Calling  U




「い、痛たた・・・」
 アンジェリークは足をさする。
 球体に吸い込まれ、したたかに地面に打ってしまったのだ。
「ここは・・・・・・」
 見慣れない風景を見回しながら、立ち上がろうとする。けれど、長いドレスの裾を踏んで、はでに転んでしまう。
「きゃ・・・・・う〜」
 今度こそ本当に足を痛めてしまったらしい。力を入れようとすると、鋭く右の足首が痛んだ。
 もう、とアンジェリークは内心悪態をつく。
 どうしてこう女王の格好というのは動きにくいのだろう。
 野山を走り回る女王陛下というのは聞いたことがないから、しかたないのかもしれないが。
 アンジェリークは立ち上がるのをあきらめ、もう一度辺りを見回した。
 ごつごつとした岩肌が目に入る。緑のかけらもない山の中に思えた。空は夕暮れどきのようにオレンジがかった赤だった。
「どこ・・・なのかな、ここ・・・」
 言って、そばに落としてしまっていた通信機から雑音が聞こえているのにアンジェリークは気づいた。
 アンジェリークはそれを拾う。
「これ・・・」
『・・・かっ・・・! ・・・っ』
 不快なほどの雑音だったが、それがふいにクリアになる。
『―おい! 陛下、聞こえるか!?』
 ゼフェル!
 アンジェリークはすがりつくようにその声に応えようとし、そして我に返った。
 一度深呼吸してから、口を開く。
「ええ。聞こえています」
『無事か!?』
「ええ。大丈夫、心配はいりません」
『そっか』
 そのゼフェルのほっとした声の後に、『ご無事ですか、だろ!』というランディの声が聞こえてくる。
『陛下、そちらの状況を教えていただけますか』
 静かなリークの声に、アンジェリークは通信機を握りしめたままもう一度辺りを観察する。
「見たことのない場所です。周りは・・・」
 アンジェリークはそして、がっかりと息をついた。通信機がまた交信不能になったのだ。
 アンジェリークはぼんやりと空を眺めた。
「・・・不思議な色・・・綺麗だけど、なんだか怖い・・・」
 呟いてしまってから、ぞっとした。
 ぶるり、と肩がふるえる。
 太陽がなかった。そして雲も。
 バッと周りを見回す。
 静かだった。通信機のザーザーという耳障りな音だけがしている。
「い、やだ・・・」
 自覚すると、その静けさがやけに気になる。空気を震わしているのは自分の声と通信機の音だけ。
 胸の奥が冷たくなる。
 鳥もいない、他の動物も。アンジェリークは震える手で乾いた地面に触れた。
 当然いるはずの小さな虫さえない。
 ここには何もない。
 息苦しくなって、めまいがした。
 その感情は、寂しい、などという生易しいものではない。
 激しい恐怖だった。
 生きているのは、自分だけ・・・!
 無茶苦茶に大声で叫びだしたくなる。だがその狂気を、アンジェリークはなんとか押さえた。
「落ち着くのよ・・・」
 自分に言い聞かせる。けれど静寂を意識してしまったからか、声はかすれるほど小さかった。
「・・・昔、聞いたことがあるわ。私たちの世界とは別の世界があるって」
 息苦しい。全力疾走した後のように、心臓が激しく打ち、息が上がる。しゃべっていないと、本当におかしくなりそうだった。
「きっとその、ここは、混沌の支配する世界・・・」
『陛下!』
 クリアな声が、通信機から聞こえた。
 オスカー様!?
 暗闇が突然開けた気がした。
「オスカー様!」
 叫んで、そしてアンジェリークは口もとを押さえた。いけない、と思う。自分は女王なのだ。この通信機の向こうには他の守護聖たち、もしかしたら他の文官たちもいるかもしれないのだ。
「オスカー? オスカーなのですか?」
 努めて落ち着いた声を出す。けれど、やはり胸が震えた。先ほどの恐怖とは反対の感情に。
『はい』
 優しい、けれど力強い声が響く。
 ああ、やっぱり好き。
 アンジェリークはそう泣きたいほど愛しく思う。
『陛下、その空間の座標を読み取ることはできませんか』
 アンジェリークはそっと瞳を閉じた。オスカーの声が、彼女から恐れを拭い去っていく。冷静な脳裏に、アンジェリークは世界そのものを描く。通常の場所ならば、女王のサクリアは位置を導くことができるのだ。けれどやはりここではだめだった。
「だめです。ここは私の力が覆う世界ではありません」
 アンジェリークはそして、通信機の向こうの会話に耳を傾けた。
『・・・・・・行くより戻るほうが何倍も難しい。『想い』という心的なものではなく、たとえば血縁であるとか同じ気質の者であるとか・・・『変動しない存在』が必要なのです』
『なんかよく分からねーが、とにかくその『変動しない存在』とやらを捜すしかねーな』
 ゼフェルが忌々しげに言う。
 血縁・・・。
 アンジェリークは少し目を伏せた。
「ですが、私の血縁はもう分からないでしょう?」
『大丈夫です、陛下。貴女の血筋は、調べさせたらすぐに分かるでしょう。記録されているはずですから』
「そうですか。それではお願いします」
 どれくらいで戻れるだろう。
 そう考えながらアンジェリークは応えた。そして話しながら、無意識に視線を動かす。
 何かの影が動いたのだ。
「!」
 影!?
 それに、アンジェリークはハッとなる。ここには生き物はいなかったのではなかったか。
 そしてアンジェリークは思い当たる。
 混沌に生きるモノとはおそらく。
「もしかして、魔物が!」
 まさか。
 そう思った時、岩影から再び何かが見えた。
『・・・下!? どう・・・・・た!』
 通信機は再び雑音が激しくなっていた。
「魔物がそこに!!」
 アンジェリークは言って、息を呑んだ。
 顔―それが顔と言っていいのならばだが―はまるでボールのように丸かった。だがそこには草のツルのように、血の筋が無数に走っている。二本の足と二本の手があるところは、人間の形をしていると言ってもいいかもしれない。けれどその腕は地面を這うほど長かった。
 目も鼻も口もないようなそれ―だからこそ感情というものが全く分からないそれが、ず、とアンジェリークに踏み出した。
「―きゃああああ!!」
 悲鳴が、喉をつく。
 何とか立ち上がろうとするが、痛んだ足はアンジェリークの言うことを聞いてはくれなかった。
 必死で身体をずらしながら反対方向に逃げようとするアンジェリークの視界に、その異質なモノがさらに数体映った。
 いつの間にか、アンジェリークは囲まれていた。
「・・・オスカー様・・・」
 今は雑音を上げるだけの通信機をアンジェリークは握りしめた。
 オスカー様!!
 アンジェリークを囲む輪は、じりじりと小さくなってきていた。





