The moon is only one.






「ク……クリス、様……」
 よく見れば、彼女の脇腹から足にかけて服の色が変わっている。
 クリスは、痛みに顔を歪めながら、少し笑った。
「……分かった、だろう、パーシヴァル。私はもう、歩けそうにない」
「では、わたしが抱いて行きます」
 パーシヴァルの声は、自分でも滑稽なほど震えていた。
 クリスは息をついた。
「……私を抱えていて、どうやって戦うのだ」
 丘に向かうまでも、敵に会う確率は高い。
 クリスを腕から降ろすのを、リザードたちが待ってくれるとは思えなかった。
「だから。私が、できるだけ、時間を稼ぐから」
 言いながら、クリスは何とか立とうとする。
 しかし一度崩れた足は主人の言うことを聞こうとしない。
 反対にどうしようもない脱力感に上半身の力さえ抜けて、クリスは思わずパーシヴァルの肩に縋るような形になる。
 パーシヴァルは彼女の肩をしっかりと抱いた。
「クリス様!!」
「行け、パーシヴァル、はやく」
「シバ様!!」
 リザードたちが、シバに駆け寄る。
 リザードが、クリスたちに怒りの目を向けた。
「パーシヴァルっ」
「…………」
 クリスの視線に、パーシヴァルはリザードを見る。
 不安と衝撃は、怒りへとすりかわる。
 パーシヴァルの剣を掴む手に、力が入った。
 だが。
「待て!」
 リザードたちを止めたのは、倒れたままのシバだった。
「……シバ様……」
「今のあの騎士は、お前たちの適う相手ではない……」
「行け、今のうちだ」
 クリスは、荒くなる呼吸の中で、パーシヴァルに言う。
「私を置いて、行け」
「嫌です」
「パーシヴァル」
「嫌です、嫌だ! ―――嫌だ!!」
 激しい声に、クリスは目を見張る。
 パーシヴァルは、今にも泣きそうな顔で彼女を見ていた。
「貴女を置いては、行きません!!」
「分かるだろう? 私は、もう、駄目だ」
 血かずいぶんと流れた。
 たとえ今すぐ騎士団が駆けつけたとしても、ブラス城に戻るまでもつとは思えない。
 パーシヴァルまでも道連れにすることはできなかった。
「俺は、貴女を置いてなど行けない!!」
「では……命令だ」
 クリスは、厳しい目でパーシヴァルを見た。
 なぜ分からないのか、と思う。
 リザードたちがいつ気を変えるともかぎらない。
 はやく、パーシヴァルを安全な場所へ。
 無事でいてほしいのだと、何故分からないのか。
「いいか、パーシヴァル。ゼクセンのために死ぬならいい。けれど、私と共に死んでどうするのだ」
 それは、騎士の務めではない、とクリスは続ける。
 しかしパーシヴァルは動かない。
「………団長を守るのも、騎士の務めです」
「私が倒れれば、別の者が団長になる」
 自分が倒れても、騎士団は生きる。
 クリスは、パーシヴァルの胸を押しやろうとする。しかし、今の彼女にはその力もなく、ただ彼の胸に手を触れるだけだった。
「私の代わりなど、いくらでもいる。だから、お前は、生きろ」
「―――貴女の代わりなど、どこにもいない!!」
 その姿が見えないだけで、あれほど恐ろしかったのに。
 今、彼女の止まらない血に、気が狂いそうなのに。
 貴女の代わりなどありはしない。
 少なくとも、この自分にとっては。
 パーシヴァルはクリスを抱く腕を解かない。
 クリスは、苦痛に眉を寄せたまま、手足の感覚がなくなってきていることを自覚した。
 意識が、朦朧としてくる。
「……パーシヴァル……ッ」
「クリス様!!」
「逃げろ……頼む、から……」
 そして。
 クリスはついに意識を失った。
「クリス様?」
 完全に力の抜けたクリスの身体を、パーシヴァルはさらに抱き寄せる。
 その顔を覗くが、彼女の瞳は閉じられたまま。
「クリス様!! ダメだ! クリス様!! ―――クリス!!!」
「………死んだか」
 シバの声が静かに響く。
 銀の乙女が死ねば、くたばったかと高笑いしてやるつもりだったシバだったが、二人の姿を見せられてはそれもできなかった。
 鉄頭も、自分たちと同じ生きた血が流れているのだと気づく。
 パーシヴァルは、シバを睨んだ。
「死んでなど、いない!!」
 パーシヴァルの腕の中のクリスは、まだ小さな呼吸は続いている。
 しかし、それも酷く弱かった。
「シバ!」
 デュパが、部下を連れて駆けてきた。
「無事か!」
「ああ。多少の傷は受けたが……」
「騎士団が近づいてくる、そろそろ退くぞ」
 デュパは、パーシヴァルが胸に抱く女が、クリスだとは気づかない。
 シバは肩をかされ、一度だけ、クリスを胸にしたまま剣をかまえているパーシヴァルを振り向き、そして無言で歩いて行った。
