雨が降る日には



      
 あっちにいた頃、雨は嫌いだった。
 濡れるし、じめじめしてるし、電車は遅れるし、どこにも出かけられないし、気分は暗くなるしで、とにかく良い事は何もなかった。
 だけど今は。
 今は雨は嫌いじゃない。
 雨は、あたしを……

 買い物に出かけた帰り、突如大雨にメイは降られた。
「あちゃー……ツイてないなあ……」
 呟き、全力でメイは走っていた。だがその動きは徐々に遅くなり、最後には止まってしまった。そしてメイは空を仰ぎ見た。体が濡れる事にも、雨が目には入りそして涙のように頬を伝うことにも、全く気にかけなかった。
 冷たくて、気持ちいい……
 雨に打たれながら、今は何も考えていたくなかった。ただ、こうしていたかった。雨のせいで、人通りが無くて良かった、と心の隅で常識的なことを思う。
 もっと、もっと降って……
 そうしてどれぐらい経っただろうか、いきなり視界が翳ったかと思うと、次の瞬間メイは何も見えなくなった。顔に何か掛けられたのだ。驚いたメイは慌ててそれをどけて、何が起こったのかを確かめようとした。
「隊長さん……」
 無表情のレオニスが、そこに立っていた。顔は確かに無表情なのに、何故だかメイには少し怒っているように感じる。状況を良く把握していないメイは、掛けられた上着を手に、ぼんやりとレオニスを見つめていた。それに焦れたのか、レオニスは口を開いた。
「何をやっている。風邪をひきたいのか……?」
 今になってもメイは良く分かっていなかった。
 何でここに隊長さんがいるんだろう。どうしてあたしにかまうんだろう。……そしてどうして彼は怒っているんだろう。
 いつまでたっても返事をしないメイに、レオニスは今度こそ焦れて、メイの腕をつかんで引っ張った。何するの、どこ行くのよ、というメイの抗議を完全に無視して、レオニスはメイを半ば引きずるようにして連れていった。
 いつもならこんなにおとなしく引きずられるようなメイではないのに、いつもとは違う彼女の様子に、レオニスは心配そうな瞳をちらりとメイに向けた。だが俯いていたメイは、その事に気づくことはなかった。

 メイは呆然としていた。
 何でこんな事になったのだろう。今、自分は毛布に包まれて、隊長さんの私室の暖炉の前に座っている。そして彼から渡された、温かいミルクに口をつけている。
 自分にこんな事をした当の本人は、むっつりと口を閉ざし、暖炉によりかかりながらコーヒーを飲んでいる。いつもは自分が声を掛けても、あまりかまってくれないのに、どうしてこう、かまってほしくない時にするのだろう。
 メイはむかむかしてくる心を押さえて、毛布に顔を埋めた。本来、こういう時はお礼を言うのが当たり前なのだろう。だがメイは、素直にお礼を述べる気にはならなかった。そうは言っても気が咎め、ちらちらとレオニスの方を見てしまっていた。しかし全くレオニスは謝罪に関して気に掛けることもなく、そして多分わざとであろう、何かいいたげなメイの視線に気づく様子も無かった。
 ほんとにもう、あたしにどーしろっていうのよ……
 メイは既にレオニスに対して、八つ当たり気味になっていた。そうしてメイの不満感が頂点に達しようとした時、ようやくレオニスは口を開いた。
「もう十分乾いただろう……傘を貸してやる。ミルクが飲み終わったら帰ることだ」
 それを聞いた瞬間、メイは爆発した。
「ならはじめっから、かまわないでよ!言われなくったって帰ってさしあげるわ!……傘 は要らないから」
 なんて男だろう。なんて男だろう。自分を勝手に引っ張り込んどいて、乾いたから出てけ、ですってええ!?  身勝手にもほどがある。
 メイはずかずか荒い足音を立て、思いっきりドアを閉めた。レオニスはあくまでそれらを冷静に見ていたが、メイが消えた後、軽くため息をついて、上着を着始めた。
「まったく、世話のかかる……」

 メイはレオニスの部屋を飛び出した後、めちゃくちゃに道を走っていた。せっかく乾いた服を、たちまち雨が濡らし、メイの薄茶の髪を綺麗なダークブラウンに染め上げていった。
 雨はメイの肩を叩き、頬を濡らし、そして足に絡みついた。メイは水溜まりを蹴飛ばし、それらに毒づいた。
「……もう!だから雨は嫌いなのよ……!」
 口に出すと、なんだか自分が惨めに思えて、悔しくなった。
 あたしは、悪くないわ……
 そう思うたび、前より更にひどい罪悪感に襲われる。レオニスに悪いことをした、と思っている自分がいる。心配してくれている、とは分かっていた。なのになんであんな事をしてしまったんだろう。
 ……分かっているはず、そうでしょう?
 心のどこかで、誰かがささやく。
 ……あんたがレオニスにあんな態度をとったのは、自分のちっぽけなプライドを守る為。彼に自分の弱い、醜いところを見られた為。だから。だからあんたはそうした。
 メイはその声にびくりと身体を震わせ、そして嫌々をするように頭を振った。
 ……でもあんたはそうしたことによって、自分が弱いということを証明してしまった。自分で認めてしまった。ばかなメイ。かわいそうなメイ。なんてあんたは弱い生き物なんでしょう。
 ぽたりと足元に雨とは似て非なるものが落ちた。それに気づき、メイは空を仰いで心を落ち着かせると、郊外の湖に足を向けた。
 あたしは、泣かないわよ………絶対、泣いてなんか、無い。
 前を睨み、そうしてお気に入りの場所へと向かった。

