The Secret Book of Venus Book I

Faces Under Water
Tanith Lee


第一章 The Mask


 謝肉祭・仮面の祭りが華やかなベヌス、フリアンはいつもの様に錬金術師シャーキンのために死体を捜していた。しかし、彼が見つけたのは不吉な仮面であった。その仮面をシャーキンの館にもたらすと、シャーキンはその仮面に太古の黒い魔術がかけれられていることを告げ、その仮面を引き取った。フリアンはアパートに戻り、家の女主人から都で流行っている歌を作曲した青年デル・ネロが失踪したニュースを聞かされる。そして、デル・ネロがフリアンの見つけたマスクをつけていたことも。


 都はデル・ネロの歌で満ちていた。その歌は、闇に閉じ込められた姫君への愛を歌ったもので、いくつもの場所で何人もの楽士がその曲を奏でていた。ゴンドラのこぎ手ジュゼッペは、デル・ネロがそんな恋をしていたうわさがあることをフリアンに告げた。ゴンドラに乗るフリアンに、歌に歌われたような女が姿を表す。彼女が館から船へ乗り移るそのわずかの時、それはまるでランプによって照らされた舞台のよう。深い青の服と蝶のマスクを身にまとった彼女の肌はまるでアラバスターの白であった。

 何故か、フリアンは幸福だった過去を思い出した。富裕な家族の中に生まれ、父からも母からも愛を注がれていた若い日々。何故それを打ち捨ててしまったのか、フリアンの記憶は闇に消えていた。


 気に入りの娼婦のもとで一日を過ごすフリアン、そして今日はディアナの日、シャーキンの魔術を披露する月下の集まりに招待を受けた日であった。ジュゼッペとともに参加したフリアンは、その集まりに奔放な振る舞いで有名なマダム、メッサリーナや、錬金術に入れ込みシャーキンを嫉妬する貴族テアボルトらも見出す。
 そして、青の女。彼女は再び蝶のマスクを付け、無表情にその場にたたずんでいた。

 シャーキンの魔術は始まった。裸の女達が踊る中、シャーキンの呪文は女神ディアナを呼び出した。女神は雪のごとく、月のごとく白、三日月の紋章の額の下は黄緑の猫のような瞳。しかし、魔術儀式の最中に観客は雰囲気に飲まれ、メッサリーナは騒ぎ出し、シャーキンが魔術を止めても、観客達は興奮の中にいた。その騒ぎの中、再び青の女がフリアンの前に姿を表す。しかし、話し掛けるフリアンに彼女は無言で答えた。
 その帰り道、フリアンは数人の男達に襲われる。フリアンは運河に飛び込んでかろうじて逃げ延びた。


 アパートに戻ったフリアンは、留守中に彼を探しに来た者達がいたことを告げられる。ジュゼッペの自宅をさがし訪れたフリアンは、ジュゼッペがバラバラにされて殺されたことを知る。妻であったカリプソは取り乱し、フリアンをなじりまた誘惑しもした。そして、漕ぎ手仲間から、あのマスクを拾ってからジュゼッペが悪夢に悩まされていたことも知る。
 フリアンもまた熱病に倒れた。


 回復したフリアンは、ゴンドラに乗りあの青の女を見かけた館の運河までやって来る。そして、彼はデル・ネロの歌を歌った。
 「もし、あなたに笑みを浮かばせられなかったら、私は死んでいくだろう」
 彼女は現れなかった...