 リザードたちが撤退していく。
 パーシヴァルは、剣を置くと、クリスを抱きなおした。
「クリス様!」
 しかし、その反応はない。
 馬の嘶きが聞こえて、パーシヴァルはゆるゆると顔を上げた。
「パーシヴァル!」
 ボルスが、もどかしげに馬を降りてパーシヴァルに駆け寄る。
「――――クリス様!!!」
 途中で、彼の腕の中にいるのがクリスだと気づいた。
 とびつくように、クリスの横に膝をつく。
「クリス様!!」
 手を伸ばしかけて、彼女の顔色の悪さに驚き。
 そして動かした視線の先に、彼女の血でできた血溜まりが。
「な……ッ」
「クリス様、ご無事ですか!」
 遅れて、ロランとレオが駆けつける。
 だが、その状況に言葉を失った。
「そ、そんな、クリス様……」
 茫然と呟き、そしてボルスはパーシヴァルの胸倉を掴んだ。
「パーシヴァル!! お前がついていながら!!」
「……っ」
 ボルスの怒声に、クリスの瞼が微かに動いた。
「止血が先です!」
 もはや手遅れかもという不安を押しのけて、ロランがボルスを遮る。
 普段なら躊躇う所だが、今はそんなことを言っている状況ではない。
 レオが止血用の布を広げ、ロランは短剣でクリスの脇腹の切れた布をさらに裂いた。
「う……」
 それは、簡単な止血で抑えられる傷ではなかった。
 彼らはいくつもの戦場で、多くの仲間の死を見てきた。
 だから、分かる。
 分かってしまう。
 この傷では、ブラン城までとてももたないと。
「何をやっている!! はやく、止血を!!」
 認めたくないボルスが、ロランに叫ぶ。
 そのボルスの腕に、手が添えられた。
「………ク、クリス様……」
 クリスの瞳が、うっすらとボルスを見ている。
「もう、いい、ボルス……」
「そんな!!」
「ロラン……」
 息も絶え絶えに呼ぶ声に、ロランは膝をつく。
「はい、クリス様」
「これからも、サロメたちを、助けてやってくれ」
「もちろんです」
「レオ。パーシヴァル。私の後は、お前たち、どちらかが……」
「クリス様!!」
 レオは首を振り、パーシヴァルは唇を噛んだまま何も言わない。
 クリスはボルスを見た。
「ボルス……」
「クリス様!!」
 ボルスは、クリスの伸ばされたその手を、両手で掴んだ。
 クリスは、少しだけ微笑む。
「お前は、その感情的な所を、少し、抑えろ」
「クリス様、そんな、遺言のような真似は止めてください!!」
「――そうすれば、お前は、本当に、ゼクセンで、一番の騎士――――」
 痛みが彼女を襲うのか、小さく息を詰めるのを感じる。
「クリス様!」
 悲鳴のような声を上げるボルスに、クリスは微笑んで見せてから続けた。
「それ、から。……パーシヴァルを、責めるな。――いいな?」
「……。はい」
「パーシヴァル……楽しかったよ」
 途中まではな、と笑いをなんとか唇に浮かべ。
「サロメと、そしてルイス、にも、………」
 後の言葉は、聞き取れないほど小さく。
 そして再び、彼女は気を失った。
 力の抜けたクリスの手を、ボルスは強く握る。
「クリス様!!」
 けれど、今度はクリスは目を開けてはくれなかった。
「―――ブラス城へ!!」
 そう、ボルスは後ろに立つレオを振り向く。
 ロランが首を振った。
「騎馬にクリス様の身体は耐えられぬ」
「では、医師を連れてくれば!!」
 理性では間に合わないと分かっている。
 けれど、諦めることなどできるはずもなかった。
 それは誰もの気持ちで。
「俺が行く!」
 クリスをそっとボルスの胸に渡しながら、パーシヴァルは鎧を脱ぎ捨てた。
「……いくら速くても、そんなに疲れてるんじゃ無理だろうよ」
 聞き覚えの無い声が聞こえ。
 パーシヴァルたちはバッと振り向いた。
 そこにはカラヤ族の男が。
「貴様!!」
 ボルスは、剣に手をやる。
 男は口元に浮かべていた笑みを消した。
「助けたいんだろう」
 そう言って、クリスに近寄ろうとする。
 立ちはだかるパーシヴァルとレオ、ロランを見た。
「俺はカラヤ族のジンバ。シバ殿から話を聞いてね。……俺なら助けられる」
「なぜ……貴様が助ける?」
 剣をつきつけるレオを、気にするふうもなく言う。
「理由は関係ないだろう、あんたたちにとっては。それとも、そのまま死なしていいのか」
「試してみましょう。今は、クリス様を助ける方法があるのなら」
 ロランがそう言って、まず道を開ける。
 ジンバはボルスが抱くクリスのそばで膝をついた。
「妙な真似をすれば、殺す」
 ボルスが剣呑な目でジンバを睨む。
