風の十二方位-(Spring 98' Issue)

From My Bookshelves



Fantasy、SciFi、心理学関係の書評です。
書庫の中からざっくばらんに取り上げていきたいと思います。
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アヴァロンの霧シリーズ(マリオン・ジマー・ブラッドリー/ハヤカワ文庫FT110,114,117,119)
内容: アーサー王伝説をフェミニズムの視点から磨き上げた歴史大作。

_ 「後の世にモーガン・ルフェイと呼ばれることになる少女モーゲンは、両親と、そしてやはり後にアーサ王と呼ばれる弟から離れ ドルイド教の隠された聖地アヴァロンへ巫女となるべく旅立つ。 秘教と魔術を習得した彼女に科せられた使命は、アーサー王ともにキリスト教に覆われたブリテンの地にドルイド教を蘇らせることであった。 しかし過酷な定めに対してモーゲンが示した反抗が、この大いなる運命を狂わせはじめる。 弟アーサー王が迎える悲劇の死、キリスト教の地に残されたモーゲンは最後に何を見るのか。
_ 妖姫モーガンと呼ばれた少女モーゲンが語る、血と肉でできた人間が織り成す新たなる円卓の騎士。」
第一巻「異郷の女王」・第二巻「宗主の妃」・第三巻「牡鹿王」・第四巻「円卓の騎士」 

寸評:フェミニズムとファンタシー
_  ケルトのミスティシズムに彩られた歴史大作です。フェミニズムの視点から再解釈されたアーサー王伝説は、従来の騎士道物語から開放され、心の内の葛藤が織り成す様々な悲劇に満ちています。ストリーテリングの迫力をとってもまさに傑作の名にふさわしい作品です。

_ しかし、この作品はファンタシーではありません。以下はそこにポイントを置いてまとめています。

_ 物語の中で、ヒロイン・モーゲンは悩み続けます。必死に女神様のご意志に使えようとする行為が、次々に彼女に悲劇をもたらし続けることに、、、。その葛藤こそがこの物語とモーゲンの魅力になっているのですが、まさにそれ故にこの作品はファンタシーではなくなってしまっているのです。

_ 一例を上げましょう。彼女はランスロットを愛しながら、儀式によって弟アーサーと肉体的に結ばれたことを後悔し続け、自身の信仰にも疑いを持ってしまいます。もちろん現代の我々としては当然の葛藤です。しかし仮に、これが最もファンタシーらしい作家タニス・リーのヒロインだとしたら、同じように後悔するでしょうか。一作でも読んだ方はお判りでしょう。とんでもない!恐らく両方と肉体的に結ばれて、なおかつ愛する人間をふんづかまえて誇らしげに微笑んでいるでしょう(^_^)。ここに、ファンタシーと近代以降の小説の決定的な違いがあります。

_ ファンタシーとは何でしょう、それは現代に再解釈された神話なのです。キャラクターがその神話という物語(運命)に憑かれた人間でない限り、その物語(運命)は高貴さと純粋さを失い、ただの散文的な日常と化してしまいます。考えても見て下さい、葛藤があったり、後悔したりするという事は、その行動は多数の選択肢の内のただの一つにすぎなかったという事です。そうした偶然の行動がどうして物語(運命)足り得るでしょう。

_ この作品はフェミニズムによるアーサー王再解釈の物語です。男性的権威に覆われた騎士道物語の中で、踏みにじられ無視され続けている女性の自我、作者はそこに見事に光をあて人間の物語へと再生して見せました。男性原理で出来上がっているキリスト教の権威に対するモーゲンの罵倒は、まさに作者の分身でありフェミニストの面目躍如です。しかし、その意味において彼女の自我はあまりにも現代人過ぎるのです。権威に対する近代的自我の反発は、結局運命(物語)を受け入れる事の拒否につながり、その行動は迷いに満ちたものとなり、最終的には神話としての物語を破壊してしまいます。モーゲンは何回か儀式の中で女神のよりましとして、男性と肉体関係を持ちますが、モーゲンの運命に対する不信が徹底しているために神話的行為に思えず、まるでハーレクインロマンスの一節のように見えてしまいます。こうなってしまえば、もう既にファンタシーではありえません。

