『日本人の呼吸』

寄稿者:中嶋@管理人


最近ふっと思ったことを書き留めておこうと思い、投稿します。日本人の特徴に、独特の「間(ま)」というものがあるのではないか・・・。そんな風に思ったためです。それは子どもの頃から親しんでいるわらべうたにあらわれています。わらべうたの旋律は、リズムや旋律といった音楽重視ではなく、高低アクセントで成り立っている日本語の抑揚に合わせた「言葉重視」のものが多く見受けられます。西洋音楽の旋律とは違う「テトラコルド」という音階を用い、言葉の抑揚に合わせてメロディが高低するのです。

誰もが知っている「ずいずいずっころばし」。大抵子どもの歌いやすい声域に合わせて一点トあたりの音で歌われるかと思うのですが、この曲は「ミソラシ」というテトラコルドで成り立っています。ほとんどが言葉の高低アクセントにそっているメロディ。ということで、地域によって多少旋律が変わってくるのがわらべうたの特徴でもあります。この曲には一箇所だけ「ミ」という低音が出てきますが、これは西洋音楽でいう半終止のような役割を持たせるため。このように音楽的欲求を満たすための音は少なく、ほとんどは言葉の抑揚に合わせた「ソラシ」による三全音音階の旋律です。日本人が小さな頃から親しんで歌ってきているわらべうたは、このように「言葉」に重きを置いているものが多いです。日本語という言葉そのものが旋律的だからなのかもしれません。

英語は日本語と違い「強弱アクセント」です。そこからは旋律が生まれるのではなくリズムが生まれてきます。西洋人はリズムに強く、日本人は旋律に強い・・・なんて話をよく聞きますが、こういった言葉の特徴からきているのかもしれません。日本語に使われているリズムなんて、4分音符と8分音符くらい。リズミカルなものを感じるとしたら「ひこうき」などの単語にあらわれるシンコペーションくらいでしょうか。

このように日本人は言葉のもつ抑揚に「美」を感じているのではないかと思います。そして、そこに5線譜には書ききれない「間」が生まれてくると思うのです。単純な例を示すと、2音だけで成り立っている「○○ちゃ〜ん、あそびましょ」というフレーズ。誰もが一度は子どもの頃口にしたことのある旋律なのではないでしょうか。5線譜に書くと4分の4拍子、2小節になります。でも、4拍子の指揮に合わせて歌ってみると、どうもしっくりこない。言葉のもつ独特なニュアンスが消されてしまうのです。そして「○○ちゃん」と「あそびましょ」のフレーズ間に、本来あるべき「間」がなくなってしまう。これが日本人特有の「間」ではないかと思うのです。俳句などを詠むと一目瞭然かもしれません。5線譜には書き表せない、心に美しく響いてくる「間」という音楽がそこにはあります。

西洋音楽に浸っていると、日本人であるということを痛感させられます。そして、果たして根っこから西洋人になりきって演奏するのがよいことなのだろうか、と考えさせられます。ベートーヴェンを演奏するためにはドイツ人に成りきらなければならないのか?ドビュッシーを演奏するためにはフランス人に成りきらなければならないのか?もちろん曲と対面したとき、それらのバックグラウンドや楽譜から多くのことを読み取る必要性はあると思います。そこにはその音楽を「表現」するためのヒントがたくさん隠されているからです。しかし、そういったものを吸収したあと、その曲は演奏者の手にゆだねられるのです。

私たち日本人は「日本人らしさ」というものを誰もが持っています。この「らしさ」を認識し、追及し、洗練させていくことは、とても大切なことなのではないかと思います。生き生きした演奏には魅力があります。音が生きています。そしてそういった演奏をするには表現者がその曲を吸収し、自分の言葉として表現できていることが前提です。自分を知るということ、そこには自分が生きてきた環境を認識することも含まれているのだろうと思います。

現代の子どもたちは、本来日本人が不得意としていたリズムに強くなってきています。(リズムが弱いというのも地域性によりますが・・・。)複雑なリズムがテレビからあたりまえのように流れてきている時代。彼らはアイドルを真似て、その複雑なリズムに合わせて踊ります。わらべうたのような旋律が廃れてきているとはいえ、日本語のもつ抑揚や呼吸、「間」などは日々の生活の中で受け継がれていくことでしょう。(昔ほどの「美」がないとしても。)

もしかしたら現代という時代は、日本人が西洋音楽をする上で、とてもよい時代なのかもしれません。日本人らしさと西洋音楽に必要不可欠なリズム感、両方を兼ね備えることのできる時代だからです。それぞれの作曲家が生まれ育った環境を知るともに、実際に演奏する自分自身を知ることも大切なのだと感じます。