これがはじまりの夜ならば
暖房の効いた理事長室で、和希はネクタイを緩めた。
目の前には、たった今秘書が置いていった報告書がある。
天下に誇る鈴菱の力を持ってすれば、調べようと思って調べられないことなど、この世にはない。
幼くして別れた日から学園に転入させた日まで、伊藤啓太の行動を何から何まですべて把握していたように、和希が知ろうと望んだことは、必ず知ることができる。
この報告書も、それを証明するものだ。
数ヶ月の間行方を探していた元学生。
ようやく見つけた、と心の中でつぶやいて、和希は報告書を手に取った。
岩井卓人。その名前を見るだけで、改めてふつふつと怒りがこみあげてくる。――俺の啓太とMVP戦に出ておきながら。
啓太の窮地を救うために開催したMVP戦で、その啓太がパートナーとして岩井を選んだ時は、めまいがした。
ついでに激しい動悸と息切れで、危うく呼吸困難になるところだった。
鈴菱で鍛えた強靭な精神力のおかげで持ちこたえたとはいえ、あまりに意外な伏兵の登場に、開いた口がふさがらなかったのは事実だ。
これで啓太がMVPを取れなかったらどうしてくれよう。
そう思って、当初の予定に二重にも三重にも輪をかけて、啓太MVPへの道を念入りに準備し裏工作したものだった。
なんとか無事に目的を達成し、ほっと一息ついたのも束の間。――俺の啓太を置いて出て行くなんて、どういうつもりだ。
岩井卓人は、啓太にも寮長の篠宮にも何も言わず退学してしまった。
これで、もしも啓太が涙を見せたりしたら、ただでは済まないところだったが、二人の間柄というのは、和希が考えたようなものではなかったらしい。
肝心の啓太が、残念がってはいたが失恋したようには見えなかったので、純粋に、親切心と同情心から岩井と付き合っていたのだろう、と和希は結論付けた。
その後、岩井のことをいろいろと調査させ、複雑な事情を背負っていたことを知った。
かつてのしがらみを断ち切るために、随分と啓太が心を砕いたらしいことも知った。――さすがは俺の啓太。
その後、啓太は学園内でとくに恋人を作るわけでもなく、今までどおり、和希も親友のポジションをキープしている。
そういう意味では、心優しい啓太のことを誇らしく思いこそすれ、啓太のことで岩井に怒りを感じるのは、筋違いのようにも見える。
ようやく提出された目の前の報告書を読むと、岩井が首都圏の繁華街で働いていることがわかる。絵筆は完全に置いたようだ。
いかがわしいことをしているわけではないようだ、と和希は確かめる。
そんな可能性を考えること自体、悪意のある行動なのかもしれない。
だが、そんな意地悪な気持ちになるのも、多少は止むを得ないところがある。
和希が岩井へこだわる原因は、啓太のことだけではなく、もうひとつあった。――俺の学園を勝手に辞めるなんて。
和希は、学生としても理事長としても、この学園を心から大切に思っていた。
このベルリバティには、どんなに自分から入りたいと願っても、プラチナペーパーが届かなければ入れない。
理事会を中心に厳選した人物だけを入学させている、というのが経営者サイドとしてのプライドだ。
確かに今までも、怪我をしたりいろんな理由で、こちらが見込んだ通りの成績を残せない学生はいた。
それでも学園側から追い出したりなどは、けっしてしなかった。
だからこそ、勝手に退学勧告など出した副理事の横暴振りが際立つことになる。
それなのに。
啓太と学園、自分が愛するこの二つを完璧に否定した男を、はいそうですかとそのまま捨て置いていられるほど、鈴菱和希はお人好しではなかった。
だからといって、わざわざ鈴菱のネットワークを使ってまで復讐しようというわけではない。
今の二つは、岩井に好感情を持っていないという理由にすぎない。
行方を捜していたのには、別の理由がある。
もっと具体的で、とてもシンプルな理由が。
啓太の絵。
岩井が学園を離れる前に描いたという啓太の絵を、和希はどうしても手に入れたかった。
啓太にそう言ったら、「岩井さんはもう捨てちゃったかも」と言っていた。
