名前
穐山 (KAME) 義英 Yoshihide "KAME" Akiyama
O型 双子座
  
担当楽器
キーボード、コーラス
      
使用機材
KORG Triton Extreme,MS-2000,DW-8000,M-1,OI-W,WAVESTATION,SG-1R,SYMPHONY
ROLAND D-50
E-MU VINTAGE KEYS
HAMMOND XB-2
OBERHEIM M-1000

好きなミュージシャン
キーボード
ジェフリー・ダウンズ、トニー・バンクス、エディー・ジョブソン
ジョー・ヴァネリ、ヴァンゲリス、デヴィド・ペイチ、ジョン・ベック
マックス・ミドルトン、矢野顕子、etc・・・

ギター
チャー、ドミニク・ミラー、トレーヴァー・ラヴィン
スティーヴ・ルカサー、パット・メセニー、フランシス・ダナリー
ローランド・オーザバル、etc・・・

ベース
ジョン・ウェットン、クリス・スクワイアー、国本剛章、etc・・・

ドラム
ビル・ブラッフォード、スチュアート・コープランド
フィル・コリンズ、ジム・コウプリー、ヴィニー・カリウタ、etc・・・

ヴォーカル
ジョン・ウェットン、ステイング、SEAL、ジノ・ヴァネリ、
ピーター・ゲイブリエル、DES'REE、AIKO

自分の音楽人生に絶大な影響を与えたアルバム
「Once Around The World」 IT BITES
「Duke」「Foxtrot」 GENESIS
「90125」 「Big Generator」 「Union」「Drama 」 YES
「Night Walker」「Brother To Brother」 GINO VANNELLI
「SEALU」 SEAL
「Still」 TONY BANKS
「Danger Money」 「Road Test(海賊盤)」 UK
「TOTO」 「Kingdom Of Desire」 TOTO
「Ten Summoner's Tales」「Bring On The Night」 STING
「The Nylon Curtain」「52nd STREET」 BILLY JOEL
「Asia」 ASIA
「Love Life」 矢野顕子
「宇宙戦艦ヤマト テレビシリーズPart1 サントラ」宮川泰

自分の音楽人生に絶大な影響を与えた映画&アニメ音楽の巨匠達
ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムス、ラロ・シフリン
ヴァンゲリス・パパザナシュー、宮川 泰、渡辺 岳士、菅野よう子

趣味
バンド活動(あたりまえか!)、ドライブ、日帰り温泉めぐり、
色々な人に自作CDを配る、ハムスターと戯れる、
サッカー日本代表の試合を見て吠える、テレビを見てヘラヘラ笑う。

他に所属しているバンド
機械飯店、Dr.D

自分と音楽そしてCS加入まで
音楽好きの両親の影響もあって、幼い頃からテレビやラジオの歌番組をよく見たり聞いたりしていた少年だった。
その当時は流行りのポップスやアイドルの歌謡曲などを好んで聞いていた。
また小学校2年生の時に両親の勧めで(なかば強制か?)エレクトーンを習い始めた。これが私と鍵盤との出会いである。
習い事を始めてすぐやめてしまう話しなどを良く聞くが、私は相性が良かったのか楽しんでエレクトーン教室に通っていた。
特にエレクトーン教室は奇麗で若く美人な女性の先生が多かったので子供ながら男としてそれが教室に足を向ける要素にもなっていた。(ちなみに今でももちろん綺麗で美人な女性が大好きである)

小学生の高学年になった頃に巷に貸しレコード屋と言う物が現れ初めた。
1泊2日200円という小学生のこづかいでも利用できる
リーズナブルな値段設定だったので良くレンタルしていた。
普通の小学生だったらアイドルなどを借りていただろうが私は何故か映画音楽やアニメのサントラ盤をよく借りていた。
その頃から映像的で展開があり、大袈裟でやたらと感情に訴えかける映画音楽の虜になっていた。
今思えばそれが私の音楽的原点かもしれない。

やがて中学生になると洋楽と言う物が世間で流行りはじめた。
ビリー・ジョエル、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ホール&オーツ、メン・アット・ワーク、カジャグーグー、etc・・・
(民放の夜8時からビリー・ジョエルのニュー・ヨークでのコンサートなどを流していた!いい時代だ!)
今まで聞いて来た日本のポップスとは明らかにテイストの違うその洋楽に私は惹かれていった。かっこいい英語の響きやセンスのいい楽曲、歌唱力のあるヴォーカル。
そのどれもが素晴らしく日本のポップスに興味を失わせるのに十分だった。(初めて買った洋楽のアルバムはラヴァー・ボーイズとデフ・レパードだった!初めて買った洋楽のシングルは「ランボー」と「E.T.」のテーマ曲なのだ!)
そしてその頃BEST HIT U.S.A.と言う洋楽ファンの登竜門的な番組をよく見るようになった。そこに流れるビデオ・クリップのマネなんかをよくやっていた。小林克也さん、ありがとう!

