超速度人間成長術

〜 沖縄・南西諸島放浪記から 〜

 

 近年何かと巷や、よくわからない評論家たちの間で話題にのぼる事柄に、「教育」という漠然としたそれこそよくわからないテーマがある。※1「教育とはこうあるべきだ!」※2「現代の日本の教育は真の教育にあらず」※3「教育制度の抜本的な見直しが必要だ」などなど、しょっちゅうテレビで、恐らく著名なのであろうコメンテーターたちが叫んでいるのをよく見かける。

※1 理想論を延々と追い続ける現実無視派

※2 「では真の教育とは?」と聞かれると支離滅裂及び話をそらす派

※3 見直しが必要だとは思うのだが方法論は誰か考えてね派

別に、コメンテーターの先生方を批判しようというような身の程知らずなことをしようとしているのではないので誤解のなきよう。で、何が言いたいかといえば、優秀な学者の方々や実績ある評論家の方々がこぞって考えた結果がこのようになってしまうというほどに、教育を語るということは恐ろしく難しい問題であるということだ。

 世の中どうにもならないことは多い。教育もそのうちのひとつなのであろう。Best な教育制度などありえない。ということは、より Better を求めていくしかないわけなのだが、戦後五十余年日本の政治家が、何の向上心も、何の問題意識も無しに、教育制度をつくりあげてきたわけではないハズなので、現状もいわば試行錯誤中、というところだろう。どこまでも100%(理想的教育)に近づけるため、また、過去のレベルを下回らないため、そして刻々と流れる時代に合わせるために。で、その試行錯誤は、人類が向上心を失わない限り、永遠に終わることはない。

 余談になるのだが、よく騒がれている教員による淫行やスキャンダル、児童・生徒の無秩序化、学級崩壊等の問題は、ひとえに全ての原因が”大人の倫理”にあることが明白である。が、論点がずれるのでこれはまた別の機会に。

 これまでここで出てきた「教育」とは、主に学校教育を指すものだ。そもそも教育とは読んで字の如く、「教え、育むこと」であるわけなのだが、概念的に捉えた場合、「人間を成長させること」で間違いはないと思う。そうなってくると、冒頭から語ってきた「学校教育」というものが、「教育」という超漠然的言葉の意図する概念の中で、恐ろしく一部分に過ぎないということに気付かなくてはならない。ヒトが人生の過程で人間的成長を得るにあたり、学校教育が担うところはあまりに少ない。それを痛感するような経験が、今、僕自身のわずかなる半生を振り返って数多く見当たることは、僕の大いなる誇りと自信になっている。(その自信を、今後の半生で確信に変えていくのが一大事なのだが・・・。) そんな経験のひとつを例に、「大人」から見た「教育」と、「大人になった子供」から見た「成長」の、大いなるシルエットの違いを見てみたい。

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 1992年2月、当時14歳の僕は、8つ歳の離れた一番上の姉(当時大学生)と、沖縄本島を自転車で一周するという計画を立て、出発した。計画といっても、いきあたりばったりでユースホステルや民宿、時には野宿もアリという無銭旅行。(ここでユースホステルとモーテルを混同して考える若い人が最近多いらしいが、違うので要注意。知らなかったら辞書でも引くか誰かに聞いて。それでもダメならこちらへどうぞ。 http://www.znet.or.jp/~jyh または http://www.jyh.or.jp/

姉は大学で自転車サークルに所属していたので、旅のノウハウもあり、自転車にも慣れている。だが僕はといえば、運動は大の苦手の肥満体(注:当時。今は違う!)で、当然そんなワイルド極まりない旅などしたこともないし、想像もつかない。自転車も、いくら田舎育ちとはいえ、学区内しか自転車に乗ってはいけないというわけのわからない校則がまかり通る小学校に所属していたため、そんな遠距離を走った経験などない。そして、両方B型、我が強い二人である。疲れもガマンも限界に達し、三日目でとっくみあいの大ゲンカと相成った。

 しかし・・・。普通、ここで、中学生の弟を沖縄に残し、颯爽と一人で東京に帰る姉がいるだろうか・・・。

 一人になった僕は、ここで後を追って帰ったら負けじゃないか!という子供特有の意地の一念で、その未知なる沖縄という地に残ることを決意した。今考えれば、我ながらまったく大した決断である。誰も知らない。誰も頼れない。誰も助けてくれない。携帯電話など誰も持っていない時代である。故郷から2000キロ近く離れた南海の島で、一体どうするというのだろうか。子供というのは本当にいい立場である。自分の言動による親の心配、大人の迷惑、周囲の外聞を気にせず、且つ、別にそれで済むのだから。

