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ホオズキ市が立つのも間近である。幼いころはよく母に手をひかれて浅草へ通ったものだ。母は銀座と浅草が好きで、それ以外には海にしか連れて行ってもらった記憶がない。
銀座ではワシントンという靴屋と、不二家をよく覚えている。ワシントンには私の足の木型があって、私はいつも真っ白な革靴を履いていた。足先が丸く、甲のところに横紐が渡っている形である。成長とともに足型は作り直されたが、形だけはずっといっしょである。
母は東京っ子の履き倒れそのままに、足元はいつもおしゃれをしていた。銀座通りを美しい母がさっそうと歩く。その姿とコツコツというパンプスの音が、幼い私には誇りであった。
デパートで買い物をし、ワシントンに寄り、それから不二家である。そこでペコちゃんの鼻を押して挨拶するのが私の習慣であった。通りすがりの大人たちが振り返って笑う。得意になった私はますますペコちゃんの鼻を押す。ネットの垂れた母の帽子とレースの長手袋、私の真っ白なチュールのスカートと靴。当時としては破格にモダンなその装いは、今思い出すと映画のひとこまのようでもある。
浅草へ行くときは必ずおそろいの下駄であった。母の浴衣姿は粋というより、やはりモダンであった。すすめられて声優をしたことがあるというだけあって、澄んだ甘い声をしていたが、その声で様々な市で職人とやりとりをする。いつも職人を活気だたせ、人垣を呼ぶ母であった。晩年、その母が酉の市へ行って小さな熊手を買うと売り手が「そんな小さな熊手じゃ福はこないよっ」と言ったことが辛く思い出される。間もなく母は死んだが、職人も時に残酷である。
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