エリカ
〜趣味の園芸〜


エリカ:別名ヒース。ツツジ科の常緑低木。
花の時期:秋から春。つりがね型の小さな花をたくさん咲かせ
       る。色は白、ピンク等。


      
 彼はいつも独りだった。


「やっほーっ、殿下!!」
 突然後ろから響いた元気な声に、彼は一瞬背筋をひきつらせた。
(うわっ!!)
 しかしここで取り乱すわけにはいかないのだ、立場上。
 だから、心の中だけでびっくりした。表面は平静を装いながら、彼は優雅に振り向いた。
 アイスブルーの髪が背中で揺れる。
 声の主は解っている。皇太子である彼にここまで傍若無人に声をかける人間など、そうそういるものではないから。
「やあ、君か」
 にっこりと微笑む。いつものように。
「ひさしぶりねっ、元気だった!?」
 枯葉色の髪を揺らして、少女が笑っていた。大きな瞳が闊達そうに輝いている。
「ああ、もちろん。君も元気そうだね」
「あはは、これだけが取り柄だもん」
 屈託のない笑顔が現れる。それを少し眩しく思いながら、彼は洗練された動作で持っていた
 グラスをテーブルの上に置いた。
「来てくれたんだね」
「とーぜんよ!! だってディアーナの婚約祝いパーティーだもん!!」
 ぐるりと辺りを見回して、少女は感嘆のため息をもらした。
「すごい、豪華よねー・・・」
 彼女の驚きも無理はない。
 この夜、王宮の大ホールには、国中の貴族・名士が集まっていた。
 さる3日前、クライン王国第二王女ディアーナ姫と隣国の王子との婚約が発表された。結婚は今年6月とのこと。
 今日はその祝宴というわけだ。
 にぎやかな乾杯の声と熱いざわめき、贅を尽くした料理の数々、淑女たちの香水の香りと色とりどりのドレス。広いホールはそういったものに満ち溢れていた。
「あたし、こんなに華やかだなんて思わなかった」
「そうかい?私にはそうでもないが」
 新年祭や戦勝記念パーティーはもっと大がかりだよ、と言うと、少女は素直に目を丸くした。
「ええっ!?これより?うひゃー・・・」
「大げさなスピーチがいらない分、今日の方が楽だね」
「・・・大変なんだね〜、王子様も」
 奇妙にしみじみとした口調でいわれて、彼は思わず吹き出した。
「へっ?あたしなんかヘンなこと言った?」
 わけがわからないといった風情で少女は首をかしげる。
「いいや。君にかかると王子もただの職業みたいだね」
「違うの?」
「勝手にやめたりできないからね」
 そう。王族である以上、つきまとうのは無数の義務。そこから逃げ出すことはできない。その重責に耐えるか、それともつぶされるか。彼はいつもぎりぎりのところに立っている。
「でも、殿下にはよく似合ってるよ、王子様。 殿下はすっごくかっこいいから」
 まるで着ている服をほめるような言い方。この少女はいつもそうやって、自分と皇太子という肩書をはっきり区別してくれる。
 それが嬉しかった。
「ありがとう」
 優しくそう言って。
 クライン王国第一王子セイリオスは、この日初めて本心からの笑顔を浮かべた。
 もう彼のものではない少女、メイに向かって。
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「シオンとは、仲良くしているかい?」
 その言葉が思ったよりも自然と出たことに、セイリオスは安堵した。
「カイナス家は厳格だからね、君もシオンも苦労が多そうだ」
 たけなわを迎えたホールの喧騒を避けて、中庭に出る。きらびやかな明かりが漏れてきて、敷石の上を昼のように照らしていた。
 王子様が逃げちゃっていいの?とメイは言ったが、彼は苦笑でそれに応えた。シンデレラ希望者は多いが、王子様だって時には休みたいんだよ、と。
 冬の外気が、人々の熱気にあてられた身に心地よい。
「ん―、いろいろうるさく言う人はいるけどね」
 彼につきあって一緒に中庭を歩きながら、メイはあっけらかんと笑った。
「あたしはあたしだよ?そう簡単に変えられないって」
「・・・そうみたいだね」
 本当に、彼女は何も変わっていない。落ち葉と同じ色の髪も、くるくるとよく動く目も、活力に満ちた笑顔も。
 すでに伴侶を得て、共に暮らしているというのに。
「シオンも言ってるしね、嬢ちゃんはそのままでいいって。あいつってば・・・まーだ人を嬢ちゃん呼ばわりするのよねー」
 子どもじゃないのに。メイはぷうっとふくれる。
 彼の気持ちがよく解るセイリオスは、ただ黙って微笑んだ。
 何かに縛られた人生を歩む者にとって、彼女の存在は奇跡だ。どこにいても何をしても自分を偽らない。
 心のままに生きている。素直で乱暴で、強すぎる感情は他人には痛いほどなのに、なぜかそのままでいて欲しいと願わずにはいられなかった。
 嵐のような少女。すべてを吹き飛ばしすべてを運んでくる、自由で鮮烈な風の化身。
「ディアーナもいよいよ結婚かあ」
 はあ、と白い息を空に描きながら、メイが呟いた。
「ずーっと好きだった王子様だって言ってた」
「ああ、そうだ」
「良かったよね、好きな人と婚約できてさ。よくわかんないけど、身分の高い人って、好きな人と結婚できるとは限らないんでしょ?」
 だから、ちゃんと好きな人と結ばれてよかった。
 メイは我が事のように嬉しそうだった。
「そうだね、妹が幸せなのは私も嬉しいよ」
 大事な妹だけは、悲しませずに済んだ。それだけが彼を支える自信だった。幸福になろうとしている妹。
 その笑顔も、あと数カ月後には遠くへ行ってしまう。
「寂しくなるな・・・」
「いま以上に?」
 メイの言葉は軽く流れて、セイリオスの耳に入りこむ。
 そのさりげなさゆえに、彼は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「・・・・・・」
 ゆっくりと歩んでいた足が止まる。
 息も止まる。
 彼女は何と言ったのか。自分が、何と?
「いま? 私は・・・今も寂しそうに見えるかい?」
 冗談めかして言ってみる。笑いもなんとか浮かべられた。日頃の鍛錬のおかげだ。
「寂しそうだよ。 さっきのパーティー会場でも、そう見えた」
 大勢の人に囲まれていたのに。
 メイの視線は、彼の中の偽りを見通すかのようにまっすぐだった。
「なんでかな。 あたしには、いつも殿下が独りに見えるよ」