「俺が行く」
 青ざめた守護聖たちに向かって、オスカーはそう言った。ゼフェルが苛立ったように言う。
「どうやって! あの球はサクリアにしか反応しないんだぜ!?」
「だから、守護聖のサクリアで反応させてくれ。球が反応した瞬間に、その光とやらに俺が飛び込む」
 反論しかけた周りを、オスカーは片手をあげて制した。
「それに、俺が陛下の元へ行けば道が固定できる。俺とつながりのある炎の守護聖がここにいるからな」
「ですが、行きはどうするのです」
 リークはそう口を開いた。
「貴方が飛び込んでも、陛下と同じ場所に出られる確立はほとんどない」
「だが、議論の余地はない」
 そう言うオスカーに、炎の守護聖は近づいた。
「それなら、俺が行きます。オスカー様にはもう炎のサクリアはないんだ、何かあった時に貴方が危険だ」
「だからこそだ」
 きっぱりと、オスカーは言った。
「万が一俺が死ぬようなことになっても、何も問題はない。だが、守護聖であるお前にもしもの事があったら世界はどうなる」
「でも、オスカー様!」
「これ以上は時間の無駄だ。お前も守護聖なのだから、分かるだろ」
 そう前任の守護聖に言われて、彼は頷くしかなかった。
 オスカーはゼフェルたちを促す。
 事態は一刻を争う。
 守護聖たちは球体に手をかざした。
 光が、スパークする。
 オスカーはそこに飛び込む。
 アンジェリーク。
 光はオスカーを呑み込み、消えた。
 ―今、俺が行く・・・!



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