 その後、フリアンはシャーキンの館を訪れる。しかし、シャーキンの館は荒らされきっていた。あのマスクは奪い去られていたのだ。何物があのマスクにそれだけの執念を持つのか。使い魔としていたカササギも殺され、茫然自失とし、そのカササギとの思い出をつぶやきつづけるシャーキン。しかし、隣室から羽音が聞こえ、その部屋に残された紙にはメッセージがあった。

 「Don't cry. I live (泣かないで、私は生きている)」



第二章 The Face


 フリアンは夢を見ていた。
 かつて幸せで家族とともにいた日々、そして18歳の日の晩餐、その日は父の船団のキャプテンをしているレピダスも来ていた。レピダスはさまざまな異国での冒険の話とともに、遠いアマリスの話をした。彼の地ではキリスト教の代わりに偉大なる魂が信仰されていて、魂は肉体とはなれても存在し、この世のさまざまな奇跡や魔術と結びついていると言う。いつもなら興味深い話も、フリアンは集中できず、美しい少女に興味を引かれていた。

 その夜に少女を訪れた後であった。何かがフリアンを呼んだ。高みに上り、ベヌスの都を見下ろせる場所になったとき、彼の心に今の生活への疑問がわいてきた。まるで色褪せた仮面劇を見るような...そして疑問は、あの都の中にこそ真の生活があるという確信に変わった。
 

 フリアンは父や母の怒りや嘆きを押しのけて、ベヌスの都に住みかを移した。

 暑さがねっとりと都を包む中目を覚ましたフリアンは、二人の男を連れて、あの青い女の館を訪れた。ノックしたフリアンを迎えたのは、初老の執事であった。フリアンが彼女に逢いたいと告げると、彼女は執事にフリアンを招き入れさせた。
 部屋の中に女はいた。シンプルな白いマスク、そしてその中の、深く輝く青の双の瞳...

 「私は、しゃべらないのです。」

 会話は女からの書かれたメッセージによって始まった。
 探りを入れるフリアンに対して謎めいた答えを続ける女、そして、フリアンはあのデル・ネロの歌を切り出して問い掛けた、これはあなたのための歌かと。女からは再び謎めいた答え。

 「いいえ、私のためではありません。」
 「都中の人々がそう言っているのに。」
 「そう言う意味ではないのです。私のためではありませんが、私のことを書いた歌だと申し上げたかったのです。」

 自分の名はエウリディケだと告げる彼女、彼女はすでにフリアンの名を知っていた。エウリディケ、オルフェウスが死者の国まで追い求めた妻、振り返り永遠に失った女。むしろ、振り返る者に死を与える意味の名かと問うフリアンを、彼女は、死を与えたのはオルフェウスであったと正して、フリアンを去らせた。


 フリアンは町でシャーキンからのメッセージを受け取った。今晩館に来るようにと。黄道12星座の描かれたマジックサークルの中、シャーキンは儀式を始めた。手にはデル・ネロと書かれた紙。初めに青の女が現れた、怒りの獣が吼え、そして、マスク。黒きアポロをかたどったマスク、どこからか調子の狂ったデル・ネロの歌が聞こえ、マスクは血を流し始めた。悲鳴が館に響き渡る。
 やはり、デル・ネロは殺されていた。しかも、人の手ではなくマスクで...
 シャーキンはマスクメーカーギルドが関わっているだろうと語った。

 家に戻ったフリアンは再びメッセージを受け取る。
 「アクイラにいってそこを眺めるのだ」
 わなであろうとフリアンは思う。しかしそれ故にフリアンは出かけた。アクイラにつくと、一人の半裸の女が駆け出してきた、宝石をぶら下げ美しいマスクを着けて。それはメッサリーナだった。噂では、マスクが彼女を狂わせたのだという。
 フリアンはマスクの謎を探るため、使者のふりをしてマスクメイカー・ギルドの館に乗りこんだ。門番はギルドマスターに会うには手紙で事前に知らせなければならないと伝え、フリアンを追い払った。


 エジプトから奪い去られた石の柱、その上で片足を上げ広場を見下ろす翼を持つ獅子。マーケットの喧騒にはフリアンは何の興味もいだかれなかった。しかし、その中に豪華な衣装を身にまとったジュゼッペのかつての妻カリプソが姿を見せた。彼女はフリアンに、ここは彼にとって安全ではないと警告した。

 そして、街路に入ったフリアンの背後に数人の男達が迫る。フリアンを連れ去ろうとする男達の手を逃れる時、フリアンのマスクが奪い去られた。大声があちこちから湧き上がる
 「素顔! 素顔だ!」
 押し寄せる人々、マスクの群れ。カーニバルのベヌス、素顔でいることは罪とされていた。人々を振り切って逃げるフリアン。ゴンドラを駆り、水路を越え、たどり着いたのは館。物言わぬ青い瞳の女が住まう...