高校生になった頃はもう洋楽しか聞かなくなっていた。
その頃はリック・スプリングフィールド、復活したイエス、デュラン・デュラン、エイジア、ブルース・スプリングスティーン、なんかを聞いていたように思う。
もうエレクトーンはやめていたが妹が買って来た明星と言う雑誌の付録について来る歌本をみてなんとなく弾いてみたりもしていた。
歌本にはコード表が付いていてそれでコードの構成などを知らず知らずに覚えていった。
そして自分でも少しづつ作曲するようになって行った。

大学受験に失敗し浪人生活を送っていた頃、貸しレコード屋でなにげなく借りたイエス「こわれもの」とE.L&P「タルカス」を聞いて衝撃を受けた。
自分の求めていた物がすべてあったのだ!確かなテクニック、独創的な楽曲、また組曲だったり1曲の中に多くの要素が入った映画音楽的な要素など数えればきりが無い。
その時初めて自分もキーボード奏者になりたいと心から思った。
それから我流ではあるがキーボードの練習を始めた。
と言ってもうちにはエレクトーンしかなかったのでエレクトーンを弾きまくっていた。

さらに大学受験に失敗し(もうその頃はキーボード奏者を目指していたので勉強は全然していなかった。ファザー、マザー、ごめんなさい)
日本工学院八王子専門学校の音響芸術科に入学。
私としては音楽学校に行ってキーボードの勉強をしたかったのだが音響の専門学校だったら金を出してやると両親に言われそちらの道を選んだ。(父の級友に某ラジオ局のお偉いさんがいてコネでそこのラジオ局に音響エンジニアとして私を入れる魂胆だったらしい)
そこで2年間にわたって音響の勉強に励む。これが今のバンド活動に多大な影響を与えている。この技術をいかしてCSではこれからセルフ・レコーディングをやるのだ!
この専門学校の先輩でもある大高だいじに誘われ「ROUGH」に加入。
いよいよバンド人生の始まりである。
その頃の「ROUGH」はポリスやPINK CLOUDのようなギター・サウンド中心のロック・トリオだったが、サウンドに幅を持たせる為にキーボードを入れたのだった。
4人編成となった「ROUGH」はプロを目指して音楽活動をする事となった。

専門学校を卒業しバイトをしながら「ROUGH」での活動を続けていたが、やがて音楽的に煮詰まってしまった。
当時専任のヴォーカルがいなかったので、ギターの大高と私が楽器を弾きながら歌っていたがそれも限界を感じヴォーカリストを募集した。
1年ちかく見つからなかったがキーボード・マガジンに掲載された記事から中ノ薗氏が決定。と同時に一緒に鹿児島から上京してきたギタリスト永井氏も「ROUGH」に合流し新たなバンド「YELLOW CHRISTIAN」を結成。
(このバンド名はもちろんIT BITESの楽曲からいただいた!)
約2年に渡って活動したが結局私は脱退してしまった。
自分の理想と現実の日本の音楽シーンとのギャップに疲れてしまった。
その時にプロのキーボーディストになる事を断念し音楽の世界から遠ざかっていった。

音楽活動も忘れかけていた頃、CS仲村氏からコーラスでCSに参加して欲しいと言う要請があった。特になにもバンド活動をしていなかったので快諾し、ライブなどに参加。
するとレコーディング中にもかかわらずキーボードの関ちゃんが脱退してしまった。まあバンドではよくある事なのでしょうがないがレコーディングが滞ってしまい、又次のキーボーディスト探しもしなければならなくなった。そこで正式にCSのキーボーディストとして加入して欲しいとの要請がありこれも快諾。
こうしてシンデレラ・サーチのキーボーディストとなったのであった。
それと共にCS用の楽曲も製作し「Circle Of Life」「D.N.A.」「Crazy Chiasman」「Next World」を提供。
今に至る。

 


エレクトーンを弾くカメ



カメと当時のマネージャー