そしてそんな猿岩石的路上生活中学生(肥満体)は、まず沖縄入島初日に姉と一緒に泊まった「那覇ユースホステル」(現在は建て直されて、沖縄国際YHというらしい)を訪ねた。原動力は、ユースホステルには仲間を求めて旅人が集まる、ここへ行けば、誰かしらと話ができる、友達になれるという期待。中学生一人でも泊めてくれるというペアレンツさん(各ユースの管理者のこと)の確認を得て、しばらくそこに滞在することにした。(滞在中、大幅に体調を崩した僕は、病院に搬送してくれたペアレンツさんの車の中で大規模にゲロるなど、、、多大なご迷惑をおかけ致しました・・・。)

 僕の期待は裏切られることなく、そこで多くの人と知り合うことができた。ユースホステルのこと、沖縄のこと、そして一人旅のこと、いろいろな知識・常識をその人達との会話の中から自然と学んだ。同時に、一人旅というものへの興味もかきたてられる。そしてその仲間のうちの一人に、「せっかく来たんだ、もっと世界を見ていけよ。」と、絶妙なアドバイスを授けてくれた方がいたのだ。その人は、これから離島(いわゆる石垣島、西表島などの南西諸島のことを指す)へ渡るという。二月といっても、本島は半袖。離島は真夏である。

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 迷いはなかった。「僕も行く!」 どんな中学生だろう・・・。 かくして、親からの少しばかり(でもないか)の送金を受け取った僕は、離島へと向かうフェリーに仲間と共に乗り込んだ。だが、そんな仲間とはいえ、各自はそれぞれ自分の旅の途中なのだ。お互いの旅の邪魔になってはいけないという旅人の常識を、僕はそのとき既に知っていた。翌朝、石垣島へ着き、それまでの仲間に別れを告げた僕は、一人で西表島へ向かう。というのは、石垣島にはユースホステルが無い。ということは、僕には泊まれるところが無いのだ。

 小さな船で約1時間。西表島は、そのほとんどが未開のジャングルに占められている原始の姿に近い貴重な島。道路も少なく、車などで島を一周することもできない。川にはマングローブの森が生い茂り、海はといえば、本州育ちの人間には理解できないほど美しく青い。そう、絵ハガキの中の世界そのものだ。島唯一のユースホステル「いるもて荘」に着いた僕はそこでも、何事にも代え難い、素晴らしい人々との貴重な出逢いを経験する。

 ところで、そんな島の原生林を歩いて突っ切り、島の北側から南側へ「縦走」するというトレッキングが、旅人の間では必ず話題になる。僕はユースホステルで同室になった仲間二人と、何もわからずに縦走決行を決めたのだが、まったく、自然をナメるにも程があるとはこのことだ。距離的に考えれば、日暮れには帰ってこれるハズだったのだが、そこはしかし舗装された道ではない。ジャングルだったのだ。一日では帰ってこれないということを、出発してから同じユースにいた仲間(この人達はプロの二人組)に聞かされた。後で聞いた話によると、彼らは僕らの軽装からして、まさか縦走に行くとは思っていなかったらしい。が、僕らとしては後には引けない。

 テントはおろか、食料もその日の昼の分しか持っていない。山歩きに慣れた人間もこっちのパーティにはいなかった。迫る日暮れ、思うように動かない両脚、いっこうに縮まらない距離、あせりが募る中、既にテントを張り終えていたさっきの仲間に追い付いた。びっくりした彼らは僕らに危険と諭し、共にここに留まるように奨めたが、こっちの大人二人にも意地があったらしい。先へ進むという。結局話し合いの結果、死にかけていた僕だけが引き取られることになった。

 本当に、自然をナメるという愚かな行為は、もれなく人に迷惑をかけるものである。疲れているのは皆一緒、その人達も、余分な食料など持っているはずもない。テントもまさか3人用のはずもない。そして、僕はといえば子供とはいえ大メシ食らいの肥満体、体積にしたら並の大人よりデカい。しかし、やはり彼らが苦労して持ってきた食料を最も食べたのは僕であり、一晩中テントの中で寝ていたのも僕なのである。これほど見事に迷惑な話があるだろうか。

