Guardian knight W



「……わたしが何を言いたいのか、分かっているな」
 ボルスの部屋に入り、彼が扉を閉めてから。
 クリスはそう静かに口を開いた。
 ボルスは彼女から視線を外そうとする。
「ボルス!」
 クリスは、彼にそれを許さなかった。
 ボルスは意を決したように、クリスを見返した。
「――分かっています」
「分かっているなら、なぜあのようなマネを!」
 クリスがとがめることを分かっているということは、ボルス自身でもルースへ剣を向けることが許されないことだと理解できていたということだ。
 クリスは、唇を噛む。
「なぜだ……」
「………………貴女を、傷つけたから」
 ボルスの答えは、クリスが予想していたものと同じだった。
 それでも、彼女の制止を聞かないボルスではなかったはずだった。
 ――それほどか。
 クリスは、自分の声も聞かず自分のために正気とは思えない行動に出る男を、苦く見た。
 それほどまでになっているのか、と。
 クリスは今更ながらに思い知らされる。。
 ボルスが、自分をまるで不可侵の女神のように崇拝していることを。
 ザワリと胸の中で不快に波打つ感情を、クリスはなんとか抑えた。
「……………」
 苛立たしい。
 クリスは、自身を落ち着かせようと深く息を吐く。
 ボルスが自分を信頼し大切に想ってくれることを、ただ嬉しいと、そう感じていたころが酷く懐かしい気がした。
 感謝すべきことだと、そう思えたのはいつのころまでだったか。
 そう、クリスはどこか遠くで思う。
 いつからかは分からないが。
 ただ一心に見つめてくるボルスを。その心酔と憧れに満ちた瞳を。その一途な言動を。
 目の当たりにするたびに、クリスの胸を襲うのは優しい感情ではなくなっていた。
 苛立ち、苦痛、憤り。
 それらを全て含めているようで、それでいて違う何かのような。
 普段はボルスを信頼できる仲間だと思っているのに、自分への感情をまざまざと見せつけられるたびにそれらがクリスを苦しめる。
 クリスは小さく首を振った。
「――理由も知らずにか」
「理由など必要ありません。貴女を、傷つけたんだ」
「……私が先に彼女を傷つけたんだ」
「そんなことは関係ない。重要なのは、あの女が、貴女を傷つけたということだけです」
「ボルス!」
「――貴女を傷つける者は、俺は、許さない……!!」
 許せない、ではなく。許さない。と言い切る男に。
 クリスの目元は歪んだ。
「私を何だと思っている!!」
 クリスの中で、我慢してきた何かが、切れた。
 目の前の騎士から自分へと向けられる、何もかもがもう嫌だった。
「お前は“何”を見ているんだ!!」
 至高の英雄か。それとも神か。
 そのどちらも、自分、クリス・ライトフェローではない。
 クリスの問う意味が分からず、ボルスは言葉を失う。
 呆然となるボルスを見つめ、クリスはギュッと拳を握りしめた。
 荒れ狂う感情を、飲み込む。
「……とにかく。二度とルース殿を傷つけようとすることは許さない」
「――クリス様、俺は……」
「いいな、ボルス」
 鋭い目を向けられて。
 ボルスはそんな彼女をじっと見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかり、ました」
「……話はそれだけだ」
 うなだれる騎士に冷たいとも言える言葉を残して。
 クリスは彼が応える間もなく、ボルスを残して部屋を出た。
 廊下を歩くにつれて、腫れた頬が痛みだす。
 顔を上げることもできなかったボルスの姿が、クリスの脳裏に蘇る。
(……いっそ、思い切り嫌われてしまいたい……)
 どうしてそんな事を思ってしまうのか。
 そして、なぜこんなに泣きたい気持ちになるのか、クリス自身にも分からなかった。






