。 「…ぁ………」 声がかすれ、歯を鳴らす力も失い、ただ襲い来る快楽に耐えるのみだったセイリオスは、やがて体の奥に放たれる、熱い息吹を聞いた。その瞬間は、彼は身を襲う寒さを忘れた。その刹那だけは、彼に満たされる幸福を与えた。たとえ、それが偽りに塗りこめられているとしても。それが、何よりも明白に分かり切っていることだとしても。 「……っ…」 内臓をかき乱される厭わしさは、その後に来る。濡れた音を立てて、レオニスが体の奥から去った。体の中に残されたレオニスの精は内臓に染み渡り、吐き気を催すほどの不快感となった。そうされるべきでない体が、その扱いに不満を訴えているように。 「…レオニス……」 うわごとのように、セイリオスは言う。 「なぜ、私を……?」 「…命令、ですから」 繰り返される、同じ問答。 「…それだけ、か?」 「それだけです」 反覆を続ける、空しい応答。 「…では…」 用は済んだとばかり、体を起こすレオニスを追いかけて、セイリオスは言った。 「では、私を愛せ」 初めて、自分の言葉がレオニスを振り向かせたと、セイリオスを驚きとも喜びともつかない感情が襲う。レオニスは、自身の感情を表すことはついぞない顔に驚きを走らせていた。 「命令だ。私を、愛せ。お前が、昔愛した女のようにな」 「……」 レオニスの瞳が、妖しい色を帯びる。それは、まるで月夜に広がる空のようだった。彼の瞳の色は、昼間見る晴天のそれだったはずだ。彼がその色を失っていくのを、セイリオスは見た。 「私が命ずるのだぞ?私を……」 手が伸びて、セイリオスの肩が掴まれた。あ、と思う暇もなく、彼の唇はレオニスのそれにふさがれ、セイリオスは一時声を失った。 「……っ…」 重なり合っただけの唇は、すぐにほどかれた。セイリオスの次の言葉を吸い取ろうとでも言うようなレオニスは、セイリオスと視線が合う前にそれを反らせた。 「出来ないか」 重なったばかりの唇を指先でなでて、セイリオスは言った。 「たとえ、その者のことをなんとも思っていなくても、抱くことが出来る男だろう、お前は。それどころか、その者を憎んでいても、さげずんでいても」 レオニスの瞳が、薄闇の中でわずかに光る。 「それが出来る男だよ、お前は。そして、決してその者に心を与えないということもな」 「殿下」 セイリオスの言葉を遮るような、レオニスの重い声が響いた。それは、セイリオスの低い笑いに打ち消される。 「それでいいのだ、お前は。お前が、そう言う男だから、私は……」 再びのくちづけは、セイリオスからのものだった。 知っている、レオニスが自分をどう思っているのか。立場も身分も下であるこの男に抱いてくれとすがり、その腕の中で女のように善がり、嬌声を上げる自分を彼がどう思っているのか。背徳以外何ものでもないこの後ろ向きな行為を何度も繰り返す、そしてそれに首まで溺れきる自分を。 そんな自分を見る、レオニスの視線が何よりも心地よかった。その瞬間だけは、自分が何者であるのかを忘れることが出来る。まるで女郎屋の男娼か何かのように身を落とすことが許されるのだと、その時だけは本来の自分に戻ることが出来るとでもいうように、セイリオスはその刹那だけを求めた。 「もっと、私を貶めろ」 貶めて、この体をずたずたに切り裂いて欲しい。自分が誰であるのか、忘れてしまうほどに。自分の存在の意味など、何もなくなってしまうほどに。貶めて、下げずんで。 「…心など、いらない」 セイリオスの呟きは、霧よりも淡かった。 「こんな私に捧げられる心など、全て偽りだ」 皇太子に捧げられる忠誠も、忠義も、すべてはこの身が受けるべきものではない。それは、はるか昔に墓の下に行ってしまった見も知らぬ男のもの。その彼と同じであるというこの髪の色も、瞳の色も、全て、自分をまやかしの世界につなぎ止める枷でしかない。 「そんなものは、いらないんだ……」 セイリオスは、その頬をレオニスの肩に押し付けた。まるで甘えるかのようなそんな行為を、レオニスはこの度のみは振り払わなかった。ただ、重く小さく、こう尋ねただけだった。 「…シオン様は…?」 セイリオスが、ぴくりと身を起こす。意外な言葉を聞いた、とでも言わんばかりにレオニスの瞳をまじまじと見つめた。 「シオン……?」 レオニスは、それ以上は何も言わなかった。その言葉の真意を探ろうと、その顔をしばし見つめた後、セイリオスは眉を顰め、首をかしげ、そしてそれを緩く、何度か振った。 「……全ては、偽りだよ」 少しだけ陰った青の双眸に宿ったものは、悲しみのように見えた。 |
|