料理とワインの店:BISTRO KRI-KRI
   

ホーム
  ご来店になる前に
  歴史
  お知らせ
  メニュー
  最近のおすすめメニュー
  おすすめワイン
  マスターのコーナー
  マスターの奥さんのコーナー
  おもろいお客さん
  花族
  畑情報 嵐のち晴れ
  地図
  更新情報
   

 
 
  ますたーのおくさんのこーなー  
     
  いぬけい  
     
 
左:MAY 右:十兵衛
撮影:岡崎伸彦
 
     
  トラの大往生  
     
 

 久しぶりに訪ねたら、その家の犬がいなくなっていた。甲斐犬の雑種で名をトラという。実に二十年近く生きた。このニ、三年というものは名前を呼んでも反応せず、ピンと立っていた耳も折れて頭にひっつき、ただボワーンと生きていた。
「目も耳も鼻も悪くなって」と飼い主は笑っていたが、ボワン状態も傍から見るとなかなかに快適そうだった。
 遠くに甲斐駒を臨むベランダで、朝からのんびり日向ぼっこである。腹が空いたら食い、喉も渇けば飲む。春は藤波を見、夏はホトトギスを聞く。秋はヒグラシをあわれみ、冬は降る雪に世をはかなむ。排泄は小波のごと小石のごとポコポコ出てしまうが、飼い主のおかげで、臭き香あたりに満ることもない。あらゆる邪念や葛藤など無縁で、もはや聖人さまの域、ああ、これぞ長生きの極意、と思っていた。
 

 が少し違った。
 去年の夏、トラは家出をしたのである。歩くのもおぼつかない犬が鎖をどうはずしたか、はずれたか。とにかく数日間もどらなかった。高齢であるから遠くへは行くまいと思い探したが見つからない。どこかで死んでいるのだろうと諦めかけたとき、近くの人から電話が入った。ハヤテの庭に犬がいるけど、お宅のじゃないかい?
 うちの庭には高低があって、半分が一段低くなっている。その一メートルばかりの高さを上れなくて蹲っていたのである。脇の方になだらかな道があるのだが、目も鼻も足も悪い犬に見つけられようもない。驚くのは、そんな身体でよくそこまで行ったものだということである。
 

 トラはハヤテが好きだった。夜中に放されると真っ先に飛んできたものだ。ハヤテが家から出てこなくても、「ほら見て、ボクこーんなこともできるんだよ」と頭を地につけお尻を高くあげて横目で私にアピールする。「早くハヤテに言ってよね」あまりの可愛さにグチュグチュにしてやると尻尾でバタバタと土煙をあげて喜ぶのである。
 ハヤテがシーズンのときは、それこそ気もクルワンばかりに泣き叫ぶ。近所の手前、私が出て行って、「これトラ、お帰り」とやる。聞くわけもない。強く叱ると、少し離れて恨めしそうな顔をする。
 

 ある時、車で走っていたら、トラが道路の真ん中にいた。よく見ると後ろに白い犬がひっついていた。交尾していたのである。ブッブッと鳴らしても困った顔をしてじっとしている。ハヤテは目をひんむき飛び降りんばかりであった。
 トラはその後も何事もなかったようにやって来たが、ハヤテは関心を示さず、それどころか今なら留守だとばかりトラの家のベランダまで走ってエサを平らげてくる。
 そのハヤテが、妊娠中のかのメス犬がうちへ入ろうとしたとき見せた剣幕は尋常なものではなかった。その複雑な感情や、枯れたと見えて実はまだ美しい記憶やほのかな執着を持ち、それをなぞろうとする気力を残している老犬の姿やなどに、思いを深くする昨今である。
 トラが逝き、ハヤテは五年前に逝った。確実に、時は流れてしまうのである。

 
     
 
     
    「日々これ疑問」も読む
     
    ページの一番上へジャンプ