既にこの世に存在していないというのなら、それはそれで構わない。
もしかして岩井が持っているかもしれないし、持っていないかもしれない、というこの非常に中途半端な状態が嫌なのだ。
啓太は、別に恥ずかしい絵ではないと言っていた。
もしも恥ずかしい絵だったとしたら、秘書たちは光速よりも速く岩井の行方を捜すことを命じられ、今ごろ既に画家の命はなかったであろう、と和希はしみじみと岩井の幸運を祝福した。
どちらにせよ、啓太の絵を確認するのに、秘書に任せることなどできるわけがない。自分の目で確かめねば気が済まない。
和希が岩井の行方に執着するのは、あくまでも啓太至上主義という名の自分至上主義に基づく行動なのであった。
だからその日、和希は岩井に会うために、その場所にやって来ていた。
いつもの車は目立つので、離れたところで待たせてある。
雪が降ってもおかしくないほど冷え込んだ夜の街角で、マフラーをしてオーバーの襟を立て電柱の陰に身を隠す姿は、どことなく不審者に見えなくもなかったが、目的のためには手段を選ばない和希にとっては、問題にもならない。
そこからは、あるレストランの裏口が見通せた。
小さいながらも瀟洒な造りの店で、値段の割に味はいいと評判らしい。
鈴菱和希として来ることはまずないだろうが、大学生や若いサラリーマンが恋人を連れてくるなら、充分過ぎておつりが出るところだろう。
閉店時刻を回って、もうしばらく経っていた。従業員である岩井が出てくるのではないかと思って、こうして待っている。
待つのは苦痛ではなかった。
啓太と学園とを捨てた男相手にどんな会話をすることになるか、明日の鈴菱、否、明日の日本を背負って立つことになろう明晰な頭脳でシミュレートしているだけで、時間はあっという間に過ぎていく。
ちょうど腕時計で長針が七を差しているのを確認した時、裏口が開いた。岩井卓人だった。
戸口脇のポリバケツのふたを持ち上げて、大きなゴミ袋を入れている。
ウェイターの服をきっちりと着込んでいて、学生時代の制服のような着崩れはまったく見られない。
テレビ好きなら「○風カレーのコマーシャルみたい」、ヲタク女なら「カフェ○△×みたい」などと言うところだろうが、超高級レストランの常連であるところの和希にとっては、本物らしい格好をしているな、という程度の感想しかなかった。
要するにギャルソンスタイルというやつである。
もともと背は高い方だったが、以前よりがっしりとして見える。
少し髪が伸びたかもしれない。
一瞬のうちにそこまで観察して、和希は声をかけるタイミングを計っていた。
その時、岩井が顔を上げた。明らかに、和希の方を見ている。
勘付かれたと悟った和希は、ためらうことなく、電柱の陰から足を踏み出した。
岩井の勘がいいのか、和希の存在感が強すぎたのか、どちらなのかはわからない。
「お久しぶりです、岩井さん」
岩井の前に立って、和希はまっすぐに相手を見据えた。
学園の外ではあるが、学生らしいカジュアルな服装でいる。
夜分にこのような場所で会っても、不自然ではない格好のつもりだ。
これなら完璧に、学生遠藤和希で通用するはず。そう思っていたのだが。
岩井の方は、手にポリバケツのふたを持ったまま、不審そうに和希を見返してきた。
少しの沈黙の後、口を開く。
「・・・・・・失礼ですが、どちらさまでしょうか」
和希は二の句が告げなかった。まったく想定外の事態だった。――忘れているだと、この俺を。あんなに啓太と一緒にいたこの俺を。
それでも表面上は平静を装って、不本意ながらも自己紹介をすることにする。
「遠藤です。ベルリバティで伊藤啓太と同級生の」
「・・・・・・ああ」
岩井は小さく呟いた。
「すまない、随分感じが変わっていたものだから・・・・・・」
「そうですか? 私服ですからね」
制服ではないからわからなかったのか、と和希は気を取り直した。
社会に出て働き始めたからといって、急にはきはきした人間になると期待したわけではないが、はっきりしない態度で挨拶した後、黙ってポリバケツのふたを戻したりしている岩井に、どうしてもじれったさを感じてしまう。