 どくん。
 青年の脈拍は大きく乱れる。

 眩暈がする。激しい嵐がやってきたかのようだった。
 再び彼の心に。


「・・・・・・」 
 一瞬のためらいののち、セイリオスは目を逸らした。
 無意識のうちに唇を噛む。
 耐えられない何かが喉までこみあげる。
 ───感情を押し殺すのには慣れているはずなのに。
「・・・花?」
 ふと。視線の先に見つけたものを、彼は口に出した。
 常緑の暗い茂み。冬だというのに、その上に小さな花の群れがある。
 宵闇に白い霞がかかったようだった。
「ああ、なんていったっけ。 それ、シオンの庭にもあるのよね」
 セイリオスの視線をたどったのか、メイが明るく言った。
「すごいでしょ、冬に咲く花なんだよ。秋が過ぎて他の花が枯れても、この花は咲くんだって。春が来るまでずーっと咲き続けるんだって」
 彼は手を伸ばし、花に触れる。
 彼の腰までしかない低い枝。その先に、鈴のようなかたちの花が無数についていた。軽く揺らすと、しゃらしゃら鳴った。
「他の花が枯れても・・・か」
 サルビアが枯れても、薔薇が散っても、木犀が香りを失っても。
 この花だけは咲くというのか。咲き続けなくてはならないのか。
 色のない庭で。
「・・・孤独の花だね」
 背の低いその木に触れながら、セイリオスはそっと呟く。彼女の耳に届かないように。
(独りで咲きたくなんかないだろうにね)
 自分に似ている、なんて思いたくもない。けれど心はどうしようもなく惹かれる。同じ苦しさを抱えているから。
 枯れることを許されない花。
 逃げることを許されない自分。
 毅然として誇り高く咲き続ける。称賛と敬意の中、孤独に。
「こんな花があったんだね・・・」
「えっ?殿下でも知らないことってあるの?」
 驚いたような声でメイが言う。
「私にだって知らないことはあるよ」
 現に知らなかったことがある。たとえば、誰かを貴重に想い必要だと感じて、それが得られなかった時の悲しみ。
 目の前の少女が教えてくれた感情だ。
「草花や風流は、シオンに任せっぱなしだからね」
「あはは、シオンが言ってた。殿下は真面目で努力家な分、情趣の心が少し足りないって」
 大きなお世話よね、とメイはケラケラ笑う。
「殿下とあいつって、いい取り合わせよねー!!
 足して二で割ったら、すごーくちょうどいいんじゃない?」
「違いないね」
「あ、でも。あいつみたいに女泣かせになっちゃダメだよ?」
「ははは・・・」
 顔を見合わせ、それぞれしのび笑う。
 幸福。セイリオスは心底からそう思った。どうして彼女と過ごす時間は、こんなに新鮮なのだろう。他の誰かでは気休めにもならない。
 今年の始め、親友と彼女が結ばれたと知らされたときに全てを封印した。
 そのはずだ。そのはずのに・・・。
 危険を感じた。自分の中から失われていく何かがある。
「・・・」
 サアアッと、花の上を夜風が渡る。
 それに煽られるのは、狂暴な感情。
「・・・・・・」
 花をもてあそんでいた手が止まる。
 くしゃり。掌の中で小枝がつぶれる。
「メイ」
「んー?」
 頓着のない返事。無防備な目は残酷だった。彼女の心が自分にはないと、嫌でもわかってしまう。
 それでも。彼はすみれ色の瞳を少女に向けた。
「聴いてくれるかい?ずっと考えていたことがあるんだが」
 冬に咲く、孤独な花。
 欲しいのは称賛でも敬意でも、忠誠でも同情でもない。
 本当に欲しいのは、共に咲く花だ。となりで一緒に冬を乗り越えてくれる花。重い空気を吹き飛ばし、孤独を癒してくれる存在。そんな存在がいてくれるなら、どんなに厳しい冬でも乗り越えて行ける。多くの者が望むように、ずっと毅然と誇り高く咲いていられる。
 そうであったら、自分はどんなにか救われるだろう!
