Calling W



      
「大丈夫でしょうかね〜」
 セイリオスが再び消えた場所を、アイシュは不安げに見ている。
 帰還して倒れたセイリオスは、目覚めると休む時間もろくにとらず再びメイの世界に行ってしまったのだ。
「あいつは言い出したらきかねーんだ」
 シオンはそう答えるが、目は笑っている。
 セイリオスが少し手を伸ばせば届く、そこにシオンが望んで望んで得られないものがある。
 それなのにセイリオスが諦めてしまうなら、彼は幼なじみの皇太子を許さなかっただろう。
「あいつは向こうに自分のスカーフを残してきたらしいからな。そこをポイントにしたから間違いなく向こうに跳べているさ」
「ですが〜。そろそろ帰還の魔法を使わないと」
「今、転移されたばかりだろ」
 キールは冷たく言う。
 アイシュはそれを気にするふうもなく、あはあはと笑った。
「それもそうですね〜」
「それに、今度は少し時間がかかるかもしれないから帰還の魔法は遅めにするようにという事になっただろ」
「そういえば、そうおっしゃってたような気もします〜」
「・・・・・・」
 目の前で相変わらずな会話を続ける兄弟をおもしろげに見ていたシオンだが、ふいと眉をしかめた。
 何か、胸騒ぎがする。
 理由は何もない。
 けれどシオンは昔、戦場で何度もその己の勘に救われていた。騎士であれ魔導士であれ、死地をくぐり抜けて来た者には多かれ少なかれそういう経験がある。そして、こういう感覚を無視しないほうがいいことも知っていた。
「何か?」
 キールが、そんなシオンの様子に気づく。
 シオンは応えられなかった。
 わけの分からない不安。だが、何に対してか・・・そして何をすればいいのかが分からない。
 その時。
 ―シオン!!
 そう、強く呼ばれた気がした。
 シオンはハッと顔を上げる。
 キールは怪訝な表情になる。
「どうしたんです」
「―帰還の魔法を使え!」
 シオンは叩き付けるように言った。
「え?」
「帰還の魔法だ!」
 シオンはそう繰り返し怒鳴ってから自ら魔法を唱えはじめる。
 誰もが唖然となったが、キールは切り替えが早かった。
 半瞬遅れて魔法を唱え出す。他の魔導士たちはそれを見て、戸惑いながらももシオンとキールに続いた。







