【ドイツで初めてのピアノ】

1709年、イタリアのクリストフォリがピアノを開発したおよそ25年後のこと。
ドイツのオルガン製作者ジルバーマンが、
1720年製クリストフォリのピアノと酷似したフォルテピアノを製作しました。
・・・・クリストフォリのピアノに関する論文を読んだとも、
    あまりに酷似しているので現物を見たのではないかとも言われています。
プロイセンのフリードリッヒ二世は、この楽器に興味を示し、
ジルバーマンのピアノを7台購入しています。

1747年、J.S.バッハはフリードリッヒ二世の宮廷に招かれました。
フリードリッヒ大王自身はフルートが得意で、
その伴奏者として大バッハの息子、エマヌエル・バッハを召抱えていました。
孫の顔を見るためライプツィヒからベルリンへ赴いた大バッハを、
フリードリッヒ大王がサンスーシーの離宮に招いたのでした。

即興演奏が得意だった大バッハは、そこでさまざまな即興演奏を行い、
のちにそれをまとめてフリードリッヒ二世に献呈しています。
 ・・・・・『音楽の捧げもの』BWV1079

このとき、大バッハは1747年製ジルバーマンのフォルテピアノを試奏しています。
しかし、大バッハはこのフォルテピアノを気に入りませんでした。
当時のフォルテピアノは、まだまだ改良の余地ある未完の楽器で、
すでに完成されたクラヴィコードやチェンバロより劣って感じたのだと思います。

大バッハの指摘を受け、様々な改良をほどこしたジルバーマンですが、
息子が亡くなってしまったため、その技術をドイツに残すことができませんでした。
しかし、弟子たちによりイギリスへ移入されイギリス式のアクションとして発展していきます。
  ・・・・・大バッハの指摘は、バッハ研究者のシュピッタによって以下のようだったと
      言われています。
      『バッハはその一台を弾き、音を高く評価したが、
      タッチが重いことと高音が弱いことだけを欠点として指摘した。』

また、息子のエマヌエル・バッハは当時のフォルテピアノについて、
このように語っています。
  ・・・・・『クラヴィーア演奏の正しい技法の研究』1753年出版

『ハープシコードは慨して合奏用、クラヴィコードは独奏用に使われる。
ちかごろのピアノフォルテは長持ちするし、
上手に作られているならば多くの長所がある。
ただ、この楽器のタッチは特別の研究を必要とするが、
それは、なまやさしいことではない。
このピアノフォルテは、独奏や、あまり大きくない編成の合奏では効果的である。
ただ私の考えでは、よいクラヴィコードは、音が弱いことを除いては、
音の美しさではピアノフォルテに劣らないし、
ベーブンクやポルタートをつけることができる点で、
ピアノフォルテよりすぐれている。』

私たちがハープシコードやクラヴィコードを前にしたとき、
改めて奏法を学ばなければならないのと同様に、
当時の演奏者は新しい楽器であるフォルテピアノの奏法を、
研究しなければならなかったのですね。