| 木漏れ日 後編 |
| 「すまないな」 芙蓉宮を出た所でそう呟くウォルに、ポーラは笑顔のまま首をかしげた。 「はい?」 「いつも側にいてやれなくて」 ウォルはほぼ毎夜芙蓉宮で過ごすが、日中にはほとんど顔を見せることはない。もちろんそれは他で遊んでいるからではなく、執務におわれているせいなのだが。 ポーラはなぜウォルがそんな事を言うのか分からないふうだった。 「? 陛下には大切なお勤めがおありですもの」 屈託なく微笑む彼女にウォルは少し笑ってから、うん、と自らの顎に手をやった。 「しかしだな。妻が悪夢に悩まされた次の日さえ側についていてやれん夫というのが、いかにも男らしくない気がするぞ」 もっともらしく唸るウォルに、ポーラはくすくすと笑う。 そして、ウォルを眩しげに見上げた。 「悪い夢なんて、現実のこの光の前には簡単に消え去ることですから」 「・・・・・・ポーラ」 ウォルはポーラの頬にそっと触れる。 「戦が起こっても、俺は生きて戻るとも」 絶対に、とは言えない。 だが、ウォルはもちろん簡単に死ぬ気はなかったし、余計なことを言ってポーラを苦しませる気もなかった。 ポーラははい、と小さく頷いてそっとウォルのその手を小さな手で包む。 やはり、戦争が近いのだ。 そう感じたが、ポーラはそれを口にはしなかった。 それに、生きて帰ると言った、彼の言葉を信じないでどうするのか。 この人が大丈夫というのなら、絶対に大丈夫なのだ。 じわりと浮かんだ涙が、一粒こぼれ落ちた。 この人の妻になれてよかった。 そう、ポーラは心から思う。 戦で陛下が不在の時心が痛むのは、陛下を失うのが怖いと思うのは、それだけ自分がこの人といられて幸福だからだ。 そしてウォルの言葉は何よりもポーラにとって正しいのだ。 ウォルが生きて戻ると言うなら、自分はただそれを信じていればいい。 「はい、陛下」 にっこりと微笑む。 ウォルが優しく笑み返した時、少々怒気のこもった声が響いた。 「おい」 「あ・・・・・王妃様」 ポーラはリィを認め喜色を浮かべかけるが、むすりとした王妃の表情にたじたじとなる。 「あ、あの・・・」 「おはよう、ポーラ」 そんなポーラに王妃は表情をやわらめ優しく言い置き、元の厳しい顔でウォルを見た。 ウォルといえば王妃の厳しい顔にもたじろぐことはない。 「どうした?」 「事と場合によっては怒るぞ、ウォル」 普通の国なら、妾と並んでいる王に王妃が怒るのは一つの理由しかないが、あいにく今のデルフィニアにはそれはありえない。ウォルは分からず、繰り返した。 「だから、どうしたのだ」 「泣かせたな?」 視線は王から動かないが、言う王妃のしなやかで美しい指は、愛妾の頬に触れる。 「お前がそんな男だとは思わなかったぞ」 「おいおい、リィ・・・・・・」 意味の呑み込めたウォルが、大仰に両手を開く。 リィはポーラの頬に触れた手を離すと、その指をぺろり、と嘗めた。 思った通り、かすかに湿っている。 「―やっぱり」 誤解して納得したふうの王妃に、ポーラはやっと気づくとあわてて口を開いた。 「お、王妃様、誤解です」 「何が誤解だ」 じろりと見られて―リィにはポーラを睨んでいるつもりはないのだが―、ポーラはビクリとする。自分の怒った顔がどれだけ迫力があるかを、いまだに自覚できんのか、とウォルなどはつい苦笑してしまう。 だがリィもポーラの脅えた様子に、困ったように笑った。 「ああ、ポーラに怒ってるんじゃないんだ」 よしよし、とでも言うように愛妾の頭を抱くように撫で、ウォルを睨む。 「何がおかしい」 「王妃様、あの」 ポーラは必死に言葉を紡ごうとするのだが、いかんせん気があせってうまくまとまらない。リィはそんなポーラの肩をぽんぽんと優しく抱く。 「まかせておけ、ポーラ。おれがウォルに、男としての道というものを教えてやる」 一人前の男はかよわい婦女子をいじめてはならないのである。 どこまでも―どちらも気に入っている相手ならば―女性の味方である騎士道精神あふれる王妃であった。 ウォルは呆れるのを通り越して笑ってしまう。 王妃に男としての生き方を教えられる国王というのも珍しい。 「だから、何がおかしい!」 「王妃様!!」 ポーラは今度は本当に泣きそうになりながら叫んだ。 リィの腕をつかむ。 「こ、これは嬉し泣きです!!」 「・・・・・・」 リィはポーラをまじまじと見、心底怪訝な顔になる。 「うれし泣き? 嬉しくて泣いたのか?」 「はい・・・・・・はい、そうですっ」 意が通じそうな今、はっきりと肯定しなければ、とポーラは力いっぱい頷く。 「陛下があんまりお優しいから、嬉しくて嬉しくて幸せで泣いてしまったんです!」 夢中でそう叫んでから、ポーラはハッと我に返った。かーっと耳まで赤くなる。 なんてはしたない。こんなことは大声で喚くような種類のことではなかった。 王妃が声をたてて笑うのに、ポーラはますます赤くなる。 だがおずおず顔をあげたポーラを見る王妃の瞳は、どきりとするほどどこまでも優しかった。 その優しい瞳のままに、リィはポーラの髪を柔らかく撫でる。 それでもたりなくなったのか、子犬かなにかを抱くように片腕でポーラを抱き上げた。 「きゃあ!」 驚いたのはポーラである。強いと理性では分かっていても、一見どこまでも華奢な王妃の腕だ。 「お、王妃様!」 「おい、あまりポーラを驚かせてくれるな」 先ほどの熱烈な告白に、一応は普通の神経も持ち合わせていたらしくウォルは多少照れながらも、呆れたようにリィを見る。 リィは何だ? とウォルを見てから、少々青ざめているポーラを見上げた。 「大丈夫。おれはポーラを落としたりしないぞ」 「ち、違いますっ。王妃さまの腕にもしものことがあったら・・・!」 真剣に王妃の腕が折れるのではないかと心配しているポーラに、国王と王妃は快活に笑った。 「やれやれ・・・・・・あれではどちらが夫だか分からんな」 「・・・・・・」 友の言葉に、ナシアスは内容が内容だけに慎み深く何も言わない。だがその目は笑っていた。 国王に用件があってここまで来た二人だったが、出る機会を完全に逸してしまっていた。 バルロは息をつく。 「さしせまっているわけではなし。後1、2刻遅らせたところでかまわんか・・・。出直すことにしょう」 「それがいい」 そう、ナシアスは今度は深く同意して見せる。 国王と王妃とそして妾の三人に背を向け、バルロとナシアスは歩き出した。 明るい三人の笑い声が、風にのって届く。 まあ、とバルロは歩きながら笑った。 「夫君とその奥方々と言うより、二人の夫君とその間の愛妻殿といったところだが―」 だがそう、皮肉な色を滲ませるのは忘れない。 「―ともあれ、仲の良いことはいいことだ」 大切な方が幸せそうで嬉しいと素直に言えない親友に、ナシアスは笑みを漏らした。 柔らかな風が吹いていく。 穏やかな木漏れ日が、彼らの上に降り注いでいた。
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