月光の降る場所

 遅いな。
 オグマは、苛立たしげに扉の前を行ったり来たりしていた。
 夜も深けたというのに、部屋の主はまだ戻ってはいなかった。
「姫─」
 オグマの唇から、我知らず心配気な呟きがもれる。
 姫とはもちろん、─マルス軍に姫は多しといえど彼の姫はただ一人─シーダのことである。
 ここでこうしていても、しかたがない。
 捜すか。
 あまり気がのらないふうに、オグマは一つ息をつくと、その場を離れた。
 この館は広かったが、そのせいで捜すのが気がすすまないわけではない。
 誰がどの部屋かも、把握している。
 だが。
「─もし、マルス王子の部屋で話し込んでいらっしゃのだったら」
 無粋な邪魔者である。
 まだ二人の想いが、恋とはいえない淡いものだったとしても。
 それでも軍には、二人が互いに魅かれあっているのを、感じない者はいなかった。
 オグマは静まりかえった回廊を折れた。
 かといって、もしマルスの部屋にもいなかったらと思うと、部屋の前でじっとしてはいられなかったのである。
 その時、バサリ、と小さな羽音をオグマの鋭敏な耳が捉えた。
 反射的に、剣の柄に手をやって音のほうに身構えるが、窓の外に見知った天馬を見つけて、かまえをといた。
 オグマは窓に寄ると、窓を開ける。
 そこから、白い天馬の顔がのぞいた。
「エルファス、ご主人様はどうした?」
 手慣れた手つきで、白い天馬の顔を撫でる。
 エルファスは気持ち良さそうに目を細めてから、少し窓を離れ、その顔をめぐらした。
 オグマは窓から身を乗り出して、そっちに目をやる。すると平たい石の上に腰をおろしたシーダの後ろ姿が見えた。
 エルファスはオグマがシーダを認めたのを確認すると、自分の厩舎へと飛んで行った。
 オグマは窓から身を戻すと、階段へと続く長い廊下を見、それから再び窓から下をのぞき見た。
 窓の下には、芝生が広がっている。
「─階段を使うまでもないな」
 オグマは、そう口の中で呟くと、窓枠に手をかけた