 湖にはさすがに人はいなく、とても静かだった。メイは湖の端に腰掛けると、そのまま仰向けになった。
 空から途切れも無く雨は降り続いている。メイを容赦無く濡らし、辺りを水色に染め上げていった。
 この雨はどこから来てどこへ還るのだろう。………そしてあたしは?
 あたしはどこへ還るのだろう。突如この世界に来て、そしてまたあっちに還れるのだろうか? ここの人達は皆優しい。親友らしき友達もできた。だけどあたしはやっぱり、あちらが懐かしい。
雨になるといつも考える。雨があたしの気持ちを静かにさせるから?それともあたしが皆にこの気持ちを隠していることを、知っているから? だけどこういう気持ちになるのは嫌じゃ、無い。この時だけが、故郷を想うことを許されるているのだから。
 静かな気持ちになったメイに、またするりとその声は入ってきた。
 ……だけどその神聖な時を、あんたはレオニスに見られた。自分の聖域に入った彼を許す事はできない、とあんたは思った。始めは驚愕し、そして次にはその事を知った彼をなるたけ自分から遠ざけようと、浅はかな行動をとった。なんてくだらない防衛本能。全ては自分のプライドを守る為。
 そんなものの為に、彼を傷つけた。それこそあんたにそんな権利なんか、無いと言うのに。
「違う……」
 ……違わないでしょう? 認めなさい、メイ。自分は所詮この世を構成する、ちっぽけな分子の一つでしかないということを。あんたがこちらにきたことも全て計算された誤差のうち。あんたがいなくなっても、あちらの人達は前と何ら変わること無くやっていける。
「違う、違う……」
 ……あんたはもう、とっくにあちらでは忘れられている。あんたがどんなに想っても、全てが無駄だと言うのに!
「違う、違う、違う!」
 メイは激しく首を振り、血を吐くような気持ちで叫んでいた。
「無駄なことなんて、一つも無い! あたしは悔いの無いように今までやってきた! あたしがあたしでいられる為に、精一杯やってきた! 忘れられてもいい、でもあたしは忘れたくない、だから今でもあっちを想っている! ……それだけであたしは充分なの!」
 メイのその言葉に、声はあざけるように笑った。
 ……悔いの無い? 精一杯? レオニスを傷つけたことも、悔いの無いことだとでも言うの? なんて傲慢。なんて……
 声を遮るように、更にメイは声をはりあげた。
「あたしだって、間違えることがある!でも大切なのは、結果よ! 間違っても、その後どうしたかが重要なの! 最後にはあたしはいつも、後悔していない! あたしには謝れる強さが、ある!―――あたしが弱いなんてこと、そんなのずうっと前から知ってたわよ。
それにあたしは知っている。弱さを認めることで、より強くなれるって事を。
さよなら、あんた。あんたはあたし、弱いあたしよ。あたしはあんたを認めることで、あんたを超えられるの」
 声はもう聞こえてこなかった。メイは久しぶりにすがすがしい気持ちになり、心の底から深呼吸をした。そして、気がついた。
 あたしの頬を伝っているものは、何? 雨じゃないもの、だけどよりあたしに近いもの。そしてあたしを癒してくれるもの。だけど、だけど、あたしにはプライドがある。これだけは認めたくはない。
 泣いていないと思うから、思いたくないから、絶対顔を手に埋めることはしない。軽く笑んで、メイは空に向かって両手を差し伸べた。
 ――認めたくないなんて、無理なのは分かっている。だから雨よ、もっと降って。降って降って、あたしが泣いていることを隠して。皆からあたしの涙を隠して。そうしたら、また明日には笑えるから。いつものあたしに戻れるから。
 雨をあたしは嫌いじゃない。それはこちらに来てから気づいたこと。あたしは心の底から思う。こちらの世界に来て良かったと。あちらでは分かりえなかったことを、教えてくれるから。それだけ自分が成長したと、感じられるから。
 メイは起き上がり、ぐっしょり濡れた自分の体をひとつ眺めてから、苦笑した。
「ひっどい、格好……」
 帰った自分の姿を見た、キールの反応が目に浮かぶようだ。もう1回空を仰いでから、メイは帰路についた。

 湖を抜けたところで、メイは見知った人物を見かけた。
「隊長さん……」
 レオニスだった。彼はメイと同じくずぶぬれになりながら、そこに立っていた。メイはレオニスに会ったらすぐ謝ろうと思っていたのだが、その事が頭から抜け落ちるほどびっくりして、慌てて彼に駆け寄った。
「隊長さん、どうしたの!?」
 メイの気配にレオニスは顔を上げ、そしてぽつりと呟いた。
「……気は済んだか? だがあまり自分の身体をいじめるな」
 言い終えると、レオニスは背を向けて、すたすた歩き出した。慌ててメイは彼の後を追った。
「隊長さん、待ってよ!」
 走りながら、メイはレオニスにはかなわないことを知った。濡れ具合から、彼は自分が湖に入った時から出てくるまで、ずっとここで待っていてくれてたのだろう。その事に気づいた時、ある予感が胸をよぎった。近い将来、自分にとって、彼がかけがえの無いひと男性になるであろう、という事を。メイはそこまで考えて、ひそやかに笑った。
 あたしはこちらに来れて良かった。―――本当に、本当に、そう思っている。