なのに彼らは嫌な顔ひとつしない。それどころか、翌日、もう歩くに歩けない状態に陥ったどうしようもない僕の荷物を持ってまでくれるのである。ただでさえ重装備の荷物を背負い、しかもプロの彼らが僕のカタツムリのようなペースにあわせて歩くことが、どれだけ負担であったことか。その後、多大な助力をもって無事に帰りつくことができた僕は、その人達とたくさん話をして、いろんなことを教わることができた。

 その人は、後日僕に別れを告げるとき、こう言った。「おまえは若いから、これから何でもできる。どこへでも行ける。これからも旅を続けて、もっといろんな世界を見て、いろんな人と出逢えよ。そしてまたどこか旅の空の下で会おう。」 僕の胸には今でもこの言葉がしっかりと刻まれていると共に、この彼の最後の言葉は、人間として僕が将来彼のような大人になるための、最高の方法を教えてくれたものだと信じている。

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 ちなみに西表島は、何をとっても本当に素晴らしいところだった。僕の心の故郷。また必ず再訪する決意は今もゆるぎない。そんな天国のような島で、たくさんの素晴らしい仲間に出逢い、もう完全に帰りたくなどなくなった僕は、その西表島で知り合い、結果的に僕の旅の半分近くを共に過ごした当時千葉の大学生に保護者代わりになってもらうことで、ユースホステルのない波照間島への渡航を決断するのだった。

 波照間島は有人島日本最南端の島。警察はおろか信号すらない平和で小さな島だ。そこに、そのテの旅人にはかなり名の知れた名物民宿「たましろ」がある。毎年そこのご主人に会いに来る旅人も少なくないという。とにかく、普通の人が見たらそれだけで気が遠くなるほど大量にして絶品な、恐るべき食事でもてなしてくれる。もちろん、その日その日でご主人が獲ってくる魚がメイン。しつこいようだが当時肥満体(今は違う!)で、力士並みの食欲を誇っていた僕にはこたえられない天国。う〜ん、南西諸島には天国がいっぱい。そして、その日訪れている旅人全員と、ご主人と奥さんが一堂に会してそのもてなしを受ける「たましろ」においても、やはり僕は、語り尽くせないほど素晴らしい仲間との出逢いと、貴重な経験を授かったのである。

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 僕が、そんな真夏の島から、まだ桜のつぼみも硬い故郷新潟県長岡市へ帰ったのは、結局出発から一ヶ月半くらい経った頃だろうか。

その間、いろんな人に逢った。いろんな人と話した。多くの人の優しさや思いやりに触れ、また多くの人の嫌な部分も見た。僕は、明らかに出発前とは違っていた。たった一ヶ月半でである。全く違う。別人のような価値観と視野を持った少年がそこにはいた。超速度人間成長術である。

 今僕は、南海の島におきざりをくらわしてくれた姉に、大変感謝している。もし、あの時ケンカにならずに仲良く二人で島を一周して帰ってきていたのなら、あの素晴らしい人達との出逢いはなかった。かけがえのない経験も出来なかった。心の中の財産は何もなかったことになる。それはつまり、僕はあのときの自分のままで、何も成長することはなかったということだ。今考えれば、まったく恐ろしい。かなりおぞましい。それほどに僕の中であの経験は大きなものだ。

 「教育」とは「教え、育むこと」、と前半で書いた。大人は子供を成長させようと、必死に教育を受けさせる。そしてそれは大概、子供から見ると「教えられ、育まれた」ものになる。が、当然それは必要で、欠かすことはできないものだ。そのために学校(特に義務教育)はあるのだから、よってそれは学校に任せればよい。彼らもプロなので、最低限の人格は、DNAが許す範囲で、見事にみんなと同じように形成してくれるし最低限の知識も授けてくれる。ところが、我々が昔を振り返って、自分が成長したと思える場面には、例外なく「学校の授業」は出てこないし、またその場面には、「育まれる」ことに変わりはないが、必ず、「(自ら進んで)教わり、育まれた」という抜本的な姿勢の違いがある。

つまり、人間を成長させ、他の家の子とは違うハイクオリティな人格を形成するには、「学校以外」でどれだけ「自らすすんで」、「他人と話し」、「物事を吸収しよう」とさせるかにかかっていて、そのためには、そうせざるをえない状況下に子供を置いてやるのが最も効率的なわけで、「かわいい子には旅させろ」とは、昔の人はかなり偉い。

で、子供は、大人を見て、大人を真似して育つでしょう?

 「教わり、育まれること」 − 大人が生涯、まず学ぶ姿勢を崩さず、謙虚に向上心を持ち、「教育」という言葉の意味を統一してそう思えたとき、教育の Better は、かなり大きく、BEST に近づくのだろう。

 

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