 老いた執事を押しのけ館に入るフリアン。そしてドアを開けると彼女はいた。
 水を滴り落とすフリアンの前には、ハープシコード奏でる青いガウンの女。メロディーが部屋を満たし、女の肩が上下する。
 「ここまで来た。」
 演奏が止まり、フリアンをわずかに返り見る青い瞳。
 「ご挨拶いただけないのかな。長い道のりを越え、ここまで来たというのに。」
 女は振り返った、一時に。
 女も素顔だった、そう、彼女の顔...
 フリアンの血が沸き立った。
 女の顔は大理石よりも白く、その瞬きせぬ青い大きな瞳はフリアンを捕らえた。それは喜悦の色、あるいは鋭い痛み。

 女は美しかった。

 それは現実のものにあらずして真実、命を持たずして生きていた。女の時は止まっている、女は石よりなる立像、全てを石に変えるメデューサ...
 フリアンは目をそらした、目に入る床がぼやけていく。
 そして、フリアンは崩れ落ちた。


 フリアンは夢の中にいた。いつかこのベヌスが青い海に覆われ、水底に沈む日のことを。幾艘ものボートが自分のはるか上を滑って行く。そして、目を開けると...自らがやわらかな腿の上に頭を横たえているのに気がついた。頬にあたる絹の感触、手を伸ばせば香水の香りに包まれた女の体。

 フリアンは口を開いた。
 「お優しいことだ。まだ、支払いをするとも約束してはいないのに。」
 女の手が静かにフリアンの顔をなでる。フリアンは起き上がろうとしたが、体は動かなかった。女の立てた一本の指がフリアンの唇に触れる。フリアンの意識は再び闇に落ちた。一度だけ気がついた時、フリアンが猫の仮面の男達に運ばれていることに気づいた。そして、再びあの青い夢に、深い水底に落ちて行った。

 目を覚ましたフリアンは、気分が良くなっているのに気がついた。それから体が元に戻るまでの数日間、世話をする猫のマスクを付けたメイドの少女にたずねた。
 「何日倒れていたのか?」
 少女は昨日からだと答えた。フリアンは少女にあれこれと女主人のことを尋ね、女が娼婦であることをほのめかした時など、少女は怒りを顕にした。
 「そんなことが良く言えたものね」
 「それでは何故私にこれほどしてくれる?それとも、彼女は私に好意を持っていると?」
 少女は怒りで押し黙りながらうなずいた。そして癒されたフリアンは女の部屋を訪れた。

 小さいが豪華な部屋には、晩餐が整えられていた。女が白いシンプルなマスクを付けて部屋に入ってきた時、フリアンは礼を言った。全てはゲームだと、与えられた役割であると思いながら。女はフリアンにメモを渡した、マスクを取っても良いか? それにあなたは堪えられるかと。

 「お望みのままに、レディ」
 女が再び書いた「こうなることを、私は望みませんでした。」というメモに、フリアンはではこの館を去ろうかと応じた。
 「あなたは私の囚われ人ではありません。前には自分でこの館を去ったでしょう、そして帰ってきたのはあなた自身。」。
 そして、女はマスクを取った。女の顔こそがマスクであった。女の遣した長いメモには、自らの顔が凍りついたものであること、一筋の筋肉も動かせず、瞬きもせず、飲み込むこともできないことが語られていた。そして、メモの最後はこう結ばれていた。
 「もしあなたがそれを思い描くことができるなら、私はこの凍りついた顔の後ろにいるのです。微笑み、話したい、聞きたいと望みながら。」