_ フェミニズムが小説の中に多くの新しい視点をもたらした事は事実です。しかしそれが近代的自我の所産である限り、ファンタシーにとっては諸刃の刃のようです。

_ 色々と書きましたが、非常に読み応えのある小説であることは間違いありませんし、ドルイド教に対する考証も揺るぎ無いほど確かで、作中にまさに6世紀のケルトが生きています。歴史物が好きな方にはお勧めの一作です。 _ /Next

銀色の恋人(タニス・リー/ハヤカワ文庫SF 725)
内容: 近未来を舞台としたタニス・リー流のピュアなラブストーリー
_ 「銀色の肌、赤い髪をしたシルバー、彼は鮮やかに少女ジェーンの前に現れた。そして少女はシルバーに恋をする。しかし彼は人間のコンパニオンとして開発された、ロボットであった。彼の魂の存在を信じる少女は、シルバーに愛を語り続ける。時に優しく、時にエゴイスティックに。ナルチシズムを乗り越えて少女が彼への愛を確かめた時、奇跡は起きる。タニス・リーの描く狂気に満ちたそしてあまりにもピュアーなラブストーリー。」
寸評:ファンタシーと物語
 我々の心はどこにあるのでしょう。幾兆もの脳の細胞のインパルスの中でしょうか。もしそうなら、エレクトロニクスのインパルスを体に収めたロボットが心を持つのは不可能なのでしょうか。

_ シルヴァー・イオナイズド・自動制御・人間型・エレクトロニックロボット:「シルヴァー」。彼に恋した少女ジェーンは彼を愛し続けることで、シルヴァーが彼女を愛せることを証明してしまいます。そう、すなわち彼に心があることを、、、

_ アンドロイド、近未来都市といった設定にもかかわらず、この作品には物語の魔法が満ち満ちています。「アヴァロンの霧」とは裏返しの意味でこの作品は完璧にファンタシーなのです。ヒロイン・ジェーンはシルヴァーへの愛の物語を信じきっています。時に見せる彼のロボットとしての反応に、真剣に怒り残酷に彼を傷つけるほどに。そこには理性による妥協はありません。しかしも、仮にももない、この物語(運命)に対する圧倒的ピュアさこそがファンタシーの本質です。

_ また、この物語は少女ジェーンの成長の物語でもあります。シルヴァーが愛することをおぼえ人間になっていくにつれて、少女ジェーンも他人を愛することをおぼえて大人になっていきます。その事は、巻頭にジェーンが母親の可愛がられたお人形として、まったく未発達の自我をもって登場することに予告されています。

_ 未発達の自我で恋をしたジェーンの愛は、最初ナルチシズム(自己愛)の裏返しにすぎません。その事がナルチシズムの変形である人形愛と重なって妖しく描かれています。自分にとっては真摯な愛でも、ナルチシズムから来る愛は、自分と異なる愛の形を許しません。何故なら他者は他者でなく自分の影にすぎないのですから。そんな子どもの愛は非常に残酷なもので、最初ジェーンは、シルヴァーのロボットとして反応に対して激しくシルヴァーを罵倒し、傷つけようとします。その度にシルヴァーは言います。「私をありのまま受け入れて下さい。」そう、自分の思い通りにならない他者の心の存在を受け入れること、これこそが自我を成長させ、真の統一した自己になる第一歩なのです。 
_ 逆に奉仕するものとして生まれたシルヴァーには、このナルチシズムがすっぽりと欠け落ちています。このナルチシズムがないかぎり、悲しみに血を流し、恐怖をおぼえ、溢れる喜びを知る真の心を手に入れることができません。なぜなら、自己愛がないかぎり自分のために生きることができないのですから。

_ 二人はお互いの心の欠けた部分同士であったのです。

_ そして、ジェーンがシルヴァーのありのままを受け入れて愛した時、シルヴァーも自分の中で生き生きとジェーンを愛する自分を発見するのです。そうした愛の絆を持った二人は、さらに外の世界の人間へと心を開いていきます。

_ この上なく幸せな二人、、、

_ そして訪れる悲劇、、、

_ もうこの先は申しますまい。その悲劇の果てに見る新たな奇跡、このラストシーンが名作「アルジャーノンに花束を」に匹敵するものであることは保証します。

_ 読み取ろうとすれば、この物語は幾つものメタファーで満ちています。シルヴァーは、統一した自我を持たずばらばらの感情(機能)を持って生まれてくる人間の象徴であり、また創作者が命を吹き込もうとする創造物のメタファーでもあります。しかし、そうしたメタファーに還元されることをこばむ強烈な物語がこの作品にはあります。