「ん?あたしでいいなら何でも聴くよ?」
「本当に?」
「うん! あたしが殿下の役に立てることって、そうそうないもん」
 だから何でも言ってと、メイは意気込んで彼を見つめる。
 セイリオスは、握りしめていない方の手をゆっくりと伸ばした。
 彼女の頬に向けて。
(この手が届くなら、まだ間に合うなら・・・!)
「おい」
 その声は、ひどく重く響いた。
 とりたてて大声だったわけではない。しかしセイリオスの心と体を止めるのには十分だった。
 皇太子の手が、空を泳いだ。
「あれっ、シオン!!」
 その場の空気が入れ替わる。
 中庭とホールをつなぐ扉。その前にたたずんでいる人物を見て、メイの瞳がぱっと輝いた。
「こーんな寒い中、お散歩かい?」
 背を扉にもたれかけた姿勢のまま、揶揄するような口調で彼は笑った。逆光がその表情をぼかしていたが、少なくとも口元は笑っていた。
 黒い魔道士用のローブと長い髪が、彼を夜の王のように見せている。
「だって、ホールの中って暑いんだもん」
 少女が身をひるがえす。恋しい男に向かって。
 何のためらいもない、鮮やかなまでの動作だった。
「ほー。俺ゃてっきり、会場中を走り回ってるかと思った」
「あのねー。そんなにあたしは落ち着きがないと思ってるワケ!?」
 きゃいきゃいと噛み付くメイを、長身の魔道士は軽くいなす。
「はいはい、落ち着く落ち着く」
「あーのーねー!!」
 あからさまに子供扱いされたメイが、彼を睨みつける。
 その頭をぐしゃぐしゃと掻きまわして、シオンは濃い飴色の瞳を楽しそうに細めてみせた。
「ほーら。お前はもう中に戻りな。
 さっきから姫さんがお前を探してるぜ?」
「ディアーナが?」
 それを早く言ってよ、とメイは足早にホールへと向かう。
「あ、殿下!!さっきの話、また今度でいい?」
「・・・そうだね、また今度」
 そんな機会は永遠にこないだろうことを承知で、セイリオスは小さく笑った。
 すみれ色の瞳にもう熱は無かった。
「お前もな・・・セイル」
 少女の姿が消えた庭で。
 笑顔のままシオンは言った。
「貴族の令嬢方は、王子様がいないってんで気もそぞろだ。はやく戻ってやりな」
「そうだな。敵前逃亡はいけないな」
「わかってるなら結構」
 微笑みで表情を隠し、セイリオスは彼の横をすり抜ける。アイスブルーの髪とダークブルーの髪が交差する。
 その一瞬に、二人は互いを見やった。


「・・・そんな恐い顔をしないでくれ。
私は、花盗人になる気はないよ」

 皇太子が低く呟く。

「あれは俺の花だ。
 けっこう、苦労して咲かせてる途中でな。
 いまさら他人の庭にもってかれるわけにはいかねーんだ」

魔道士が笑みを消す。


 華やかなホールの中心に再び立って、周りを囲む人々に如才の無い対応をしながら、セイリオスは微笑んだ。
 自嘲の笑いだった。一度去った嵐は二度と戻ってこない。そんな簡単な常識さえ忘れていた自分が、どうしようもなく愚かしかった。
(私は、もっと冷静だと思っていたのにな・・・)
 手に入らなかったものを惜しんで日々を過ごすほど、彼の立場は易しくない。だから、この気持ちもいつかは消えてしまう。
 それとも、若い日の思い出に変わるのか。
 どちらにせよわかっていることはひとつ。

 あんなに狂おしい思いをすることは、もう一生ないだろう。

「皇太子殿下、どうぞこちらへ」
「ああ、ありがとう」
 自分を苦く省みて、セイリオスは家臣たちの間を颯爽と歩いた。
 毅然と、誇り高く、孤独に―――。


 一瞬の激情。その残骸のように。
 握りしめた手から、エリカの花がこぼれた。



                                      END