 フリアンは女のその完璧な顔に見入った。それは石でできた完璧さだった。いずこをも動かすことのできない凍りついた顔。そんな過酷な運命が女を歪めた気配は微塵も感じられなく、その美しさには傷一つ無かった。フリアンが幾万の女達がその美をうらやむだろうと問い掛けると、
 「私を見た男が気を失う、そんな私を誰かがうらやむと?」
 そして女は自分をエウリディケと呼んで欲しいと伝えた。

 しかし、フリアンがネロは彼女に殺されたのではないかとほのめかした時、彼女の凍ったマスクの奥で怒りが燃えるのをフリアンは感じた。何の乱れも無い動作で彼女がフリアンにメモを渡したにもかかわらず。
 「I cry. I live.(私は泣きながら生きている)」
 エウリディケは立ちあがり部屋を去った。今夜あなたを信頼したことを恥じながら、いつか私は死ぬでしょう、最後にそんなメッセージを残して...

 自分の部屋に戻ったフリアンは再びエウリディケからの手紙を受け取った。手紙には、ネロは自分の恋人であったこと、それが自ら望んだ恋ではなかったにしろ、その死をいたんでいることが書かれていた。そしてフリアン自身にも危険が迫っているので、助けが得られるまで、何とか守り通すことができるこの館にとどまって欲しいとのメッセージが添えられていた。そして署名の後のこんな言葉で手紙は締めくくられていた。
 「人間の世界で自然に振舞うことは私には難しいことです。何故なら、私はあなたが見たような化け物として、この世に生を受けたから。」
 フリアンは手紙の中に初めて彼女を見た、凍りついたマスクの女ではなく、白い服に包まれた少女として、フリアンは紙を握り締めると彼女の部屋へ向かった。

 いくつものドアをくぐりフリアンは明かりの漏れるドアを開いた。部屋の奥にはエウリディケの背を向けた姿、彼女の髪は下ろされていた。フリアンはその背中から声をかける。
 「お互い見そこなっていたわけだ、それでもなぜ私を助けたいと思う?」
 彼女の首がゆっくりと左右に振られた、YesともNoともとれるように。引き絞られた腕、その先のトパーズの指輪を、机の上のろうそくが一瞬輝かした。彼は彼女を望んではいなかった、しかし世の女の誰よりも彼女を望んでいた。フリアンは彼女の前に立った。フリアンは彼女に手を重ねる、そしてゆっくりと顔を近づけた。柔らかく唇が触れる。
 「YesかNoか...示してくれれば...わかる」
 フリアンの問いかけに彼女の首がかすかに縦に振られた。
 再び唇を合わす。彼女の舌は柔らかくフリアンの舌を受け止めたが、決して自ら動くことは無かった。エウリディケはその腕をフリアンの首に回す。フリアンは抱きとめた彼女をベッドに横たえた。

 元の世界は置き去られ、この部屋は一つの世界になった。

 凍りついた顔の後ろで彼女は翻弄され、高みへと上って行った。彼女の呼吸が、手や足がそれをフリアンに物語っていた。彼女は全身で一つの言葉を表した、「I Live(私は生きている)」。やがて彼女の手が彼を強く引き裂き、力なく崩れ落ちた。そして彼も...