_ 様々な狂気に満ちていても、これはシルヴァーとジェーンの稀有のラブストーリーなのです。 _ /Next

上弦の月を食べる獅子(夢枕獏/ハヤカワ文庫JA 502, 503)
内容: 百億の昼と千億の夜に続く仏教ファンタシーの決定版。

_ 「戦場に心を捨ててきたカメラマン、肺を病む岩手の詩人、その二人の運命が巨大な螺旋の幻視の中で交わる時、双人アシュビンの旅が始まる。スメール山の頂上にあるという獅子宮を目指して登り続ける奇怪な動物達。その獅子宮の問いに答えるものが現れる時、世界は終わるという。修羅の旅を潜り抜けてアシュヴィンが獅子宮に立つ時、いかなる問いがアシュヴィンを待ち受けているのか。仏教的世界観を具現した日本人自身のファンタシーストーリー。」

寸評:日本人自身のためのファンタシー

_ 「人は、幸福せになれるのですか。」 

_ 人がこう問う時、その人の背後にどれほどの荒涼たる修羅が広がっているのでしょうか。
_ 童話作家としてあれほど幾つもの美しい話を書き、農学者として岩手の農民のために体をすり尽くすまで働き続けた宮沢賢治、しかしそんな光の部分の行動の裏に、黒々とした影としての飢えを見たからこそ、作者は修羅に生きる登場人物の一人として賢治を選らんだのでしょう。その修羅の一つとして、慈悲に満ちた妹とし子への禁断の愛が描写されています。また、もう一人は心に傷を負った元戦場カメラマン、三島草平。彼も幼児が惨殺される瞬間に、人間としてではなく傍観者(カメラマン)として立ち会ってしまったことに、修羅を感じ続けて生きてきました。彼もまた、愛した女性、涼子を残酷な運命により奪い去られています。

_ そんな修羅を背負った宮沢賢治と三島草平、この二人が巨大な螺旋の幻視の中で出会い、二人の魂を内に秘めた双人アシュヴィンとして生まれ変わった時、救済の物語としてのスメール山の旅が始まります。

_ この二人の運命を暗示するかのように、作者は冒頭で、草平に般若心経の中の「色即是空、空即是色」というフレーズを語らせます。

_ この内の「色即是空」は、「存在は必ず無に帰す、即ち存在は無にほかならない。」という意味です。我々の心の内の荒涼たる修羅を見事に言い表した言葉です。
_ 「たとえ今どんなに幸せと感じても、いつかはそれは奪い去られ無に帰していく。それを見据えた時、我々は無常を感じざるをえない。我々は決して100%満たされることはないのだ。そして満たれぬまま我々は去っていく。その意味では我々はこの世界にとって旅人であり、この世界に真に属していないという孤独(修羅)を抱えて生きていくように運命付けられた存在なのだ。」という我々の宿命(修羅)を表しています。

_ しかしこの「色即是空」を真に受け入れた時、次の「空即是色」という真実が現れ、全てが裏返っていきます。

_ 「空即是色」、この言葉は「無であること、それは存在にほかならない。」という意味です。すなわち、真に「色即是空」修羅である世界を見据えた時、目の前に現れる次のような真実を現しています。 
_ 「うつろいゆき消え去っていく幾つもの物事、そして人々、全てははかないものだ。しかし消え去って行くものもあれば、生まれてくるものもある。そうして移り変わっていく世界そのものはそこに在り続ける。最後に我々はその世界(空)に帰っていくのだ。我々は真にその世界(空)に属している。我々という存在は、永遠にあり続ける世界にほかならない。」

_ 「色即是空」と「空即是色」は、我々自身の終わることのない修羅と、そしてこれを真に受け入れた時、初めて救済としての永遠の世界を感じるとることができるという、大乗仏教の根本原理「空」を現した言葉なのです。 