本来なら社交辞令として、「すっかり冷え込んできましたね」とか「全然お変わりなく」とか「まあすっかり見違えてしまって」などと、無駄な挨拶を並べるのが日本人の礼儀だが、面倒なので早めに本題に入ることにする。
「啓太は元気かとか、聞かないんですか」
「いや・・・・・・啓太はきっと元気にしているに違いないから」
「すごく心配してましたよ、岩井さんのこと」
今のところ共通の話題は啓太のことしかないので、ここを突破口にするつもりだ。
なにせ和希にとって、岩井と二人きりで長く会話するというのは、初めての体験なのだから。
「・・・・・・啓太には、遠藤がいたから」
「は?」
「遠藤みたいに、本当に啓太のことを考えてくれる人がまわりにたくさんいるから、だから啓太のことは心配していないんだ」
会話がかみ合ってないような気がするのは、和希だけだろうか。
「いえ、岩井さんが啓太を心配してるかどうかじゃなくて、啓太が岩井さんを心配してるって言ってるんです。大切にしていた絵もやめてしまって、自棄になってやしないか、行き倒れてやしないか、そりゃもうとっても心配してたんですよ」
言いながら、和希は自分でも妙な気がした。これではまるで、啓太がどんなに岩井のことを好きだったかを、知らせにやって来たみたいではないか。
「・・・・・・すまない。でも、もう、絵を描かなくても平気だから」
「平気?」
「ああ。絵を描かなくても、自分は自分だと、思えるようになったから」
「でも、あんなにすごい才能があったのに」
思わず、和希は学生の才能を惜しむ理事長のスタンスになってしまう。
「才能なんて・・・・・・あんな才能、親からもらっただけだ。才能があるからそれをやらなくてはいけない、そう思うからつらくなった。そんなことはないと、教えてくれたのが啓太だったんだ」
もっと哲学的というか形而上学的というか、要するに小難しく訳のわからない理屈を並べてくるかと思ったら、やけに直球ど真ん中の答えが返ってきたことに、和希は少なからず面食らった。
どう言ったものか、ちょっとの間考えていると、
「遠藤は、啓太に頼まれてここへ・・・?」
先に岩井の方が尋ねてきた。
「いえ、そうじゃありません。実は、岩井さんが描いた絵のことで」
「俺が描いた?」
いぶかしそうに首を傾げた岩井の背後で、突然ばたんと扉が開いた。
見れば、小柄で中年の、というには失礼かもしれない年代の男が、蝶ネクタイ姿で立っている。
「岩井君、どうしたの」
この店の雇われ店長のはずだ。秘書の報告書によれば、どういう縁でか、岩井はこの店のオーナーに拾われて、ここで働くことになったらしい。
「すみません、来客があって・・・・・・」
岩井の言葉にこちらを見た店長に、和希が軽く頭を下げる。
「申し訳ありません、仕事の邪魔をして」
「ほうーっ、珍しいね、っていうか初めてじゃない?岩井君の友達が訪ねてくるなんて」
こんなやつ友達じゃない、と思った和希だったが、口には出さないでおく。
「いや失礼、はじめまして。よかったら中でお話ししていってくださいよ」
客商売らしい人懐こさで、店長は手招きする。
予想外の成り行きに戸惑ったが、意外にも岩井がうなずいたので、それに促され和希は店内に足を踏み入れた。
通されたのは、厨房脇の小さな部屋だった。従業員の控え室らしい。
「今晩はシェフが新メニューの続きをやりたいって言ってるから、明日少し早く来てくれればいいよ」
そう言って店長は厨房に引っ込んでしまった。
コートやマフラーを外して、狭い部屋のテーブルに向かい合って座る。
見慣れないレストランの裏舞台が珍しくて、テーブルクロスや大判のナプキンが積み上げられた室内を和希が見回していると、また岩井の方が口を開いた。
「遠藤はビールを飲むか」
「えっ?」
何を唐突な、と返す間もなく、岩井は続ける。
「ベルギーのビールがいつも余ってしまうんだ。ワインか日本のビールを頼むお客さんが多いから」
「・・・・・・えーと」
「グラスを持ってくる」
本当に立ち上がりかけた岩井を、和希は慌てて制した。
