故郷長岡まつりに見る平和への願い

〜 世界に誇る大花火大会と薄れゆく祭りの意義 〜

 

 我が生まれ故郷であり、15歳までをそこで過ごした新潟県長岡市。中央に大河信濃川が流れ、故・田中角栄元首相のお膝元として全国にその名を知られ(もうこれも過去のことか・・・)る以外、これといって全国区に名前の出てくることはあまりないごく普通の地方都市で、それでも一応新潟県では新潟市に次いで第二の都市圏とされる。

 そんな何のとりえもなさそうな長岡市だが、実は、長岡18万市民が世界に誇る一大ビッグイベントが毎年夏、確実に訪れる。それが「長岡まつり」の大花火大会。毎年必ず、8月の1、2、3日に開催される長岡祭りの中の押しも押されぬメインイベントで、2、3日の夜、日本一の大河信濃川河畔で繰り広げられる。週末に重なる年などは、人口18万の一地方都市に対し、その二日間で80万人以上の人出があるなど、一年で、市が最も活気づき、最も輝く二日間で、恐らく、全く長岡に関係のない人でも、全国紙はじめいろいろな媒体に出ているので、一度くらいは「長岡まつり・日本一の大花火大会」などというフレーズを目にしたことがあるのではないかな。

 僕は別に市の観光課のまわしモノではないので、各地にできる友達が、長岡まつりを見たいと言うとき、必ずことわりおきをする。「もしこれからの人生もずっと花火を楽しみたいのであれば、長岡の花火は見ないほうがいい」。。。。別に、うちでもてなすのが嫌だからとか、その友達が嫌いだからとか、そういうことではなく、これは、僕自身が悔やんでならない実体験から来る、的確且つ絶妙なグッドアドバイスなのだ。

 僕は、奇しくも故郷だけに、15年間ほぼ毎年、長岡の花火を見て育った。それが大きなあやまちだったのだ。

人間は、生まれてきてさまざまな物事を経験するが、初めて相対する概念について、最初に与えられる基準の影響は絶大だ。某動物が、産まれてはじめて見た動くものを母親と思い込む動物的本能は有名だが、人間も、通学に30分かかる小学生は、20分歩くことに対して「楽」と感じるが、10分しかかからない小学生は同事柄に対して「辛い」と感じるように、最初にこう!と教えられたり覚えたりしたことは、それがその後、その物事に対する基準を形成するにあたり、甚大な影響を及ぼすのだ。

長岡を離れ、都会へ出た。異国の土地の花火というものも見る機会もあるようになる。そして。そう、楽しくないのだ。何も感じない!美しくも綺麗でもない!こんなものは花火ではない!感動し「すごいね」と叫ぶ友達や、「綺麗ね」と囁く恋人を前にして、僕にどうしろというのだ。うなずけない。嘘でもすごいなどとは口は動かない。なぜあれで感動できるのだ。なぜあれでうっとり夜空を見つめることができるのだ?

 首都圏で、数々の著名な花火大会を見た。雑誌等のランキングで、長岡花火をしのぎ上位を奪った花火大会もある。しかし。問題は打ち上げ数ではない。観客動員でもない。技術である。数を多く打ち上げればいいというわけではない。人口1000万以上の都市で催すのだから長岡以上の集客など集まらない方が問題だ。そう、技術が違う。違いすぎる。全国の花火師が、そこで打ち上げることを夢として日々鍛錬、製作に励む長岡花火は、様々な規制の隙間を縫うようにして細々と上がる首都圏の花火などとは格が違うのだ。

【長岡市のオフィシャルホームページ : 長岡まつりの詳細 http://www.city.nagaoka.niigata.jp/ITEM2/pg2-2.html 】

 つまり、人生末永く花火というものに感動したいという人は、僕の持論として、長岡花火を見るべきではない。長岡市民はもっとよく考えるべきである。長岡花火に友人知人、遠くの親戚を招くということは、その人達のこの後の人生から、長岡以外の花火大会という「楽しみ」「娯楽」「感動」を奪い去ってしまうということなのである。そんな罪なこと、少なくとも僕には出来ない。事実、3年前僕は、相模で知り合った親友を長岡花火に招いてしまい、その結果彼はその後、今年で3年連続、どんな状況下におかれようとも8月、2日3日を長岡で迎えている。そしてやはり、「他の花火が楽しめない・・・。」と長岡まつり依存シンドロームに悩まされつづけているのだ。なんと罪深き長岡花火。

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 そんな長岡まつりではあるが、その発祥はといえば、決してお祭り気分で語れようものではないことを、長岡まつりを現代において楽しみえる我々は必ず、心にとめておかなければならない素朴な疑問、なぜ長岡まつりは例外なく8月1,2,3日に開催されるのか?別にお盆でも祝日でもない。興行的に考えれば、なぜ8月第一週の土日、という発想に至らないのだろうか、というところが、長岡まつりの本質的意義に迫るための最も簡単な入り口であろう。

 昭和20年、8月1日。昭和20年と聞くだけで、悲しい気持ちになる人は多い。でもそれは元来当たり前のことで、そうならない今の若者の方がおかしいのだが、論点がそれるのでここでは別にいいとする。長岡の歴史の中で、この日ほど夜が明るかった日はないのだろう。花火ではない。上空のB-29戦略爆撃機から投下されるのは、夜空を彩る正三尺玉ではなかった。焼夷弾爆撃、恐るべき大スターマインである。約1500人の犠牲者を出し、約6万人の家を焼いたこの醜きスターマインは、絶望に向いそそり立つ炎と全市民の悲鳴を結集したかのような爆音の余韻を残し、長岡に壊滅的打撃を与え飛び去った。数日後、広島・長崎。「大日本帝国」の終焉まであと2週間と迫っていた真夏の夜の出来事である。

 翌年、復興の息吹の芽生える長岡市において、いたましいあの日を市民の永遠の記憶とするべく、8月1日、「長岡市戦災復興祭」が開催された。これが、現在我々が依存シンドロームに悩まされ続ける、「長岡まつり」の起源である。(長岡まつりという名称になったのは昭和26年から。)

 実際、やはり祭りなので、市民は呑めや唄え。商人はかきいれ時。例によって若者は朝までどんちゃん騒ぎ。それは、それでいい、というか、当然それが相応しいし、僕も一応まだ若者なので、例外ではない。でも最低限、長岡市民は、毎年長岡祭りを楽しめるという権利の裏側に、この長岡祭りの意義というものを絶対に廃れさせてはいけない義務を背負っているものと僕は考える。県外や、はたまた国外から長岡祭りを見に来てくれる人々に対して、この祭りの本当の意義を、大切に伝えていくのが、市民としての役割であるのではなかろうか。

 何の気なしに毎年見ている長岡花火。その世界一の輝きの裏側には、1500余の長岡市民の尊い命が、さらに眩い煌きを放っていることを、我々は忘れてはならない。

 

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