 その後、クリスは評議会との調整と書類の山に多忙を極め。
 話をしたいと思っているルースとも、こちらは故意に避けていたボルスともまともに会話する時間もなく一週間が過ぎた。
 その間に、トウタの言葉通り、彼女の頬は殆ど痕が消えた。
 やっとできた時間に、クリスがルースを捜して甲板に出た時、そこには彼女の姿はなかった。
 夕日に、辺りは赤みを増している。
 そこに映る影は一つのみで。
 クリスが声をかけるかどうか迷っている間に、夕陽から目を離した騎士が彼女に気づいた。
「クリス様……」
「パーシヴァル」
 パーシヴァルが、場所を空けるように少し身体をずらしたので、クリスはそこ――夕陽が真正面に見える船の端へと近寄った。
 湖を渡る風が、クリスの頬を撫でていく。
「ここは、特等席なのですよ」
 にこりと笑むパーシヴァルに、クリスは赤く染まった湖に目をやりながらふっと表情を緩ませる。
「そうだな。――よくここには来るのか?」
「いいえ……。いつもは人が多いですからね」
「そう言えば、今日はどうして人影がないんだ?」
 クリスは、夕陽から視線を外すと甲板を見渡した。
 甲板の上には、やはりクリスとパーシヴァルしかいない。
「今日は、カラヤの――名は知りませんが、誰かの誕生日だそうで。皆で祝うらしいですよ」
「そうか……」
 どこから仕入れてくるのか、やけに詳しい騎士に感心しながらもクリスは納得して頷く。
 クリスはそして、再び湖へと目を向けた。手すりにかける自分の手までも、茜色に変わっている。
 しばらく不快ではない静けさが続き。
「何か、ありましたか」
 かけられた声が意識に達するまで、クリスは少し時間がかかった。
「え……?」
 クリスが、傍らのパーシヴァルを見ると、彼は視線を湖に向けたままだった。
 ただ、静かに彼の唇が動く。
「避けてらっしゃるでしょう。ボルス卿を」
「!」
 息をのむクリスに、パーシヴァルは夕陽から彼女へとゆっくりと顔を向けた。
 パーシヴァルは、欠片の責めも含まぬ声で言った。そう誤解のしようもないように、笑みを載せる。
「不興を買ったと、落ち込んでいましたよ。まあ、あいつにはいいクスリですが」
「……私は……」
 クリスは、視線を外した。
 ボルスの眼差しを思い出し、クリスの胸を言いようもない辛さが広がる。
「あいつは、狂ってる……」
 沸き上がる苛立ちと――そして切なさを、クリスは無意識に憤りだと思いこもうとしていた。
 パーシヴァルは、さらりと頷く。
「そうですね。あいつは、昔から貴女に狂ってる。まあ、恋情という意味では、わたしも同類ですが」
「――お前というやつは……ふざけるな」
 クリスは小さく笑みを零して、パーシヴァルをそう軽く睨んだ。
 苦笑でも笑いは笑いなのか。
 笑ったことで、クリスの胸は少しだけ軽くなる。
 クリスは息をつくと、手すりにのる自分の手をなんとはなしに見た。
「パーシヴァル。……私は、時々分からなくなるんだ。あいつが何を見ているのか」
「貴女以外にあり得ないのでは?」
「……そうとは思えない。あれの目に映っているのは、あれの頭にだけ存在する“私”だ。本当の私は、違う。私はゼクセンの騎士の一人で、クリス・ライトフェローという名の一人の人間にすぎない。あいつの中に存在する私は、あいつの中にしかあり得ないんだ」
「…………………」
「私じゃない」
 クリスの胸が、その自分の言葉に痛んだ。
 クリスは、目を伏せる。
 ボルスが見ているのが自分ではないことが、辛いのではない。
 そう、クリスは水面に映る赤い陽を見つめながら思う。
(ただ、私は……)
 その後の答えを、クリス自身も知らなかった。
「…………可愛い人ですね」
 背後から零された言葉に、クリスはビクリとなる。
 いつの間に彼女の背後にまわったのか、クリスは驚いてその声の主を――パーシヴァルを振り向こうとするが、それはかなわなかった。
 パーシヴァルが後ろから彼女を抱き締めたのだ。
「――もう、間に合いませんか」
「な、何をッ」
「――わたしにしておきませんか?」
 揶揄する響きでも、甘い囁きでもなく、ただ静かな声でパーシヴァルは続ける。
「……俺なら貴女を、そんな不安な気持ちにさせはしない」
「何を言っている! 悪ふざけもいい加減にしろ」
 いつものようにからかわれているのだと思って、身をよじるクリスを。
 パーシヴァルは一度だけ抱き締める腕に力を込めて。
 そして、解放した。
「パーシヴァルッ」
 自由になったクリスが、そう騎士を振り返って怒鳴りつけた時。
 パーシヴァルはすでにいつもの涼やかな笑みを浮かべていた。
「お前は、そういう冗談が過ぎすぎだと言っているだろう」
「それは心外。わたしはいつでも本気です」
 にこりと笑む騎士に、クリスは大きく息をつく。
 パーシヴァルは再び彼女の隣に立つと、クリスと同じように手すりに手を置きながら小さく笑った。
「ずっと追い続けた女性を落とした時に、その女性の魅力が消えてなくなる」
「――!」
「――という話を、聞いたことがありますか?」
「……嫌な話だな」