「岩井さん、俺が下級生だったこと、覚えてます?」
岩井の年令については、こういう店で働いていることだし、触れないでおくのがよいだろう。
「覚えている。一年生だった。・・・・・・だが、なんとなく、なんだが、年上のような気がしたから・・・・・・」
「なに言ってるんですか、岩井さん」
和希は焦った。自分はここで何か大人びたことをしてしまったのだろうか。それとも、目の前のこの男、そんなに勘の鋭いやつだったのか。
「・・・・・・そうだな、遠藤はビールという感じじゃない。もっと高い酒を飲んでいそうな感じが」
「そんなことないですよ。いいんです、酒のことは、どうだって」
強引に話題を換えようとしたせいで、年令のことを否定するのを忘れてしまっている。
だいたい、年上かもしれないと言っておきながら、岩井の言葉遣いが変わらないのもおかしいのだが、それに突っ込む余裕もない。
とにかく啓太がモデルになったという絵の話をして、とっととこんなところからおさらばしよう。それが和希の目論見だった。
「岩井さん、啓太の絵を描いたそうですね。MVP戦の時に」
岩井はうなずく。
「はっきり言います。俺、その絵が欲しいんです。譲ってください。啓太もいいって言ってくれました」
はっきり言いすぎだ、と思われるが、岩井は別段驚いた様子もなく、
「あの絵は、今は持っていない」
これまたシンプルすぎる答えだった。
「持ってないって、まさか、捨てたんですか」
これには和希が気色ばむ。
「捨ててはいないと思うが・・・・・・どこにあるかわからない。寮に置いてきたような気もする」
「失くしたってことですか。ひどいですよ。啓太に失礼じゃないですか」
「すまない。描いてしまったものには、あまり執着しないから」
「俺に謝ってもしょうがないですけど」
「遠藤は、本当に啓太のことが好きなんだな」
「はあ?」
まただ。どうも先ほどから、岩井の発言についていけない。一人で練った会話シミュレーションが、まったく役に立っていない。
「さっきから、変なことばかり言いますね」
「そうかな。見ていてそう思ったから」
「見ていてって・・・。岩井さん、啓太とはよく一緒にいたけど、別に俺とはそんなに親しいわけでもないのに」
「遠藤は、四月からいたから。だからよく見ていた」
「そうですか?」
和希は疑わしげに言った。
「さっきは俺のこと、覚えてなかったじゃないですか」
「・・・・・・すまない。とっさに思い出せなくて」
それはそうだろう。こんなところで会うはずがないと思っている人物が突然目の前に現れたとしても、そう簡単に気付くものではないだろう。わからないからと言って責める方が大人気ない。
和希もそれはわかっていたから、
「まあ、俺はただの下級生でしたからね」
そう言ったのだが。
「だから、そうじゃないんだ」
「何がですか」
「遠藤は、目立っていたから、三年生はみんな知っていた」
「目立っていた? 俺が?」
極力目立たない平凡な学生を装っていたはずだったのに、目立っていたとはどういうことか。
岩井が言葉を継ぐ度に、和希は驚かされ、だんだん混乱してくるほどだ。
「あの学園では、みんなが自分の才能に自信を持っていたから、誰が何を評価されて入ってきたのか、お互いに知っていた」
それだけ聞いて、和希にはすぐに、ある程度察しがついた。
入学以前から全国レベルで有名人だった学生も多かったし、そうでなくても何の特技が認められて学園に入ったのか、模試の成績とか試合の成績とか、自分から宣伝する者もいる。そんな中、和希はできるだけ地味にしていたわけだから。
「遠藤が入ってきた時、誰も遠藤のことを知らなくて、何ができるのかわからないから、かなり話題になっていたんだ」
そうやって地味にしていたことが、かえって目立つ原因になっていたとは、今の今まで、まったく気付かなかった。和希は自らの不覚を悟る。
「三年生のクラスでは、手荒なことをしてでも聞き出すと言っていた連中もいたんだが、丹羽が放っておけと言ったらそれきりになった。それでもしつこく気にして、シメるとか言っていたのも何人かいたが、そのうち、篠宮が遠藤のことを構いだしたから、みんな何も言えなくなって」