 昼、夜、世界はこの部屋を巡る。
 朝の金の光が窓の隙間から彼女の顔を照らす。彼は瞬きを忘れる。
 外は雨、運ばれた食事。エウリディケは彼の口から初めてドルチェの味を覚えた。

 フリアンが起きると彼女はいなかった。

 そしてメッセージ、
 「愛する人、準備をしてください。今夜出かけます。あなたは安全です、信じて。
 彼女を信じる? フリアンは彼女の何処も信じてはいなかった。ただ今は彼女が言う通りにしなければならない、それだけのことだった。フリアンはシャーキンに手紙を出し、身支度を整えた。

 日暮れ時、エウリディケは黒いマントに身を包んで帰ってきた。フリアンが彼女にマスクを取るように頼むと彼女は素顔を表した。フリアンは自らの唇で再び彼女の唇を取り戻した。彼女が渡したメッセージにはこれからマスクを着けて出かけること、そして私を信じてくれるだろうかと記されていた。
 「いいや」
 見つめるフリアンに、エウリディケはマスクを着けた。
 「私が信用しないということを信じないのかい?だって君はこれから私を死に赴かせるかもしれないだろう。」
 彼女は身を寄せて、彼の胸に手を当てた。
 「それは(鼓動は)恐怖じゃない」彼は言った。「欲望さ。」

 ドアは開かれた。何処へ行くのかと尋ねるフリアンに、安全なところ、他の誰も助けることはできないでないでしょう。私は指示を与えられたのです、と走り書いた。
 「誰から?」
 「待ってください。」
 「待てないといったら?」
 彼女の手が怒りに赤く染まり、彼の手を握り締めた。
 「分かったよ、仰せのままに。前に言わなかったかい?君はいつでも私を殺せるよ。私を虜にしてしまったんだから。」
 彼女は激しくかぶりを振った。フリアンはキスで彼女の手を閉じさせるとマスクを身につけた。

 外はすでに濃紺の闇に沈んでいた。


 扉を開けるとそこに続いているのはベヌスの地下を走る通路。その暗闇を従者のランプの明かりが照らす。いくつものサインによって導かれた場所は、青銅の仮面、マスクメイカー・ギルドのサインをつけた門。その門をくぐり、たどり着いたドアを従者がノックする。

 「昇る太陽を求める者。」
 「名を。」
 「マドンナ・エウリディケ、その従者、同行者が一人」
 ドアは開いた。
 「お待ちしていました。」

 空の様に高い天井を持ったホール、その天井には緑の空と嵐が描かれ、端には光り輝く太陽が、反対の端には月が星を伴って描かれていた。そして壁には百ものマスク。エウリディケがフリアンの唇に指を当てた(「静かに)。ドアは3回たたかれた。

 開けられたドアの向こうは、死そのもの、部屋の全てが。微笑む髑髏の燭台に灯されたまばゆいろうそくの明かり。それは窓の下の別の髑髏を照らし出していた。その数は47、歯は抜け落ちもう微笑むことのない髑髏。
 これが歓迎の印か...
 フリアンは、エウリディケが座した男の前に立っているのを見た。彼らは手を使って言葉の無い会話を交わしていた。男は奇妙なマスクを着けていた。目と口の位置に穴が開いた青い円形のガラス、その後ろには結ばれた灰色の髪。エウリディケがその蝶のマスクをフリアンに向けた後、少し躊躇する様に後ろへ下がった。そして、男が口を開いた。

 「お前がエウリディケの愛人か」
 「もしそうだとして、あなたは彼女のなんだと」
 「父親、だが。」
 「それは、それは。私は恐れなければならないのでしょうな」
 「いいや、彼女は全て話している。そうでないなどとは思いもしないが。」
 そして男はフリアンを知っているようにほのめかした。フリアン己の記憶の底をさぐる。
 「思い出せぬと、軽く扱われたものだ。」
 「レピダス!」

 かつて、父の商船隊のキャプテンであり、遠くルス・パルブスや南アマリスまで旅した男。その男がマスクメーカーギルドのメンバー、そして仮面の顔を持つ娘の父としてここにいた。
 レピダスは、フリアンにまだエウリディケがデル・ネロを殺したと思っているかと尋ねた。フリアンが否定するとレピダスは意外そうにしたが、「その通り殺したのは彼女ではない」と断言した。レピダスはフリアンにワインを注ぎ、彼にフリアンのことを話したのは、ゴンドラの漕ぎ手ジュゼッペだと告げた、あの夜デル・ネロのマスクを拾ったことも。

