パラディスの秘録 堕ちたる者の書 タニス・リー/角川ホラー文庫(H508-2)
「黄の殺意」書評: 世界の終わりと永遠なる世界 

序論: キリスト教の光と闇

(以下の文章はキリスト教が社会に与えた影響を述べており、個人の信仰に立ち入る意図はありません。)


 華やかな光の中に林立するゴシックの尖塔、
 まるで一つ一つが神への祈りでもあるかのような静かな都。
 しかし夜...
 ほのかなランプに浮かび上がる街路は闇の匂い、
 魔獣(ガーゴイル)が見つめる先には暗き狂気と悪が花開く。
 ここは、どこか別の地球のパリ、その名をパラディス...

 神への祈りによって築かれ敬虔なゴシック都市。私たちが知るパリやロンドンのイメージはそんな美しい昼の幻影によって出来上がっています。しかし光が強ければその闇も濃くなるが道理。夜ともなれば、その昼の敬虔さをむさぼり尽くすような貧困と狂気と悪が花開いていました。そんなキリスト教世界の光と闇を、ヒロイン・ジュアニーヌは旅をしていきます。時に全てを突き放す妖魔の目で見ながら。

 何故それほどまでに、キリスト教世界は昼と夜とに分裂せざるをえなかったのか?その答えはキリスト教が伝える次のメッセージに集約されています。

 「悔い改めよ、裁きの日は近い...」

 不思議ではありませんか、もしいと高き神が完全であるならば、何故世界は完全ではないのでしょう。
 それはこの世が罪を犯した我々に対する牢獄であるからです。

 キリスト教徒であるならば自分が罪を犯したものであることを認め、神にたいしてあがないをし続けなければなりません。そしていつの日か来るであろう審判の日に、神の栄光と共にあろうと日々を生きる。自分が神の完全な従属物であること悟ること、それがキリスト教徒にとっての徳の始まりなのです。
 しかし、犯した罪をあがない続けるという生き方は、当のヨーロッパ人たちにとってもつらい、はりつめたものでした。
 故にその生き方は、昼には正義への希求という善を生みはしたものの、夜には他者への過酷な支配という鬼子を生み出しました。まるで、追い詰められた人間が攻撃的な多重人格を生み出して自分自身を救うように。
 まるで、神になって相手を支配することで自分の罪を忘れようとするように...
 そして、その最も身近な支配の対象とされたのが女でした。


本論: 丸い地球のアズュリアズ―ジュアニーノ

 ヒロイン・ジュアニーノ...まず彼女は普通の意味での人間じゃありません。
 人の肉体と心は持っていても魂は妖魔、そんな少女です。ある意味では彼女は丸い地球に転生したアズュリアズなのでしょう。人でないものが人の形をとったエヴァンゲリオンの綾波レイを思い浮かべてもらえば良いかもしれません(その辺がこの物語を一読したときにわかりずらくしている一因かと思うのですが、それは後述)。

 とにかく物語の前半、彼女にはこれでもかという感じで不幸が降りかかります。まず、義父にはいきなり処女を奪われ、弟には言い寄られて、身を守るために石をもて撃ち殺してしまいます。そして愛していた弟ピエールには裏切られ、その愛した者を自ら罠にはめておとしめる運命を選び取ってしまう、ほとんどふんだりけったりです。こんな過酷な運命にジュアニーノの心は酷く歪んでいき、ついにはもう一つの人格、残虐な盗賊ジュアンを作り出してしまいます。
 しかし、物語を読んでいくとジュアニーノの一部がどこか冷めているのに気がつきませんか。これだけの不幸も彼女の芯には届いていない、そんな感じ。それこそ、彼女の妖魔の冷めきった魂であり視線なのです。そしてこの妖魔の目には自分の不幸が聖書の罪をなぞっていることが見えていたのかもしれません。

 そう、この前半部はかつて人間が犯した罪のメタファーなのです。

 ジュアニーノが義父に犯されるシーンは、エヴァがアダムを誘惑する行為の女性側から解釈でしょうし、弟を石で打ち殺すシーンは、カインの弟(アベル)殺しを暗示しています。そして、最愛の弟ピエールに裏切られて彼を罠にはめる部分は、神に見捨てられたカインの嘆き、罪に落ちていく心の動きをなぞっているのです。
 悲嘆に呆然とするジュアニーノ心の芯でアズュリアズのこんな声が聞こえます。

 「そう、これが人の罪とされたもの...」

 人々から間違いなく罪と断罪される運命に、ジュアニーノの心は修道女ジャーヌと野獣の盗賊ジュアンに分裂してしまいます。そして、野獣ジュアンは自分を罪に落とし込んだ世界と弟にたいして血に濡れた復讐を始めるのです。その姿が実に怪しく美しい、まして奔放な野獣の夜の後に、慎ましやかな修道女としての昼が待っているとすれば余計...
 しかし、幾人殺そうとも、いくたりの家を焼こうとも、野獣ジュアンの心は満たされません。なぜなら、この残虐な行為も、自らが自身の罪を裁く声から逃れるためのあがきに過ぎないのですから。彼は罪を裁かれる側(女)から裁く側(男)になることで、自らの恐怖から逃げようとしているだけなのです。

 そして、運命の日がやってきます。それは予兆から始まりました。
 全てが逆さまになる「驢馬の祭り」、王が乞食に、娼婦が聖女に、そして、男が女に変わる祭り。全ての秩序が裏返るこの日に、ジュアンは自分を受け入れてくれてもくれていた最後の秩序、尼僧マリー・リースを引き裂きます。男として支配するために、女として受けた罪から逃れるために。
 その瞬間、尼僧マリーは忽然と消え去り、魔神の咆哮と共に自分を裁いてきた秩序は消失します。そして、同時にこの世界の真の姿が、堕ちた天使エズラフェルの姿をとって現れるのです。その天使と共にジュアニーヌは飛翔します、傷ついた黄金の薔薇の心臓を持って...