なんと。寮長篠宮に無断外泊王としてマークされたことが、他の学生の詮索から身を守ることに繋がっていたとは。世の中、何が災いして何が幸いするか、わかったものではない。
かばってくれたらしい丹羽にしても、もしも和希が理事長だと知ったら、むしろ絞めるでは済まないくらい酷い目に遭わせそう予感がする。
「あー・・・そうだったんですか・・・」
一瞬、今後の自分の身が心配になった和希だったが、
「じゃあ、岩井さんも、俺の入学理由が気になっていたと言うんですか?」
思いついたから口にしてみたものの、なんだか岩井には似合わない気がする。
「いや・・・・・・」
言いよどんで、岩井は一度目線を外してから、もう一度和希と目を合わせた。
和希が思うに、こうして岩井と目を合わせたことなど、今日までなかったような気がする。
岩井と言えば、いつも目線を逸らして、下を向いたり横を見たりしていた記憶しかない。表情が変わるのを見た記憶もない。
だがしかし、そういえば啓太は、岩井は喜怒哀楽がはっきりしていると言っていた。
「遠藤のことを、うらやましいと思っていた」
「はあ」
さっきから、驚かされるというか、初耳のことばかり聞かされる。
岩井が唐突に物事の核心をついたトークをする男であった、ということも戸惑いの原因だ。
「遠藤はいつも、誰とでも自然に付き合って、クラスメートの中にうまく溶け込んでいた。大人になればなるほど、みんな仲良く、なんてことはそう簡単にできることじゃない、と俺は思う。啓太が来る前の遠藤は、不思議なくらいに、誰とも仲たがいせず、それでいて誰とも深入りせず、計ったように同じ距離をとっているように見えた。その距離のとり方がすごいと、いつも思っていた」
そんなことを思っていたのか、こいつは、と和希はさらに驚いた。
和希の驚きは、岩井の分析の内容ではなくて、むしろ、そんな風に岩井が他人のことを観察していた、という事実のほうだった。
「俺は反対に、人との距離があまりうまくとれなくて。近づけないでいるうちに、もう距離が開いてしまって手が届かないようになってしまう。子供の頃からそうだったから。・・・・・・だから、あんなふうに他人と付き合える遠藤が、うらやましかった」
「そんなことないでしょう。俺は俺で、啓太とすっかり仲良くなった岩井さんがうらやましかったですよ」
「啓太は、特別だから」
「特別ですか」
少しだけ、和希の心が波立つ。
「あれは、啓太の才能だ。啓太が、俺と友達になってくれただけで、それ以上でもそれ以下でもない」
そこで和希は理解した。
学園で岩井が親しくしていた相手は、和希が知る限り二人しかいない。和希だけではなく、学園中の人間がそれに同意するはずだ。
同級生だった篠宮と転校生の啓太。
どちらも岩井から選んだのではなく、篠宮と啓太の方から近づいていったと言ってよいだろう。
そうやって相手から距離を縮めて来れれば、親しく打ち解けられるということか。
てっきり岩井卓人という男は、人間嫌いというか、人付き合いが嫌いなタイプなのかと思っていたが、苦手ではあっても嫌いというわけではなかったらしい。
なによりも意外なのは、そのことを岩井自身が的確に理解していたということだ。
帝王学を身につけた者として、人を見る目はあるつもりだったが、どうやらきれいに騙されていたようだ、と和希は思った。たとえ岩井に騙す気がなかったとしても。
「岩井さんがこんなにしゃべる方だったなんて、正直、驚きです」
思わず口をついて出たのは、そんな言葉だった。
確かに、これが和希を主人公としたゲームなら、岩井ルートに分岐してイベントが始まったかと思うほど、岩井の台詞が多い。
「そうかな」
「そうですよ」
「さっきの啓太の絵のことだが」
不意に岩井は話題を戻した。
「探してみる。だがもしかしたら、やはり寮か美術室に置いてきたかもしれない。篠宮にでも聞いてみてくれないか」
「俺がですか」
「ああ。見つけたら知らせるから、君も見つけたら、俺に教えてくれ」
「わかりました」