 「それならば、私は殺されるはずだった。しかし、そうではなくなった、何故なら私はまだここに生きているから。違うのだろうか?」
 「エウリディケがお前を愛したからだ。そしてどうやらお前もその様だが。」
 「デル・ネロも彼女を愛していたのでは。」
 「彼は愛していたろう。しかし、エウリディケにはそれほど強い感情はなかった。」
 「殺人にしては奇妙な理由だ」
 レピダスはこの殺人にはギルドが関わっていること、そしてこれがただ一つのものではなくその中にはメッサリーナも含まれることをあいまいに語った。つまり、ギルドが殺人を請け負うこともあるとほのめかした。

 そしてレピダスはエウリディケとの出会いを語り出した。フリアンの一家に招かれた晩餐の夜、それは13年間の航海を終えて自宅へ戻る途中であった。そして家に帰り着いてみると、航海中に生まれたはずの娘の姿はどこにもなかった。妻を問い詰めると尼僧院に預けているとだけもらした。
 尼僧院から連れてこさせた娘は、白いヴェールをかぶっていた。まるで霜に覆われた花のように。そしてそのヴェールの下から現れたのは、石の顔。数百万人に一人は起こりうること。全ての顔の筋肉が死んでいる病、たった一人の自分の娘に起こった病。彼女は名前すらもらっておらず、尼僧院では他の娘と同様ただマリアと呼ばれていた、8番目のマリアと。

 「それで彼女を家に招き入れたと、」
 「私が?いいや。私は彼女に召使を与え下がらせたよ、レディーとして十分な待遇が得られるようにして。娘は尼僧院に住むべきではないからな。娘から最初の手紙にはこうあったよ。親愛なるお父様、私は今とても幸せです。

 レピダスとエウリディケが行っていた手を使った会話についてフリアンが尋ねると、レピダスはそれはアマリスの地でオリカルチ(注:原住民部族神)が発明した伝えられるものを習ったのだと説明した。そしてエウリディケは将来それをフリアンに教えるだろうという事も。何故と問うフリアンに、エウリディケには夫たる守護者が必要だからだと語った。そして、それについてはフリアンに選択の余地があるが、もし生き延びたいと思うのならギルドのイニシエーションを受ける必要があると告げた。

 「では、そうしなければならないだろうな。私はまだ死にたくはない。」
 「ほう、それは知らなかったな。お前はずっと半ば死にたいのかと思っていたよ。」
 「だが、今やあなたの娘の虜だ。」
 「お前はずっと天邪鬼だったからな。」
 フリアンは思った。
 (そう、娘を愛するほどひねくれていると、その父は思っているわけだ。父が憎んでいる娘を愛するほど。これは義務、それとも新たな試験か? 「私はとても幸せです」、か。
 「ともかく、明日は我々と晩餐だ。お前が受けるギルドの儀式は難しく、野蛮なものだ。整えておく様に。」

 砂糖に絡め取られた蜂、何処にも逃げ場はない。少なくとも今はまだ。

 「仰せのままに」

 かつて家族と共にあった日々、レピダスはよく自分の航海をスリルに満ちた冒険談として語った。レピダスは我が家の俳優だった。しかし、俺は他の少女達に目を移し、ろくに聞いてはいなかった。恐らくレピダスは喜んでいるんだろう。彼が俺に見出したもの、酒に沈み、ナイフを弄ぶ、自らを殺しつつある男。俺は罰だ、彼にその美しい不倶で恥辱を与えた娘に対する...


