料理とワインの店:BISTRO KRI-KRI  
   

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最後の親知らず
 

 黒田さんはくりくりのホームページにコーナーもあるし、お客というよりは身内の部類なのだが、あまりに珍しい話だったのでご紹介しよう。また歯の話で恐縮なのだが。

 黒田さんが最初に通った歯医者はシバタ歯科医院という。小学校のすぐ近くにあった。学校の帰りに寄ると、院長が診察室から顔を出し、「来たな」と言ってニッと笑う。マスクはいつも耳の片側からぶら下げたままだ。前歯が一本ない。母親は腕のいい歯医者だと言っていたが、腕がいいならなぜ前歯がないのかと小学生の黒田さんは首をかしげる。

 治療に入ってからも院長は何かあるとすぐにニッと笑ってみせる。わざと歯抜けを見せているような気がしてならない。しかも「虫歯の匂いだぞ、ほれえ」と言って脱脂綿を鼻先につきつける。そのときだけは垂れていたマスクを片手で自分の口へあてたりする。
  だから、小学生の黒田さんがこの院長を嫌いになったことは責められないと思う。また、人生最初の歯科医がこの男だったために、歯科医と聞くだけで身震いするようになったことも、不運であったと同情を禁じえない。

 しかし不運であろうがなかろうが、歯医者には行かねばならない。黒田さんも、その後何度も歯科医の門をくぐらねばならなかった。大方は虫歯の類であったから処置は簡単だった。だがそれが親知らずとになると話はちがう。どの医者も抜いた方がいいと言う。元来親知らずとは必要のないものらしい。だいたいが奥のせせっこましいところをねらって無理やり生えてくる。そのあたりがギュウギュウ詰めになって歯ブラシが届きにくい。畢竟、虫歯はさけられない。そこで「抜いちゃいましょう」ということになる。

 抜いちゃう方はお気楽でも、抜かれる方はそうはいかない。気の弱い人など麻酔の段階で気分が悪くなったりする。とにかく患者にとって抜歯は大ごとなのである。それを黒田さんはすでに三本抜いていた。親知らずを四本も所持していたからだ。今また残りの一本が虫歯にやられている。ギリギリまで我慢したが、もはや限界だった。

 その日、黒田さんは朝から歯科医を探し歩いていた。
  ぬいぐるみの絵などが描かれている歯科医はさけることにした。行儀の悪い子供に髪でも引っ張られたら顎に痙攣が走りそうだった。待合室をのぞいて患者がたくさん座っているところもペケだ。長く待てそうにない。見た目が少ないところも、予約制がほとんどだから待つことは同じかもしれない。それでもキャンセルもあるだろうし、次の予約まで時間が空く可能性もある。はやり待っている人数の少ないほうに賭けよう。市販の痛み止めを飲んではいるが、そろそろ効かなくなっている。早く応急処置をしてほしかった。
 黒田さんはひたすら歩き続ける。
 

 とうとう商店街を抜けてしまった。住宅街の方にはそれらしき印は見えない。仕方なく引き返そうと思ったとき、一軒の歯科医院を見つけた。小さなビルに入っている商店街のそれと違って、風格のある一軒家である。しっとりとしたレンガ塀には蔦がからまり、開け放たれた門は少々さびてはいるが頑丈な鉄でできている。そこに○○歯科と、いやに古い字体の看板がかかっていた。門の向こうには大きなガラス戸が見えたが、それがなければ歯科医と思わず通り過ぎてしまうところだ。
 黒田さんの足はしばらく止まったままである。古色蒼然としたたたずまいに、どこか違和感をおぼえているのである。しかし引き返すのは大儀であった。それに長く開業しているとなれば腕も間違いあるまい。
 そう自分に言い聞かせてガラス戸を押した。

 中は薄暗く、プンと薬品の匂いがした。広い待合室には誰もいなかった。長いすの上に新聞が散乱していて、破れたマットからバネが一本突き出していた。黒田さんはまた少し躊躇する。このまま踵を返そうか。いやいや、患者がいないということはすぐに処置してくれるということだ。不都合があればその後、他の医者に行けばいい。
「すいませーん」だんだん声を大きくして三度ほど呼んだ。やがてどこかでギーッとドアの開く音がして、ゆっくりとスリッパの音が近づいてきた。セーターの上からよれよれの白衣を羽織った痩身の老人が「はいはい、ちょっと待ってよ。ほーい今宮君はいないのー」と受付の中をのぞいた。
「ありゃ、またいない。食事にでも行ったかな。まだ昼前なのにねえ。はいはい、じゃあーとね、どうしました?」
「あの、奥歯が痛くて。ちょっと軽く薬でもいただければと思って。あ、あの、ぜんぜんたいしたことはないので、もしあれでしたら、ま、また出直しますから」
 なんだか無性に帰りたくなっていた。
「出直さんでいいよ。せっかく来たのに。はい、じゃあね、そこから入って。保険証とかはね、あとで今宮君がもどったらね」
 そう言って老人は診察室の中に消えた。
 気の弱い黒田さんは結局、帰ることができなかった。(つづく)
 

 

 
 
     
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