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大きな診察室だった。なにより天井の高さに驚かされた。その天井のところどころに黒いシミが見えた。隅に小さな穴があった。ネズミでもいるのだろうか。ネズミの苦手な黒田さんは首をすくめた。
「はーい、アーンして。ほれ、そんなに身体をかたくせんと。ホッホッホッ」
老人はひとなつっこい顔で笑った。ときどきわけのわからぬ冗談まで言って、どうやら黒田さんの緊張をほぐそうとしているらしかった。
「あのう、息子さんがあとを継いでらっしゃるんですか」
壁に写真がかかっていた。同じセーター姿の老人の横に、そっくりな顔立ちの白衣の若い男性が立っていた。
「そうそう、次男がな。こりゃ出来がよくてな。長男の方は、ほれ、総領の甚六って・・・」
黒田さんはホッとしてあとの話を聞いていなかった。出来のいい次男は奥にでもいるにちがいない。老人が手におえないことでもあればすぐに、「もう父さんはいいから」などと言いながら出てくるのだ。
「おー、おー、立派な親知らずだ。こりゃあ、大変だぞお」
老人はレントゲン写真を見ながらのんびりと言った。それからゆらゆらと診察台に近づいて、「さて、やるか」と白衣の腕をまくった。黒田さんはガバと起き上がった。
「あの、やるって?」
「抜かなきゃなるまい、これだけ進んどるとな。ホッホッ・・ゴボゴボゴボ」
笑いの最後は咳になった。
「あのう、どなたが・・」
「どなたって、あんた、わし以外にだれか見えるかね」
「で、でも、息子さんが」
「九州まで呼びにゃいけんよ。ホッホッホッ。わしじゃ心配か?」
「いえ、そんな」
注射器を持った手が心なしか震えているようだった。黒田さんは目をつぶった。結局また、逃げることができなかったのだ。こうなれば早く終わってくれることを願うしかない。
だがしかし、これがなかなか終わらなかった。
「あんたのっ、親知らずはっ、思ったっ、以上にっ、へそっ、曲がりだわ」
根曲がりの親知らずだという。こういうのは以前にもあって云々。老人は根っからのおしゃべりらしい。黒田さんの方は、松や竹じゃないんだ、バカ言ってんじゃないよ、早くやれ、と思っている。その合い間にも老人はしきりに「うっ」とか「かーっ」とか声を上げていた。
「えーと、脱脂綿、脱脂綿と・・・。ちょっと待っててよ、待っててよ」
そういえばここには看護師も衛生師もいない。「冗談だろ・・」黒田さんは金具をくわえたまま、生きた心地もない。
それでも何とか親知らずは抜けた。老人はふーっと息をつきながら、「あー、終わった終わったー。ほれぃ」と歯を見せた。黒田さんはシバタ院長を思い出した。焦点をぼかして親知らずを見ないようにした。老医師に腹を立てていたのである。
結局、受付は帰ってこなかった。
「後でいいわ。あ、明日、消毒においで。休日だってかまわんよ」
顔面を歪ませながら家に戻った黒田さんはそのまま寝込んでしまった。親知らずの穴はかなり大きくて出血はなかなか止まらなかった。食事をとれなかった黒田さんは翌日の診察をすっぽかした。
三日目の朝、やっと蔦の歯科医院へむかった。
鉄の門は閉まったままだった。商店街で時間をつぶして引き返したが、やはり閉まったままだ。呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。黒田さんは憤慨しながら家に戻った。
その翌日は夕方に寄ってみた。口の中はだいぶ落ち着いていたが、お金を払っていないのが気になっていた。
門は開いていた。一歩踏み込んだ目に、ガラス戸に貼られた「忌中」という文字が飛びこんできた。黒田さんは仰天してしまった。亡くなったのは、あの老医師だろうか・・・。
長い躊躇の末、ガラス戸を押した。
「ごめんください」
声をかけると、すぐに恰幅のいい年配の女性が出てきた。
「あのー、先日、先生に歯を・・・」
「ああ、せっかくですけどね。先生はね、急にお亡くなりになったんですよ」
今宮君らしかった。
黒田さんは割烹着から出ているぽっちゃりした手を呆然と眺めていた。脳裏には老医師のひとなつこい笑顔が浮かび、「うっ」とか「かーっ」という苦しげな声が響いていた。
黒田さんの親知らずは、老人を一人殺してしまった。
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