「セイル!!」
 何も、考えられなかった。
 メイはセイリオスの手首をつかむ。そして、急激な落下感。
「―姉貴!!」
 煉もまた、躊躇することなく手すりを乗り越える。
 メイはがくんと激しい衝撃とともに、落下が止まった。
「―いっ」
 痛い。
 メイはすんでの所で、悲鳴をこらえた。
 初めて経験するその痛み。セイリオスの手首をとらえる手が、うまく力が入らない。だが、その痛みに意識を向けている暇はなかった。
 指の力が入らないメイの手を、セイリオスの手首は滑り落ちる。
「セイル、離さないで!」
 セイリオスはその声に、メイの手を掴む。しかし、セイリオスはまたその手を離そうとする。
 突然放り出されたわけだが、今の状況を理解できないセイリオスではない。
 このままでは、メイを道連れにしてしまう。
 だが、メイはそのセイリオスの考えに気づいて、怒鳴りつけるように叫んだ。
「あたしの事考えて、手を離したりしたら許さないからね!」
「しかし、メイ・・・っ」
「ダメ! ・・・・・・殿下だって、反対の立場なら、あたしが手を離して自分だけ助かって嬉しい?」
 セイリオスは絶句する。
 煉の片手はメイの腕を握り、もう片方の手は屋上の端にかけられていた。
「・・・・・・く、そっ」
 自分のふがいなさ、そしておかれている状況に煉は胸中で毒づく。
 屋上にかけられた手は、筋肉が悲鳴を上げているかのように震えていた。
 片手だけでメイと、そしてセイリオスと自身の体重全てを持っているのだ。手をかけている場所の不安定さと吹き上げる風の揺れが煉を苦しい状態においつめていた。
 せめて半身が屋上の上だったなら、煉はセイリオスごとメイを引きづり上げられただろう。あるいは、手すりや溝、もっとつかみやすい所に手がかけられていたならかなりの時間を三人の体重を支えて耐えられただろう。
 けれど今の状態は最悪だった。
 彼らの様子に、あわてて屋上の人々が集まってくるが、手をだしようがなかった。下手に煉の腕をつかめば、落ちてしまう。誰かがレスキューを呼びに行ったようだが、とてもそれが到着するまで耐えられそうになかった。
 どうする。
 どうすればいい!?
 煉は目まぐるしく思考を巡らす。
 メイと自分だけなら、セイリオスがいなければ助かる方法はいくらでもあった。
 メイを腕の中に守って、反動を利用して下の窓をつきやぶり入ることもできる。メイに自分の身体を上らせてもいい。いや、その前にメイ一人ならば簡単に引っ張り上げられる。
 けれどどの方法もセイリオスがいては無理だった。かと言って、さすがに煉でもここでセイリオスを落とせとは姉には言えない。
 風が三人を揺らす。それは振り子のように、重みも揺れも大きくなる。
 煉は顔色をなくした。
 支える手が、揺れて滑りそうになる。
「メイ」
 静かな声に、メイはセイリオスを見た。
 これ以上はもたない。
 それをセイリオスは正しく理解していた。
 自分がしようとしていることが、どれほど残酷なことかも。
 それでも。
 全ての世界でただ一つ、君の命ほどに大切なものなどありはしない。
「すまない」
「殿下?」
「・・・・・・・わたしは、わがままだから」
 柔らかく微笑んで―セイリオスは手を離した。
 メイはただ、反射的に。
「セイル!!」
「姉貴!?」
 煉の腕をはらい、落ちていくセイリオスを追った。
「馬鹿っ」
 メイとセイリオスがそう叫んだのは同時。
 互いの声に含まれていたのは、非難だけではなかった。
 メイとセイリオスは落ちていきながら固く抱き合う。
 切るほどに痛い風。落ちていく。
 ほんの数秒のはずなのに、長く感じた。
 メイの脳裏をいくつもの情景が走り去っていく。
 死ぬ直前に、思い出が走馬灯のように駆け巡るというのは本当だったのかと、どこかメイは遠いところで知覚していた。
 両親、友人、煉。そして1年近くすごした異世界の情景。はじめてキールと会った時のこと。シルフィスやディアーナ。そしてセイリオス。ふとした会話の断片。
 『危なくなったら俺を呼べ』
 ふと、それがクリアに思い出された。
 それはシルフィスやキール、レオニスと共に国境に向かう前のメイに、シオンが言った言葉。呼んだからどうとなるわけじゃないでしょ、と返したのを覚えている。その時シオンはただ笑っただけだった。
 地面が迫る。
 死ぬ。セイリオスが、死んでしまう。
「・・・オン!」
 メイはぎゅっと目を閉ざした。
 ―シオン!!
 二人が地面に叩き付けられる寸前、光が走った。
 ふわり、と落下が止まる。
 足元に浮かぶのは魔方陣の光だった。ふわりふわりと、二人は光に包まれてセイリオスが現れた所まで浮上していく。
 メイはそれに気づき、セイリオスに片腕で抱きついた。
「助かったわよ、セイル!」
「メイ!」
 セイリオスはそんなメイをしっかりと抱き返した。
「・・・・・・芽衣」
 その声に、はっとメイは振り返る。セイリオスもメイを抱く腕を解いた。
 屋上に上った煉が、光に包まれているセイリオスとメイを見上げている。
 セイリオスはメイの横顔を見た。
 何かを恐れるような顔。
 メイは煉を、煉はメイを見つめていた。
「芽衣・・・」
「煉・・・」
 メイは分かっていた。今度もきっと、煉に行くなと言われれば自分は行けないことを。
 いつも自分の後を追ってきた弟。いつも自分を守ってくれた弟。
 彼を見捨てては行けない―。
 煉は少しの沈黙の後、ふ、と微笑んだ。
「行けよ」
「え・・・?」
「父さんと母さんのことも、他のことも、何も気にしなくていい。後はオレにまかせといてくれ」
 煉は笑った。
 胸は痛いけれど。
 これを逃せば、もうやりなおしはきかないのだとそう思った。
 本当はあの時姉を止めたことを、煉は後悔していたのだ。
 メイの悲しそうな顔は、見ていたくなかった。
「行けよ、姉貴」
 たとえ遠く離れてしまっても。
 それでも、元気で笑っていてくれるほうがずっといい―。
 メイは泣きそうな顔になり、そして、笑った。
「ありがと!」
 輝くような笑顔。
 煉は眩しげに―それは光のせいだけではなく―見上げた。
「ありがとう」
 セイリオスが、そう言う。煉はセイリオスに目を移した。
「・・・・・・泣かすなよ」
「分かっている」
 セイリオスは真摯に頷いた。
 そして。
 セイリオスとメイの姿は、光とともに消え去った。
 集まっていた人々の騒ぎも、煉の耳には届かなかった。
 煉はふっと息をつく。
 寂しさは、痛みは、胸にある。
 けれど。
「・・・・・・・幸せになれよ、姉貴・・・」
 煉はそう小さく呟く。
 後悔だけは、どこにもなかった。




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