_ この作品は修羅に生きる人間の救済の物語なのです。

_ 暗い海に半ば浸されて砂浜で目を覚ましたアシュヴィン、彼は過去の記憶すなわち修羅を思い出せなくなってしまっています。彼にとってはあまりにもつらすぎる修羅達を、、、そして浜辺で暮す奇妙な家族に助けられた後に、獅子宮で待つという問い「汝は何者であるか」に答えるべくスメール山の頂上を目指して登っていきます。しかし、彼は自らの修羅を忘れてしまっているが故に、この救済の旅でも新たな修羅に出会ってゆかざるをえません。
_ スメール山の頂にある人間の国「有楼」、そこでの絶望故にこの浜辺に降りてきて、憎悪に取り付かれて暮す男、螺旋士アルハマバート。彼の息子ダモンと娘シェラが密かにいだき合う兄と妹の禁断の愛と欲望。そしてその中にアシュヴィンが入り込むことで、巻き起こされる憎悪と嫉妬。また、この事はこの家族に悲惨な最後をもたらし、有楼と其の回りに住む猿人達の争いをさらに悲惨なものに変えていくのです。 
_ 互いの執着が生む修羅はこの救済の世界でも尽きず、一つ一つがアシュヴィンの過去の亡霊のような修羅の記憶と響きあいます。

_ 自らの修羅に背を向ける限り、アシュヴィンには救いは訪れないのです。

_ しかし、旅の途中でアシュヴィンは業(カルマ)と名乗る奇妙な動物に出会います。カルマはともに旅をしながら脱皮を繰り返し、その度に魚から人間に近い姿に変わっていきます。そして、このカルマこそアシュヴィンが双人としてこの世界に生まれる時切り捨ててきた修羅の記憶なのです。獅子宮の前でこのカルマ、すなわちアシュヴィンの業(カルマ)の真の姿に出会う時、カルマはかつて失った愛する女の姿にもどり、アシュヴィンは自分の修羅を取り戻します。そして自らの修羅と再び一緒になることで、初めて修羅をも含むこの世界を見出し、問いへの答え、自分は何者であるのかを悟のです。
_ 即ち、「自分が移ろいゆく存在(色=修羅)であり、なおかつ、それを含んで永遠に存在する世界(空)そのものである」ということを、、、
_ そして、獅子宮での問いに答えたアシュヴィンは世界を取り戻した歓喜と共に落ちていきます。かつて二人として存在した修羅の世界のもとへ。 

_ 我々はいずれ滅するはかない存在です。

_ それ故に修羅の世界に戻った草平としてのアシュヴィンは再び問います。

_ 「人は幸せになれるのでしょうか」

_ しかし、賢治としてのアシュヴィンは喜びともに答えるのです。

_ 「ええ、なれますとも!」

_ 「色即是空、空即是色」、日本人が1000年以上昔にこの空という言葉に触れて以来、多くの日本人が、この我々包み込んでくれる世界のイメージを「母」のイメージと重ねあわせて見てきました。我々は真に満たされていた「母=子宮」の世界から、この世に産み落とされ修羅を生き、そして「母=子宮」の世界に帰っていきます。しかし、本当は「母」なる世界は修羅としてのこの世をも含んでいるのです。
_ この作品にも、「母=子宮」のモチーフが満ち溢れています。この物語のシンボル螺旋そのものが、「母=子宮」への回帰という自分が世界に溶けていく妖しい感覚を象徴しています。また、双人アシュヴィンは海の中で目をさまし、「自分は何者であるのか。」という問いに答えるべくスメール山の頂上を目指して旅を始めます。これは母なる子宮の中で我々が変転を繰り返しながら生まれてくることへのメタファーです。特定の存在を持たない「空」としての我々から、何者かである「色」としての存在へ移り変わっていく旅の象徴なのです。
_ そして、この[空」から「色」への旅は「私」の誕生の旅であるとともに、かつて生命が生まれ落ちこの世で進化してきた旅でもあります。我々が子宮の中で受精卵から人間に生まれてくる時、我々がかつたどってきた進化の道(単細胞→多細胞→魚→人間)をなぞって発生してくるのをご存知でしょうか。作品の中で、アシュヴィンとともに旅を続けていくカルマが次々に脱皮(進化)し魚から人間になっていくことに、それが表現されています。そしてこのことは「私」と全生命が同じ旅(法)を共有していること、すなわち我々が変転を重ねていく世界にと同じ物に他ならないことを示しているのです。

_ 名作「百億の昼と千億の夜」が、仏教における無常感「色即是空」を現す物語だとすれば、「上弦の月を食べる獅子」は仏教における救い「空即是色」を現す物語なのです。

_ 解説してしまえばこのように固い話になってしまいますが、ストーリーテリングの上手さはやはり夢枕獏氏です。作品には彼のパワフルなイメージの世界が溢れていて、上下巻の文庫を一気に読みっきってしまう興奮があります。数少ない日本人のファンタシーとしてお勧めの一作です。 

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