 世界が生まれたことこそが罪、しかしそれが故にこの世界はあるがままに美しい。

 ジュアンのジュアニーヌは自らを裁いていたものの正体を知ります。それは真の神でもなく、世界でもない、そして罪すらでもない、それは自らの魂に鞭打った恐怖であったということを。目覚めたジュアニーヌはジュアンを投げ捨て外の世界パラディスへと戻っていきます。
 しかし、彼女の前に現れたのは、廃墟に変貌した世界でした。ジュアニーノの目覚めと呼び合うように黒死の病(ペスト)がこの世界から罪を裁く秩序を奪い去っていったのです。
 
 そう、幻視に見舞われた以上、生き方を変えねばならぬ。いや、既に変わっている。変わりようを受け入れるまでのこと。罪の重荷に屈することなかれ―汝の罪は過ぎたること、根こそぎにし、もはや思い煩うな。ここでもまた、頭の中の別の部分が計画を立てていたかのようだった。

 彼女はたどり着いた尼僧院で、罪の世界をありのまま受け入れる決意をします。尼僧の衣服を纏い、この黒死の病に覆われた世界で人々に尽くす彼女の姿を、人々は聖女ともマリアとも呼びます。しかし、彼女が行ったのはただ受け入れるだけ、黒死の病に犯され、世界から拒否されたた人々も同じ同胞(はらから)として受け入れただけにすぎないのですが...

 そして、己が罪の象徴、ピエールが再びジュアニーヌの前に現れます。
その罪の象徴であるピエールと共に館に閉じ込められた彼女は、病み飢えたピエールに自らの「手」を命繋ぐ糧として与えます。 贖罪のために?
 ええ、ただし神への罪ではなく、己自身が傷つけた魂への償いために。

 魂への罪は癒されました。

 再び天使エズラフェルがジュアニーヌのもとを訪れ、ジュアニーヌを空に誘います。天使となったジュアニーヌは世界の姿を今度ははっきりと見出します。

 いつの日か世界は終わる。
 いつ終わる? 罪に滅ぼされることはあるまい?
 罪は世界を滅ぼしはせぬ。罪ある限り、世界の終わる日は来ぬ。完璧たらずして終わることはありえぬ。

 生こそが夢、とジャーヌであった天使は云った。
 それはそれとして、せめて甘き夢であるに如かず、と天使エズラフェルが答える。

 
 永遠の魂はついに、世界の真なる姿を見つけました。それは完全な世界から罪によって始まった夢、永遠の魂が夢見る世界。悪夢とも、甘き夢ともなる世界...
 ジュアニーヌは罪人として裁かれる生き方から開放されたのです。
 ジュアニーヌはこれで物語の舞台から消えます。
 彼女にはこれから、かつてジレクが罪を投げ捨てダタンジャとして迎えた穏やかな生活が待っているのでしょう。

 しかし、目覚めぬ魂、罪人としての生き方を続けるピエールにリーは別の、罪にすりつぶされる結末を用意しました。地獄の業火は自らの魂への断罪と知らぬまま、世界を地獄へと変える生き方を...

用語解説
罪(原罪): Original Sin、直接的にはキリスト教において人類のエデンからの追放の原因となった知恵の木の実を食べたことこと。旧約聖書にはいかに人間が罪を犯したかの記述が多数あり(カインの弟殺し、異教崇拝によるノアの洪水)、何故人間が苦難のと共にあるのかの説明付けとなっている。新約聖書においてはその罪を肩代わりするためにキリストが貼り付けにされたことになっているが、ここで人類は神の子を殺害するという新たな罪を背負っている。故にキリスト教においては人間は罪深き存在であり、その罪をあがなうために神の正義と共に生きることを要求される。極論をすれば、「世界は滅びざるも正義は行われるべし」という、個々の人の命より正義は重いという考え方となる。
 日本を含む自然・精霊崇拝(アニミズム)の影響が強い民族にとっては最も受け入れがたい概念。これらの民族では、命や生まれたばかりの赤子というのは清い存在であり、育つにつれて社会の穢れを受けるという考え方が支配的であり、必然的に人間を含むこの世界の命が一番重要であるとの考え方に立つ。故に罪に基づく正義という概念とは決定的に衝突する。

黒死病: ペストの流行。アジアから持ち込まれたペストは、中世ヨーロッパにおいてしばしば大流行し、地域によっては人口の1/4から場合によっては1/2をも殺害した。その衝撃は凄まじく、文学作品においてはしばしば世界の終わり、黙示録のメタファーとして使用される。

驢馬の祭り: ローマ時代の異教起源を持つ祭り。身分によって厳密に定められていた服装、行動から解き放たれて、どのような身分を仮装しようとも自由な社会的などんちゃん騒ぎ。厳密な身分社会であった中性ヨーロッパにおける一種のガス抜きとして、ルネッサンス時代までカソリック教会も認めていた。宗教改革時代に異教的ということで抹殺された。 _ /Next _ /Top 

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