 パーシヴァルの剣が、ジンバの首に突きつけられていた。
「分かってるさ」
 ジンバは言って、クリスを見た。
 彼女の苦しげな姿に、一瞬辛そうな表情を浮かべる。
 しかしそれはすぐに消え、ゆっくりと目を閉ざした。
 ジンバはそして、自らの手を彼女にかざす。
 何事か小さく唱えるのだが、すぐそばにいるボルスにもパーシヴァルにも聞き取れない。
 辺りに、ひやりとした気配が満ちた。
 けれど、それは不快なものではなく。
 青い光が、クリスを包む。
 ボルスはいきり立つが、彼女の頬に赤みがさしてきたのを認めて力を抜いた。
 騎士たちが息を詰めて見守る中、しばらくして光は消えて行った。
「さて、と」
 ジンバは立ち上がる。
「俺はそろそろ、退散させてもらう」
「…………」
 誰も、彼を捕らえようとはしない。
 レオが、憮然と言った。
「一応、礼は、言っておく」
 クリスの表情は穏やかなものになり、その呼吸も落ち着いている。
 傷口も綺麗に消えていた。
 ジンバは去りながら、軽く手を振った。
「まあ、俺がしたいようにしただけさ」
 少しだけ、振り返る。
「ま、もうちょっと頼りになる騎士様がたになるんだな」
「言われなくとも!!」
 ボルスは叫び、ぐっと拳を握り締めた。
「二度と、こんな、失敗は……!」
 同じ過ちは犯さない。
 それは誰もの気持ちだった。
「……っ……」
 クリスが、身じろぎする。
「クリス様!」
「……ん? ボルスか?」
 言って、クリスは身を起こした。
「私は……? どうしたんだ?」
「不思議な力を持つ男が現れて、クリス様をお助けしたのです」
 微妙に真実をぼやかしながら、ロランが説明する。
「??」
「よかった! クリス様!!」
「いた、痛いぞボルス!」
 鎧のままぎゅっと力まかせに抱きしめられてクリスが悲鳴を上げる。
 ボルスは慌てて飛びのいた。
「す、すみません!」
「全く……」
 立ち上がったクリスは、脇腹と足の方がやけにスース―するのに気づいて視線を落とした。
「あ……」
 ボルスは思わず声を上げる。
 傷は治ったが服は直らず。
 大きく裂かれた服から、白い肌が見えていた。
「な、……ッ」
 カーっと頬を紅く染めて、クリスはしゃがみ込んだ。
 パーシヴァルはレオから止血用の布――まだ切られていないそれを取ると、クリスの肩からかけた。
「クリス様、これを」
「あ、ああ。ありがとう、パーシヴァル」
 クリスはそれを片側のマントのようにして肌を覆った。
 そして、ふと思い出してパーシヴァルを見上げる。
「パーシヴァル」
「はい」
「…………次は許さんぞ」
「何をやったんだパーシヴァル!!」
 ボルスが、パーシヴァルに食って掛かる。
 クリスはふうとため息をついた。
「騎士団長の命令に逆らった」
「…………」
「クリス様の命令に逆らったのか、お前は!」
 応えないパーシヴァルに、ボルスは自分の両腕を組む。
「騎士団長の命令は絶対だ。騎士とはそういうものだぞ」
「そうだ。次はないぞ、パーシヴァル」
「…………次は、ありませんよ。そんな状況には、させない」
 パーシヴァルは少し笑い、だが目は真剣なままでそう応える。
 ボルスはクリスを見た。
「どのような命だったのです?」
 クリスは身を覆った布を押さえながら、地面に落ちている自分の剣を拾いつつ言った。
「私を置いて行けと命じたのに、聞かなかった」
「…………」
 ボルスとレオ、ロランは沈黙する。
 その様子に気づかず、クリスは剣を鞘に収めながら続ける。
「あの時も言ったが、私の代わりなど他にもいる。私が倒れても、騎士団を率いる人材はいるのだからな」
 静まり返った空気に、クリスは顔を上げた。
「……どうした?」
 ボルスもレオもロランも、目線を外す。
 貴女の代わりはいないのだと。
 そう言葉に出して言うことは、ゼクセン騎士団の一員としては許されないことを知っているから。
 彼らが命よりも大切だと――何よりも守りたいと思うゼクセンの地。それはクリス自身のことでもあるのだと、彼女は知らない。
 パーシヴァルが、静かに言った。
「戻りましょう、クリス様」
「? ああ」
 クリスは頷く。
「クリス様――!!」
 甲高い声が聞こえて、クリスは村の入り口の方を見た。
 見れば、ルイスが駆けて来る。
 クリスは、ルイスに微笑んだ。
「ルイス」
「ご無事ですか、クリス様!」
「ああ、何とかな」
 二人のその様子を、ボルスとパーシヴァルたちはじっと見つめていた。








 どれほどの星が空にあろうと。
 月は、ただ一つ。








 END