和希はこれを、用事を済ませてこの会話全体を終わらせたい、という意思表示だと受け取った。ならば、こちらも早々に結論を出して帰るまで。
「でも、ということは、その絵を俺にくださると思っていいんですね」
「・・・・・・ああ。ここまで来たのは、遠藤だけだったから」
普通の学生にこの場所を突き止めることは難しいですからね、と心の中で返しながら、和希は傍らのコートを手に取って、席を立つ。
「じゃあ、俺は帰ります。お忙しいところすみませんでした」
いつでも礼儀正しく如才なく。
鈴菱の一員としてはもちろん、ベルリバティの学生としても、和希はいつもそう振舞ってきた。
相手の隙につけこむことはあっても、自分がつけこまれてはならない。そういう意味で、岩井の観察眼は正しかったと言える。
厨房の裏を通って、そのまま、裏口に戻った。
扉を開けてくれた岩井に向き直ると、もう一度頭を下げる。
「突然お邪魔して、失礼しました」
啓太の絵が気になってここまで来てしまった。まだ目的を達成できたわけではないが、思ったよりもすんなりと片付いたと言える。もう来ることもないだろう。そう思いながら、頭を上げる。
「遠藤」
「はい」
「また、来てくれないか」
「え?」
「用もないのに来るわけはない、と思っているかもしれないが」
さっき思ったことを、まるで見抜かれたようで、和希の身は固まってしまう。
「用がないなら、今作る。・・・・・・啓太の絵、俺が持っていたら、必ず遠藤が取りに来てほしい。もしも学園にあったら、一度俺のところに持ってきてほしい。そうしたら遠藤にそれを渡す。・・・・・・これなら、用があるからまた会える」
まじめな顔でそう言うので、
「本気ですか?」
和希は思わず、呆れた、という口調になる。
「おかしいだろうか」
「おかしいですよ、だって、なんでそんなこと」
つい、不満げに口を尖らせてしまったら、ふっと岩井が眉を寄せて、じっと和希を見つめた。きつく言い過ぎてしまったか、と和希が思ったところで、突然、岩井が右手を伸ばしてきた。
「えっ」
襟首でもつかまれるのか、それとも左頬でもひっぱたかれるのか、そんなに怒るようなことじゃないだろう、だいたい怒っている顔には見えないぞ、まさか俺に何かするつもりじゃないだろうな。と一瞬のうちにそれだけの文章が和希の頭の中をかけめぐり、反射的に身を固くする。
だが岩井の手は、和希の肩の上で止まり、挨拶のついでによじれたマフラーを調えただけだった。
拍子抜けすると同時に、一瞬でもなぜあんなに緊張したのか、なんだか妙な気分がする。
そんな和希の内心には一切構わず、
「もう一度会いたいと思ったから」
照れる様子もなく、岩井は言い切る。
「そういう理由ではだめか」
「いや、だめっていうことじゃないですけど・・・・・・なんで俺なんです」
「それは、遠藤が来てくれたから。どんな理由でも、会いに来てくれて、嬉しかった」
「じゃあ、誰でもよかったってことですね、俺じゃなくても」
「そうかもしれない。・・・・・・だが、今ここにいるのは遠藤だ」
岩井を評して、意外と頑固なところがある、と啓太が言っていたのを、和希は思い出していた。こういうことだったのか。
あの頃は、啓太と岩井が二人でいても、啓太ばかり見ていたから気付かなかった。
岩井の言うことも一理ある。こうして岩井を訪ねてきたのは、結局のところ啓太でも篠宮でもなく、なぜか和希だった。そしてそれは、和希自身が選択した行動に違いない。
「わかりました。俺でよかったら、また来ます」
「ありがとう」
そう言って、岩井はゆったりとした笑顔になった。小一時間一緒にいて、初めて見せた笑顔だった。
笑顔だけではない。和希が岩井という人間の中身を見たのは、今日が初めてだった。
このまま押されっぱなしで帰るのもしゃくなので、
「そんなに言うんでしたら、俺の名前、もう忘れないくださいよ」
今日の出会いを思い出して、皮肉のつもりで言ってみる。別れ際のジャブのつもりだったのだが。
「和希」
名前は名前でも、下の名前を呼ばれるとは思わなかった。