 クリスは胸の奥に落ちた冷たい塊を無視して、頷いた。
 男であれ女であれ、それは巷で聞ける話だった。
 パーシヴァルはクリスの強ばった表情を見ることなく、続ける。
「振り向かないからこそ夢中になる。手に入れられないからこそ、欲しくてたまらなくなる。……まるで、ゲームですね」
 たとえばそれも、恋愛の楽しさの一つなのかもしれないが。
 パーシヴァルは、苦笑とともに胸で呟き。
「ですがね、クリス様」
 そして、クリスを見た。
 夕陽に佇む彼女を美しいと感じるのは、その外見だけのせいではない。
(俺たちは――)
「――そんなものは、とっくに通り越しているんですよ」
 恋に恋し続けるような想いは。
 とっくの昔に変化している。
 恋情はたしかに感情の中に含まれているけれど、彼女への想いはその名で片づくものではない。
 想いはもっと多様に。そして、深く、深く――。
「な、私は、そんなこと」
 そんなことを気にしているわけではない。
 そんなことではない。
 そう、首を振るクリスに。
 パーシヴァルは優しく目を細めた。
「ボルスは、単純なんです。クリス様、貴女であれば、何でもいいのですよ」
「パーシヴァル! 私は!」
「貴女であるというだけで、アイツには貴女が特別なのです」
「――違う」
 自分はそんなことを不安に想っているわけじゃない。
 ボルスは自分をそんなふうに見てくれてなどいない。
 胸に渦巻く言葉は多すぎて。
「……違う……」
 クリスはそう、繰り返すことしかできなかった。
 しかし、彼女の胸の奥は、パーシヴァルの言葉に自分の想いを自覚させられていた。
 自分は、ボルスが感じているような人間などではない。
 それが彼に分かった時に。
 ――失うのが、怖かったのだ。
 あの眼差しを。想いを。全て、失うのが。
「違う、違う……!」
 いつか失うくらいなら、それを恐れて怯え続けるくらいなら。
 いっそ今すぐ失ってしまいたいと。
「違う!!」
 クリスはギュッと目をつぶり。
 そして、たまらずそこから駆けだした。
 走り去る彼女の背中を見つめ、パーシヴァルは手すりへ背をもたれさせる。
「………………」
 一度だけ伏せられた目元は辛く歪んだが、再び目を上げた彼の顔にその表情はなかった。
 普段通りの顔で、小さく笑みさえ零す。
「――――もう出てきても構いませんよ」
「……気づいてた?」
「もちろん。盗み聞きとは感心しませんね」
 パーシヴァルの声に、マストの影からナッシュが現れる。
「いや、そういうつもりはなかったんだけどね、なんか出るタイミングがなくなっちゃって」
 あはは、とわざとらしくナッシュが笑う。
 そして、パーシヴァルに軽く肩をすくめてみせた。
「それにしても、驚いたな。キミが身を退くなんてね〜。潔いなあ」
「……貴方相手だったら退いてませんよ」
「友情に厚いことだ」
「ボルスでなくても。サロメ殿でもロラン殿でもレオ殿でも、彼女が選ぶなら俺は退きますよ」
「は? えーと……。レオ殿、でも……?」
「彼女が選ぶなら」
 パーシヴァルは、平然と頷く。
「どうして、と聞いてもいいのかな? まさか同じ仲間だからとかいうわけじゃないだろ?」
「その答えと似てますね。……何よりもあの人を想い、誰よりもあの人を大切にするからです」
 自分たちは互いによく分かっている。
 彼女を愛し、自身の全てをかけて彼女を守り、共に立ち、その幸福を願う。
 他の誰よりも、彼女を幸せにできる確率が高い者。
 それならば、許す。
 それは自分だけでなく、サロメたちも同様に心に決めているだろうことをパーシヴァルは知っている。
 ナッシュが、手を挙げた。
「それなら、俺も範囲に入るだろ? 何よりも彼女を想って、彼女を大切にする」
 冗談なのか、それとも冗談に隠した本気なのか。
 歳に似合わぬ笑顔の男に。
「だめですよ、ナッシュ殿は」
 パーシヴァルは笑んだ。――口元だけで。
「――あんたは、女を幸せにはできない男だ」
 眼差しは、切るように冷たく。
 しかしそのパーシヴァルに、ナッシュも唇を笑みの形に歪ませる。
「酷いな」
「苦しみも幸せの内という意見もありますがね」
 パーシヴァルは、にこりと完璧な笑顔を作った。
「重荷を背負い続けるあの人に、俺たちはこういうことぐらいは辛さの少ないものを持って欲しいんですよ」
 できるだけ、苦しみが少なくてすむ恋愛を。
「…………」
 ナッシュはパーシヴァルでさえ表情が読めない顔で、湖の方へ目を向け。
 そして普段のごとく軽い笑みで、パーシヴァルに目を戻した。
「まるで、父兄だなアンタたちは」
「ええ、まあ。父兄で部下で同僚で友人で、一人の男です」
 さらりと騎士は応える。
 ナッシュは笑う。
 甲板に、カラヤ族の人影が戻りはじめる。
 二人の男の心情は少しも漏れることなく、その空気は軽く自然だった。
 だから彼らは、そんなパーシヴァルとナッシュの傍らを何とも思わずに通り過ぎて行った。
 
 
 
 



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