「こんな夜遅くに、お一人とは不用心な」
 言葉の内容とは裏腹に、その声はかぎりなく優しかった。
 シーダは、驚いたように振り返る。
「─オグマ」
 シーダはオグマに向かって笑おうとして、失敗した
 キュッと唇を噛んでうつむく。
「姫」
 オグマはシーダの前に、片膝をついた。
 カッと頭に血が昇っていた。
 誰かが、何かが、彼女を傷つけた。
「どうしたのですか! 何かあったのですか!?」
 なんでもない、というようにシ−ダは首を左右にふる。
 二人の間に、沈黙が流れた。
 愛しい人の、肩が震える。
 オグマの胸は痛んだ。
「─ちょっと、考え事をしてただけなの」
 シーダはゆっくりと顔を上げた。
「姫─」
 涙の跡が、痛々しい。
「なんでもないの」
 シーダの瞳から、再び涙があふれた。
「ただ─自分に腹が、たってた、だけ」
「なぜです?」
 優しい、優しいそのオグマの瞳。
 シーダは怒ったような、大声で泣き出したいような複雑な顔をして、
「くやしいの!」
 突然、オグマの胸に身を投げ出すようにむしゃぶりついた。
「!」
 オグマは反射的に彼女の身体を支える。
「─くやしい、くやしい、くやしいっ!」
 幼い子供が駄々をこねるように、自分の胸を叩く彼女を、オグマは軽い驚きと、新たに沸き上がる愛しさを持って見つめる。
 オグマは黙って、ただされるがままにしていた。
 ふいに、気がすんだのかシーダが静かになった。
 心もち赤くなって、シーダはオグマから身を離すと
「─ごめんなさい」
 うつむいたまま、大きな平たい石の上に座りなおした。
 そんな仕種が、可愛らしい。
「かまいませんよ」
 知らず、オグマは破顔する。
 恥ずかしそうにしながら、シーダは上目づかいでオグマを見た。
「─すごくつまらないことなんだけど。─笑わない?」
「もちろんですとも」
「─私って弱いから、マルス様のお役に、全然たたないの。せめてもう少し、強くなりたいのに」
「姫は弱くなどありませんよ。最近は、特に腕があがられて─」
「いいの、オグマ。わかってるんだから。どうしたってペガサスナイトは弓兵の前では無力なんだもの。─貴方や、ナバ−ルや、マリク──。アリティア宮廷騎士団の皆。ほかにも、どんどん頼もしい人達が、マルス様のもとに集まってきているわ。なんだか私だけマルス様のお傍で、役にたってない。─ううん、お荷物になってるんじゃないかって─」
「それは違います」
 オグマがそう、シーダの言葉をさえぎった。
「姫が傍にいらっしゃるからこそ、ああもマルス王子はがんばれるのだと思いますよ。軍の奴らは、マルス王子と同じように、貴女も大切に思ってます。奴らは、いや我々は皆、守りたい人がいるからこそ、強くなれるんです」
「でも」
「それに、一つ言わせてもらえば」
 そう、オグマは一転して明るい調子で言う。
「わたしは王子の傍に仕えているわけではありませんよ。姫にお仕えしているんです。姫が王子の傍にいらっしゃるからわたしも結果的にここで戦っているにすぎません。姫がいなければ、わたしはここにはいないはずなのですよ? それはナバ−ルの奴もそうですし他にもそういう奴はいます。姫がいなければ、マルス軍はこうも強くなってはいなかったでしょう」
 そう言って、オグマは片目をつぶって見せた。
 くすり、とシーダが笑う。
 オグマは立ち上がると、シーダに手をさしのべた。
「ありがとう」
 シーダはその手を取って、ふわりと立ち上がる。
「さあ、姫。もうお部屋にもどりましょう」
「ええ」
 シーダが歩きだす。
 そのすぐ斜め後ろを、まるで影が寄り添うかのように、オグマが行く。
 二人の距離は、肌が触れあうのではないかと思うほどに近い。
 最初のうち軍の者たちは、それを見て驚いたり、誤解したりしたものだった。
 だが今は、歩く二人に関心を示す者はいない。
 それが二人の「当然の形」であるからである。
 突然何が起こっても、彼女を守れる距離。─それが、オグマの歩く近さだった。
「でも─」
 シーダはそう、ぽつりと呟くように行った。
「私だって、大切な人達を守りたいと思うわ」
 『守りたい人がいるからこそ、強くなれる』とオグマは言った。
 それなら、自分にだって守りたい人達がいる、とシーダは思う。
 私だって、強くなりたい。大切な人達を守りぬけるぐらい、強く。
「姫は充分にお強いですよ」
 誰かのために、身を投げ出せる強さ。
 敵を許せる強さ。
 優しく正しくあれる強さ。
 それが、彼女にはあった。
 オグマはそれを知っている。
 敵として現れたカシムを許し、軍に招いたあの時。
 そして何よりも、自分を救ってくれた、あの時。
 今でもオグマは、その時のことをはっきりと覚えていた。
 広場でムチ打たれ、息絶えようとしていたその時、通りがかったまだ幼かった彼女は、ふりおろされるムチの下に覆いかぶさってそれを止めようとした。
 泣きながら彼女はオグマをかばい、聞き届けられないと分かると、王女の名によって彼を救ったのだった
 後にも先にも、シーダが王女であるという権力を使って何かをしたのを、他にオグマは知らない。
「貴女は、充分に強い」
 そう、オグマは繰り返した。
 そして、からかうような口調になって、シーダを優しげに見た。
「信じられませんか、わたしの言葉が」
「─信じる、けど〜」
「では、こうしましょう」
 オグマが、笑う。
「今度から戦場では、姫が前線に出てこられる前に、わたしが敵の弓兵を全滅させときます。それで万事解決、でしょう?」
「・・・・・・─ありがと」
 本当にそんな事ができるわけがないのは、シーダにもわかる。─いや、オグマのことだから、本当にやってしまえるのかもしれないが。
 だが、そう言ってくれるオグマの心が嬉しかった。
 自分は弱くないと、言ってくれたオグマ。
「本当は、ね」
 シーダは少し足を遅くしてオグマに並ぶと、彼の袖を軽くつかんだ。
「はい?」
「そんなふうに、言ってもらいたかったの。─オグマなら、そんなふうに言ってくれるって分かってて、言ったの」
 ずるいでしょ、とシーダはうつむいたまま、少し笑った。
 そして顔を上げると、泣きだしそうな、それでいてとても、せつないほどに嬉しげに、にこりとオグマに微笑する。
「オグマはいつも、私が言って欲しいと思った言葉を言ってくれるの」
「姫─」
 愛している、と彼女の瞳が言っていた。
 とても愛していると。
 それはオグマが望んだ愛ではなかったが。
 それは決して恋ではなかったが。
 それでもオグマは、自分の胸が熱くなるのを自覚した。
 これでいい、と思う。
 これで、もう充分だ。
 こんなに深い想いを向けられて、何が不服だというのだろう。
 ─自分の想いが、決して彼女に届くことはなくても。
 それでも、いい─・・・・・・。
「ありがとう、オグマ」
 輝くような、シーダの微笑。
 そして、再び歩きだす。
 オグマもまた、彼女の影のように歩み出した。
 『ずっと、傍にいてね』
 それは、シーダが幼いころ彼に言った言葉。
 もう彼女は覚えていないだろう、とオグマは思う。
 さらり、とシーダの髪が、風に揺れた。
 ここに、守るべきもの、そして守りたいもののすべてがあった。
 己のすべてをかけて、彼女を守りぬく。それは、昔にたてた誓いであった。─そして、それは今も変わらない。
 彼女を守る。
 その身体も、心も、決して傷つかぬように。
 その笑顔が、壊れぬように。
 彼女に自分が、必要でなくなるまで。
 いつか、彼女が自分を必要としなくなる、その時まで。



  End