「いきなり呼び捨てですか」
「啓太がそう呼んでいたから。もう忘れない。・・・・・・さっきはすまなかった、遠藤」
そう言ったあと、岩井はほんの少しだけ目を細めたように見えた。最後まで感情の読めない男だ、と和希は思った。
「いずれは、啓太のように、遠藤のことを、和希と呼べるようになったらいいと思っている」
もしかして、自分はからかわれているのだろうか、という疑問も浮かんだが、それならそれで受けて立ってやろうというもの。
「・・・・・・岩井さん、俺のこと年上に見えるって言ってませんでしたか」
「・・・・・・年上なのか」
「いいえ」
そう答えて笑った和希の顔は、多分本人は気付いていないだろうが、とてもそこいらの無邪気な学生のようには、全然まったく少しも見えなかったのだが、岩井がどう思ったかについては、ここでは追及しないでおく。
「それじゃあ、岩井さん、また来ます」
「今度来るときには、連絡してくれ」
「そうですね。せっかくだから、次回はおすすめを味わいたいものですね」
考えてみると、啓太や学園の話題を離れた純粋なコミュニケーションとしての会話は、この会話が初めてだった。
「じゃあ、店長に頼んで、ワインを用意してもらうから」
相変わらず、岩井の表情からは、嬉しいのかどうかも読み取れないが、なんだか懸命に会話を続けようとするさまには、和希に何かを伝えたいという意志が感じられる。
「俺に何を出してもらえるのか、楽しみにしてますよ」
「・・・・・・バーガンディの赤」
「だめですよ、バーガンディは英語でしょう。フレンチの店なら、ブルゴーニュって言ってください」
このまま会話を続けたら、ずるずると帰れなくなるような気がして、
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って無理やり話を打ち切ると、踵を返して、和希は岩井に背を向けた。
背中に視線を感じるのは、和希が自意識過剰なわけではない。それでも振り返らずに、人通りのまばらになった繁華街へと、秘書の待つ黒塗りの車に向かって歩いていく。
正直なところ、今日は調子が狂わされっぱなしだった。しかし不思議と不快な気はしていない。
岩井のことを、嫌なことをすべて投げ出して逃げたやつだと思っていたが、どうやらその考えは改めねばならないようだ。
絵をやめた理由も、ああいう風に言われれば、和希の胸にも響くものがある。
親から受け継いだ才能を惜しげもなく捨てて、別の道を選ぶということ。
それは、鈴菱和希には、望んでも出来ないし、ましてや望んではいけないことだから。
和希がうらやましかった、と岩井は言った。――でも、俺は、あなたをうらやましいなんて、思いませんから。
その気持ちを確かめ続けるために、また岩井と会う約束をしたのかもしれない。
自分の生き方をかけた勝負を挑まれたような気がして、和希はそれを受けて立ったつもりだった。
和希はまだ気付いていない。仕掛けられたのは、勝負ではないと。
もしも、この夜から何かが始まるとしたら、それはきっと、和希の予想もしない物語となるだろう。
それでも、いや、それだからこそ、和希はまたここに戻ってくる。結末を自分で見届けるために。
2004年のゴールデンウィークのイベントで、和希受け天国の管理人さんとお会いしました。そこで企画されていた和希受けアンソロジーに、岩和がないってことで、話の成り行きから、私が書くことになりました。
一応ネタはあったから引き受けたんですが、まったくもって無謀な行為でした。
出来上がったこれを読み返しても、ネタはともかく、「下手だなー」と自分でしみじみ思いました。
長いのを書くと、設定でごまかせないから、表現力がもろに出ちゃうよね(汗)。
というわけで、下手っぴいなんですが、でも、ネタというかテーマはとても気に入ってます。
私の中では、これは岩井さんのバッドエンド救済作!
絵筆を置いても、それが自分で決めたことならば、自分で幸せを探してほしい、そういう気持ちで書きました。
実は続きもあるんですが、永遠に書く日は来ないであろう(笑)。
|
|