Say good-bye

道はただ


一瞬だけ交わって そして離れていくのだろう




 仮面の男が倒れ、ゼクセンにもグラスランドにも日常が戻ってこようとしていた。
 クリスは真の紋章の使い手ではなく、ゼクセン騎士団長としての自分に戻る。
 静かな、夜。
 ブラス城の自室で、クリスは目を閉じた。
 ガタリ、と音がし。
 クリスは少し息をつくと、本棚の前に向かった。
 無言で、隠し扉を開く。
 そこに立っていたのは想像した通りの人物で。
 クリスは小さく苦笑した。
「たまには扉から入ってきたらどうだ、ナッシュ?」
「姫君には、ご機嫌麗しゅう」
 芝居がかったしぐさで、ナッシュはクリスに一礼する。
 そして顔を上げると、にやり、と笑った。
「目につきたくなかったんですよ」
「だろうな」
 クリスは部屋にナッシュを招き入れながら、頷いた。
「お前が消えたと、ヒュ―ゴたちも騒いでいた」
 最後の戦いが終わった後、ビュッデヒュッケ城にナッシュの姿はなかった。
 ハルモニアに戻ったかと、皆は話していた。
「…………何も言わずに、去るつもりだったのではないの?」
 クリスは、ナッシュを見た。
 ナッシュは肩をすくめ、そして静かに言う。
「そのつもりだったんだがな。……あんたには、最後に挨拶しておきたかったんだ」
「そう……」
 クリスは、目を伏せた。
 出会ったときから分かっていた。
 こんな別れが来ることを。
 出会ったときから知っていた。
 ほんの一瞬の、交わりだと。
 道はただ、一瞬だけ交差して、そして離れていくだけだった。
「……俺と別れるのは、寂しいかい?」
 ナッシュがからかう口調で問う。
 クリスはいつものように怒って返せなかった。
 あまりに、本当のことだったから。
 そして、別れが迫っていたから。
 自分は、どんな顔をしたのだろう、と思う。
 ナッシュは目を見開き、そして顔を背けたのだ。
「……悪ぃ……」
 小さなその呟きに、クリスは我に返ると首を振った。
「いや、いいんだ。……お前にはいろいろと世話になったな」
 行ってしまう。
 彼が、行ってしまう。
 挨拶が終われば、ナッシュはここを去っていってしまう。
 そしておそらくは、2度と会うこともないだろう。
 できるだけ時間を延ばしたいのに、クリスはその方法を知らなかった。
「ありがとう、ナッシュ」
 だから、そう、言葉を終わらせるしかなかった。
 ナッシュは、クリスに少し笑った。
「俺は、何もしてませんよ。――貴女といられて、楽しかったですよ」
 あまりに普通なナッシュに、クリスは彼のせいではないのに少し悲しくなった。
 少しばかりの沈黙の後に。
 軽いナッシュの声が響いた。
「そろそろ戻らないと、カミさんに怒鳴られてしまうんでね」
 カミさん、といういつもの台詞に、クリスの胸は痛む。
「そ……う、だな。元気で、ナッシュ」
「クリス様も、お元気で。あんまり何でも溜め込んじゃいけませんよ? 周りは甘えて欲しがってるんですからね」
「……余計なお世話だ」
 笑おうとして。
 クリスは唇に力を込めた。
「お前こそ、奥方をあまり困らせるなよ?」
「分かってますって……」
「じゃあ……」
「失礼します、姫君」
 最後まで、そんなふざけた態度を崩さないから。
 クリスは、本当に悲しくなって、思わずナッシュを呼び止めた。
「ナッシュ!」
「はい?」
 振り返った、ナッシュの腕を引き――。
 クリスは、彼の唇に自分のそれを重ねた。
「…………」
 なすがままのナッシュを、クリスはどんと突き放した。
 そして、できるだけ強く微笑む。
「これは、貴方には不可抗力だったから。――だから、奥方も許してくれるはず」
 そして、さよならと言おうとして。
 クリスはナッシュに強く抱きしめられた。
 けれど、それはほんの一瞬で。
 クリスが自由になったとき、彼はいつもの笑顔だった。
「カミさんには、バレないようにするさ」
 最後まで奥方のことなんだな、と思ってクリスは少し寂しく頷く。
 隠し通路にナッシュは入っていき。
「さよなら、クリス」
 そう、振り向いた。
 暗い通路の中に立つナッシュの表情は、部屋に立つクリスからは見えない。
「……さよなら、ナッシュ」
「……お前に何かある時は、必ず駆けつける。報酬も、もらっちまったしな」
 最後の方は笑みの気配で。
 クリスの頬を朱が昇った。
「バ、馬鹿! 何を!」
「――またな、クリス」
 今度は笑みの気配はなく。
 そして、ナッシュは彼女に背を向けると駆け去って行った。
 クリスは一瞬、彼の後を追って通路に出ようとし。
 自分の行動に気づいて、苦く笑った。
 小さく首を振ると、ゆっくりと隠し通路の扉を閉めた。
 再び、夜の静寂が辺りを支配する。
 クリスは、ベッドに腰掛けた。
「……振られた、か」
 苦笑して。
 少しだけ、泣いた。









END