 晩餐の席は暗く、それでも東方からの絹がふんだんに使ってあるのが見て取れた。席に着くのは7人。エウリディケはフリアンの隣に座り(もちろん食事の変わりに幾つかの飲み物の入ったゴブレット)、レピダスは今夜もあの青いガラスのマスクを着けていた。

 テーブルにつく人々は豪華に着飾っていた。二人の男はフリアンのと同じようなシンプルな白のハーフマスクをつけ、もう一人の男は半月のマスクをつけていた。そして、最後は黒のヴェルヴェットドレスに身を包んだ女、彼女のマスクは黒の幻想に満ちていた、だがその女は、カリプソ? しかし、フリアンに対して何のそぶりも見せはしなかった。彼女は半月のマスクの男に自分のマスクを取らなければとささやいた。男は同意したのにもかかわらず、彼女の指はマスクにはかかりもせず別の場所をせわしげに動いていた。

 蝋燭がほのかに揺らめくだけの明かりの中で、
 「山の中腹まで行けば、炎が見えるだろう」
 「羊はすでに藪の中だ。」
 「神の公正な目を褒め称えなければいけませんな。」

 こんな会話のみが交わさ、フリアンに理解できることはなかった。そんな中フリアンは、カリプソはこのギルドが夫であるジュゼッペを殺したことを知っているのだろうかといぶかしんだ。彼女は「できない」とつぶやいた。しかし、誰もそれに関心は払わなかった。彼女の美しいマスクの除き穴はバラの形。その中で目はあちこちに視線を移していた。そして、彼女は立ちあがり一つの方向を指差した。
 「なにかがいるわ!」
 「なにもいないよ、お座り。」半月のマスクの男がなだめた。
 「猿だわ、猿がいるのよ。」
 「もしかすると、この部屋に取り付いた動物の幽霊かもしれんな。」
 レピダスは女の手に触れながら言った。
 「さあ夜もふけた。そろそろ皆もベッドが恋しくなってきたろう。明日はすることがある。」

 レピダスはフリアンに彼の寝室を案内すると告げた。フリアンがあの黒のヴェルヴェットの女はカリプソかと尋ねると、レピダスはそうだと認めた。メンバーの一人が望んだからここに同席しているので本来はここに属しているわけではないということも。
 彼の寝室の前で、フリアンはエウリディケに振りかえり手を取った。彼女を憎む父の元へ彼女を残すことになる、しかしそこに選択肢はなかった。フリアンは彼女の髪にキスをして身を引いた。レピダスはフリアンを寝室に導いた。エウリディケは彼女の父があれほど彼女を憎んでいるのを知っているのだろうか、恐らく彼女は仕方の無いこと受け止めたのだろう、様々な思いがフリアンを眠りに誘った。

 ラグーンの緑の上を緑の海鳥が滑っていく、そして叫び声、女の悲鳴のような、フリアンはベッドから飛び起きた。ドアを開けると、黒いエプロンをつけた少年が走ってきた。彼はエウリディケが呼んでいる、今すぐ来て欲しいと必死に伝えた。
 少年が開けたドアをくぐって入ったフリアン。その目に最初に飛び込んできたのは、エウリディケだった。ナイトローブを着、髪を解き流した彼女は自分のベッドの前で立ち尽くしていた。
 そして男が一人、倒れた姿で。それはレピダスだった。

 フリアンがエウリディケの名を呼ぶとエウリディケは振りかえった。彼の胸に飛び込んだ彼女は彼の中で暴れた、叫ぶことなく。
 「わかってるよ...わかっている。君の叫びが聞こえたんだ。わかっている。聞こえるよ。」
 抱きしめながらフリアンは彼女にささやいた。

 彼女は落ち着くと、フリアンにメモを書いた。

 物音で目覚めると、父が床に倒れているのに気がついたのです。
 父は晩餐の衣装そのままでした。
 しかし、髪の毛は血に染まり、そして顔は...皮も、肉も、目も、鼻も切り離され、骨だけが残っていました...

第三章 The Skullへ