Say good-bye

さよならの他に何が言えるだろう


連れ去ってしまえば 死んでしまう花だと知っているから




 破滅を巡った戦いは終わり、彼女は日常の戦いへと戻っていく。
 つかの間の平和の後に、ゼクセンとグラスランドは再び戦うことになるのだろう。
 彼女に安息の時は訪れず、そして、自分も……。
 ナッシュは、ブラス城の隠し通路を抜けてクリスの部屋の前へ立った。
 本当は、誰にも何も言わずに姿を消すつもりだった。
 けれど結局、クリスにだけは挨拶をして行こうと心変わりして。
 いや、別れを告げることで、この地を去る踏ん切りをつけようとしているのかもしれない。
 そうでなければ、いつまでもずるずるとここに居てしまいそうで。
 予想外、だった。
 任務の途中で、自分がこれほど一人の人間に入れ込むとは。
 ……カミさんの設定は、悪くなかったな。
 そう、ナッシュは頭の片隅で思う。
 そうでなければ、歯止めが利かなくなったかもしれないから。
「…………」
 ナッシュは、小さく隠し扉をノックした。
 少しして、扉が開く。
 暗い通路から、急に光が差し込んだからか。
 それとも彼女自身の輝きなのか、ナッシュは光を感じて少し眩しげに目を細めた。
 就寝前、鎧を脱ぎ髪をおろしている彼女は、小さく苦笑した。
「たまには扉から入ってきたらどうだ、ナッシュ?」
 最もな言葉に、ナッシュは笑った。
「姫君には、ご機嫌麗しゅう」
 芝居がかったしぐさで、ナッシュはクリスに一礼する。
 そして顔を上げて、にやり、と笑った。
「目につきたくなかったんですよ」
 それも真実。
 だが、それだけではなかった。真正面に扉から入ろうものなら、この時間だ、誰かに止められる確率が高い。
 かといって昼間に訪れては、彼女と二人きりになることは難しかった。
 邪魔を、されたくなかったのだ。
 クリスはそんなナッシュの考えに気づくわけもなく、頷いた。
「だろうな。……お前が消えたと、ヒュ―ゴたちも騒いでいた」
 クリスが部屋の中央に戻ったので、それにつられるようにナッシュも部屋に入り込む。
「…………何も言わずに、去るつもりだったのではないの?」
 クリスは、ナッシュを見た。
 ナッシュは肩をすくめ、そして静かに言う。
「そのつもりだったんだがな。……あんたには、最後に挨拶しておきたかったんだ」
「そう……」
 クリスは、目を伏せた。
 夜の静寂。
 らしくもなく、このままでは何かに追い詰められるような気がして、自分が何かとんでもないことをしてしまいそうで、ナッシュはからかいの言葉をかけた。
「……俺と別れるのは、寂しいかい?」
 いつものように、彼女が怒鳴ると思った。
 真っ赤になって、怒るだろうと。
 それなのに。
 クリスは、泣きそうな目でナッシュを見上げた。
 紫がかった空色の瞳が、自分だけを見つめていて。
 悲しげに揺れていて。
 ズキリ、と胸が痛んだ。
(なんてことだ……)
 ナッシュは口元を覆うと、目をそらした。
 こんな顔を、させてしまうなんて。
「……悪ぃ……」
 深入りしすぎた。
 そう、初めて後悔した。
 彼女の気持ちが自分に向いている。
 けれどそう思った時、胸を占めたのは苦いものだけではなくて。
(……深入り、しすぎた)
 誰よりも、彼女よりも、自分自身が。クリスという一人の女性に。
 抱きしめたいと、思ってしまう。
 離れたくないと、思ってしまう。
 この、自分が……。
 彼の葛藤を知らず、クリスは静かに言った。
「いや、いいんだ。……お前にはいろいろと世話になったな。……ありがとう、ナッシュ」
「俺は、何もしてませんよ」
 なんとか普段の表情を浮かべて、ナッシュはクリスに笑んで見せた。
「――貴女といられて、楽しかったですよ」
 本当に。
 楽しかった。
 クリスを見ているのは、時に痛かったが――それは、彼女に寄りすぎていた自分が悪いのだが――、楽しかったのだ、たしかに。
 このまま、ずっと、この娘といられるのなら……どれほど。
 どれほど、幸せだろうか。
 そう思ってしまって、ナッシュは内心苦く笑った。
「そろそろ戻らないと、カミさんに怒鳴られてしまうんでね」
 結局、それに縋ってしまう。
 これが、歯止め。自分と……そして彼女の。
「そ……う、だな。元気で、ナッシュ」
「クリス様も、お元気で。あんまり何でも溜め込んじゃいけませんよ?」
 ナッシュの脳裏に、騎士たちの姿が浮かぶ。
「周りは甘えて欲しがってるんですからね」
