料理とワインの店:BISTRO KRI-KRI  
   

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キヌタ草
 

 家から二キロほどの山道にキヌタ草の群生地がある。六月の末ともなれば繊細な白い花穂を観賞できるわけだが、花の咲く前にも輪生する葉が目立って美しい。小さな一輪挿しに入れておくとわずかな風にもくるりと回って、至極キュートな草なのである。
 キヌタといえば最近、東京の砧に友人の医者が開業した。彼は主治医として私の母の最期に尽くしてくれた人である。
 

 そのナオトの職場が一時横浜になり、お祝いがてら食事をしようと誘ったことがある。母の死からまだいくらも経っていない頃のことだった。
 約束の夜は生憎の雨になった。迎えにいった夫とともに現れたナオトは、「ふー、すごい雨。お気の毒ですね、せっかくの横浜なのに」と屈託のない笑顔を見せた。
 車を港に置いてレストラン探しをはじめた。雨は少しずつ小降りになってはいたが、歩き回る気にはならない。グルメブックをかかえながら、結局行き当たりばったりのところへ落ちついた。
 
 そこは比較的モダンな造りの店だった。しかし入ってみると表の雰囲気とはまるで違っていた。私たちはさえない顔つきのまま、広い店内で向き合った。他に客はいなかった。
  奥のほうにキッチンがあってラジオの音がかすかに聞こえていた。白いフリルのエプロンをした若い女がキッチンの中の男と話をしていた。男の声はぼそぼそと歯切れが悪く、若いのか年寄りなのかわからなかった。
  なにかのモーターの音が低く続いていて時々カチっと切り替わり、その度にテーブルの上の電灯が心なし暗くなるようだった。
 どこかで柱時計の音がした。首を回しても柱時計は見当たらなかった。気のせいだったのかもしれない。
  あらためて店内を観察してみる。オーナーの趣味なのか様々な小物が飾られていた。中には骨董品として価値のありそうなものもあったが、油にまみれて一様に黒っぽい。
 ガラスの衝立の向こうで初老の男が伝票の整理をしていた。よほど大変な作業らしく、私たちの食事中この男が顔を上げることはなかった。
 

 ラジオが演歌をうなりはじめた。すると音がピタッと止まった。若い女がとめたのだろう。私たちも急に会話がなくなった。
 お金を払って外に出るとき、キッチンの男がこちらをのぞいていた。カーテンの陰になったその顔は年齢もなにも、目鼻立ちさえ判然としなかった。その男を異国の得体の知れない魔術師と想像してみる。するとなにもかも合点がいくような気がした。

 それから雨にけぶる港を散歩した。しばらくは三人が三様の物思いに沈んでいた。
 夫が傘を片手に走り出した。ナオトと私は笑いながらしばらく夫の姿をながめていた。
  やがて視線を遠くにやると、黒いビロードの上に取り出された心のように、海が蠢蠢と横たわっていた。(2005年6月22日)

 

 

キヌタ草  アカネ科 東北地方南部以西に分布。草丈15〜30cm。直立したり斜上したりする。剛直な感じはない。ほとんどが分枝せず、樹下で群生することが多い。

 

 
 
 
     
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