料理とワインの店:BISTRO KRI-KRI  
   

ホーム
  ご来店になる前に
  歴史
  お知らせ
  メニュー
  最近のおすすめメニュー
  おすすめワイン
  マスターのコーナー
  マスターの奥さんのコーナー
  おもろいお客さん
  花族
  畑情報 嵐のち晴れ
  リンク集
  地図
  更新情報
   

 
花族
 
 
 
イチョウ

 その木は何の木だったのだろう?母が生れた時、その庭で母の産声を聞いた木は。
「おお、おお、元気なお子だ」。産婆の嬉しそうな声が産声にかぶさり、病弱で間もなく他界する母親は美しい笑顔を我が子に向けている。「旦那さまに、すぐご連絡を」。お手伝いたちがバタバタ走り、産湯の用意、食器の音、廊下を行き来するスリッパ、電話のベル。応対の声までいつもより大きい。やがて父親が会社から駆けつけ、近くの親戚も顔を出す。
「名前は、二三子とつけました」「まあ、今日のこの良き日を忘れないお名だこと」
 

 そんな騒ぎを見ていた庭の木の、葉は茂っていたのだろうか、それともすっかり落葉して枝ばかりが寒風にブルブル震えていたのだろうか。
「あたしの生れた家はね、坂を上りきったところにあって、今では郵便局になってしまってる。でも庭の木だけは残ってるのよ、ああ、いつかあの木を見せてあげたい」
 母のその言葉から三十年近くが経っている。同じ東京で、行こうと思えばすぐに行けたのに私は行かなかった。木だけが残っている実家の跡など見ても、仕方がないと思っていた。
 
 千九百十ニ年二月三日、母は牛込で生れている。東京市牛込区北山伏町四十四番地。今の牛込郵便局である。 
「さあ、ここは昭和十九年に新しくなってるからね。そういえば裏の方にいくらか木があったけど、どれも大きな木じゃなかったと思うねえ。森さんなら知ってるかもしれない」
 局員が指差した森さんとは郵便局へ用足しに来た人である。
「あたしもここに四十年以上住んでるけど・・大きな木ねえ・・待って、ひょっとしてあそこのイチョウの木じゃないの?」
 郵便局の中から通りの向こうの大きなイチョウの木が見えた。
「あれは古いわよ。あたしがここに来たときからあんなに大きかったもの」
 森さんと外に出た。寒さに身を縮めながら昔の郵便局のことを説明してくれる。
「裏はあんな風に昔から崖になってて、まっすぐな一本道でね・・裏の方には目立つような大きな木はなかったと思うわ。あればきっと覚えていると思うのよね」
「そうですね。やっぱりあのイチョウしかありませんね。母親の言った木かどうかは分かりませんが、いずれにせよ母のことを覚えてくれていますから」
「そうよ、きっとそうだわよ」。森さんが優しい顔で私を見た。
 イチョウの大木は初冬の風にもめげず凛と立っていた。たっぷりとある葉はまだ青さも残っていて、全体が黄葉するまでにはまだ間があるようだった。

 今年は十ニ月に入ってからイチョウの黄色が真っ盛りになった。母の木を訊ね歩いたあの日から数年が経つ。そろそろ琥珀の雪の中に母の産声を聞きに行ってみようか。(2007年12月10日)

 

 

 

イチョウ イチョウ科 中国原産。 街路樹、庭木、盆栽とする。ときに幹や枝から気根を垂れるが、これを乳(チチ)という。

 
 
 
     
    目次
    ページの一番上へジャンプ