 彼らは彼女に頼ってほしいと、甘えてほしいと願っているだろうに、自分に優しくすることに酷く不器用な彼女はなかなかそれができない。
 そんなクリスを可哀想だとも、愛しいとも想うのだけれど。
「……余計なお世話だ」
 そう、予想通りの返事が返った。
 クリスは少しだけ笑った。
「お前こそ、奥方をあまり困らせるなよ?」
「分かってますって……」
 騙されやすい彼女は、欠片も疑っていない。
 それにほっとしたような、少し残念なような複雑な気分だった。
「じゃあ……」
 クリスの、言葉。
 これで、お別れだ。
 そう、ナッシュは胸で自分に踏ん切りをつけ。
「失礼します、姫君」
 冗談にまぎれて、別れを言う。
 そして、ナッシュは隠し通路に向かって歩こうとした。
 が、一歩進んだところで。
「ナッシュ!」
「はい?」
 強く、呼ばれて。
 振り返った瞬間。
 ナッシュは腕をひっぱられた。
 予想していないことに、抵抗できずに上半身が引きずられる。
 そして。
 ナッシュは目を見張った。
 唇に、柔らかい感触。
「…………」
 目の前に、微かに震えるクリスの閉じられた瞼。
 湧き上がった衝動に、彼女を抱き潰すよりはやく。
 その触れられるだけの唇を、夢中で舌で割ってしまうよりはやく。
 どんと、ナッシュは突き放された。
 我に返るナッシュは、彼女の微笑みを見た。
「これは、貴方には不可抗力だったから。――だから、奥方も許してくれるはず」
(――――クリス!!)
 それは抗い難く。
 ナッシュは気がつけば、クリスを抱きしめていた。
 このまま、自分だけのものにしてしまいたい。
 自分だけのものに。
 けれど、ナッシュの目に、壁際に置かれた鈍く銀に光る甲冑が映った。
 ナッシュは、彼女を解放した。
 いつもの、笑顔をなんとか浮かべる。
 嘘は手のもののはずだった。彼女を騙すことも、自分を騙すことも……。
「カミさんには、バレないようにするさ」
 それが、楔。
 この言葉に、クリスはこれ以上ナッシュを求めないのを知っていた。
 今、少しでも求められたら。
 無理矢理にでも自分のものにしてしまいそうだった。
 彼女のことを考えず、ただ、自分のためだけに。
 彼女はゼクセンの騎士団長で、そして――彼女は認めたくなくとも、英雄なのだ。
 そしてその責任を彼女は負っている。
 クリスは責任を投げ捨てられない。
 それを、ナッシュは分かっていた。
 投げ捨ててしまえば……誰より、クリス自身が傷つくのだろうことを。
 苦しむのだろうことを、知っている。
 だから、クリスを自分のものにはできなかった。
 本当ならば、このまま、ゼクセンからも騎士団からも連れ去ってしまいたかった。
 けれどそれでは、彼女は決して幸せにはなれないだろう。
 ナッシュは部屋を出、隠し通路に戻った。
「さよなら、クリス」
 そして、振り向く。
 クリスが、部屋の中からこちらを見つめている。
「……さよなら、ナッシュ」
「……お前に何かある時は、必ず駆けつける」
 必ず、助けに来る。
 彼女は、本当は助けなど必要ない女なのだろうけれど。
 それでも、自分は駆けつけるだろう。
 ゼクセンの銀の乙女に関する情報に、懸命に耳を傾けるのだろう戻ってからの自分を簡単に想像できて、ナッシュは苦笑した。
「報酬も、もらっちまったしな」
「バ、馬鹿! 何を!」
 クリスの頬が赤く染まっていた。
 さよなら、クリス。
 ナッシュは、心の中でもう一度告げ。
「――またな、クリス」
 そして、どこまでも真剣な目でそう言って。
 ナッシュは今度は振り向くことなく、隠し通路を走り出した。
 恋を初めて知った少年でもあるまいし、と思う。
 なぜこんなに心が苦しいのか。
 どうしてこれほど、彼女を連れ去りたい衝動にかられるのか。
「………いや、やっぱり歳をとったよな……」
 そう、小さく苦笑する。
 もう少し若ければ、この衝動を抑えられはしなかっただろう。
 彼女は、どれほどそれが重くとも、自分の居場所で立ってこそ彼女なのだ。
 全てを捨てれば、苦しむのは彼女。後悔するのは彼女。彼女は彼女自身を許せなくなるだろう。
 彼女をここから連れ出せば、クリスはクリスでいられなくなってしまう。
 それが分かっていても、自分だけのものにしてしまったに違いない。
「……カミさんか……」
 ナッシュは、走りながら呟く。
 ハルモニアに帰るのが遅いので、何か感づいているのかもしれないと思う。
「色気のないカミさんだよな……」
 自分で作った設定ながら、雇い主の顔を思い浮かべてナッシュは溜め息をついた。









END