『瑠璃照光』 |
雁州国、関弓山の山頂に広がる玄英宮。 そこは、五百年余りの長きに渡り、雁を治めてきた稀代の名君延王尚隆の住まいである。 もっとも、その主はなかなかそこには居ない。 というか、そこに居ることを嫌い、出奔することが多い。 だが、今はその主がこの宮城に居る為か、なんとなく活気が有る。 多くの下官、侍官、女官達が忙しそうに行き来する。 その中を雁州国の中心となる官吏、すなわち延王の側近中の側近、帷湍と朱衡が二人して何やら話し合っている。 「で、景女王はいつお見えになるのだ?」 「もうそろそろでしょう。先程禁門にお着きになったと知らせが参りましたから…。」 「まさか、今回はあの馬鹿殿もどっかへ雲隠れと言う事はあるまいな。」 朱衡はそのいかにも端正な顔に笑みを浮かべつつ答える。 「まさか。それはないでしょう。いかな主上でも、景女王とお会いになる機会を無駄になさるとは思えません。」 「だがな…あいつは、ほんの少し前に景女王ご本人と共に旅をしているのだろう?そんな奴が堅苦しく儀礼的な訪問を受けるのかどうか・・。」 「さて…。しかし、すっぽかされたとお知りになれば景女王でも、あの主上に愛想が尽きるのでは有りませんか?」 「そうか、そうなれば、あの馬鹿の年甲斐もない恋狂いが少しは治まるか。」 「そういう言い方は良くありませんよ。景女王に失礼でしょう。」 「だが…前に会った時に見た景女王は、どう見てもあいつの好みだとは思えなかったがな…。単なる小娘にしか見えなかったが…。」 「まあ、主上のお好みは変わってますからね。」 二人は話をしながら、それでも景女王を迎える為に外殿へと渡って行く。 外殿の対面の場では、既に客が待っていた。 隣国慶の景女王陽子である。 隣には自分の麒麟である景麒を連れていた。 いつもの簡素な服装と違い、今日は女王としての盛装に自らを包んでいる。 その緋色の美しい髪も見事な飾りと共に高く結い上げられている。 陽子は傍らに居る景麒に、周りに聞こえない様に嘆く。 「景麒…重い!早くこんなもの脱ぎたい。」 「まだ駄目です。延王にもお目通り頂いていないでは有りませんか。」 うう…。何で私が…・こんなこと…・・。 陽子は心の中でぼやいていた。 景麒の陰謀だ!私がこの間尚隆と共に一月近くも留守にしたから…。 なんで、こんな格好でわざわざ玄英宮に来なくてはいけないんだ・・。 こんな所でかしこまって尚隆に会っても嬉しくもなんともない。 確かに今回の訪問は景麒と延麒の画策だった。 春分の祝いにかこつけた、あまり意味のない親善訪問なのだ。 つまり、前に尚隆と陽子が麒麟達の目を盗んで一緒に巧まで旅をしたことに対する、麒麟達の考えた罰則に近かった。 「延王君のお越しでございます。」 下官の声に促され、陽子は衣服の重さによろめきそうになりながら立ち上がる。 その時横の豪奢な扉が開けられ、背の高い男と小柄な子供のような姿が現れた。 思わず陽子はその姿を目にして、見とれる。 流石に大国の王らしく、威風堂々とした身なり。瀟洒な衣服に身を包み、見上げる上背にその濃い色が映えている。 いつも見慣れている恋人の顔より威厳が有り、近寄りがたい印象を与える。 「景女王には、遠路はるばるお疲れであろう。」 いつものふざけたような態度は微塵も感じさせず、その良く通る声が響く。 「延王におかれましては、ご健勝と拝察し、お祝い申し上げます。」 陽子の横に居る景麒が流暢に答える。 「景女王こそ、ご健勝のご様子。誠におめでたい。」 尚隆の側に居る雁台輔、延麒六太がにやりと笑いかけながら、陽子の方を見る。 「ありがとうございます。」 陽子は、精一杯の虚勢を張って答える。 ここは玄英宮。たとえ、陽子が尚隆の恋人でも、雁国の官吏達から見れば他国の王。 そのうえ、陽子が何か失態をすれば、それは陽子を公然と恋人としている尚隆への失笑、ひいては批判に繋がりかねない。 ようやく尚隆がにやりと笑い、 「まあ、掛けると良い。」 と椅子を指し示す。 実を言うと、尚隆も、陽子の盛装に目を見張っていたのだ。 いつも男物ばかり着て、どう見ても少年のようにしか見えない陽子が、今日は女王としての盛装。化粧までしている。匂うばかりの美しさである。 美人だな…。 尚隆は心の中でほくそえむと共に、少々悔しい思いもしていた。 ここがこんな堅苦しい所でなければ、すぐに抱き寄せることもできるであろうに…。 一瞬陽子の美しい裸体が脳裏をよぎる。 その思いを大きな物音が遮った。 がたん! 「主上!」 陽子がその長い裳裾に気を取られ、躓いたのだ。 思わず景麒が支える。 「ああ、大丈夫だ。」 陽子が景麒を見上げる。 そんな二人の姿を見ながら尚隆が複雑な顔をしている。 「尚隆、なんて顔してるんだよ。」 延麒が尚隆の袖を引っ張りながら囁く。 「うん?あ、ああ…・。」 「こんな所で悋気なんてするんじゃ大人げねぇぞ。」 「ばか野郎。そんなことではない。」 思わず延麒を睨み付ける。 「申し訳ございません。」 陽子がしなやかな声で謝る。 「いや。大事ないか?」 「はい。失礼を致しました。」 陽子は恥ずかしさに赤くなりそうな頬を押さえるのに精一杯だった。 こんな所で…どうして私は…。 きっと尚隆も飽きれているに違いない。 陽子の頭の中で、金波宮で、祥瓊と鈴が面白がって自分を飾り立てていた時の事が思い出される。 「どうせなら、延王を驚かせるくらい素敵にしましょうよ。」 「そうね。延王だけでなく、雁国の人すべてが陽子に見とれるくらい。」 勝手なことを言って! 陽子は苦々しく思っていた。 だが、確かに今日の陽子は美しかった。誰もがその美しさと共に女王としての威厳にひれふさずにはおられないくらいである。 そんな陽子を見つめ、景麒もまた複雑な思いを抱いていた。 陽子が金波宮に居るよりもより美しく見える…その訳が判るので、又余計に複雑となる。 その後当たり障りのない会話と共に、儀礼的な会見が終わる。 外殿の廊下を下がる帷湍と朱衡は再び話し合っていた。 「いや、しかし驚いたな。景女王もしばらく見ない内に、女らしくなったものだ。」 「というよりも、女王としての威厳が付いてきたのでは有りませんか?」 「それも、あいつの所為だというのか。」 「さあ。どうでしょう。しかし、あの二人はいい意味で刺激し合っていると言えるでしょうね。」 「王の癖に自分の伴侶を見つけるなどなんという勝手な奴だとは思っていたが、それでこの国がまずいことになる訳でもなさそうだしな。」 「まあ、正式に結婚できる訳では有りませんから・・。ただ、主上も、同じ時間を過ごし合える相手をようやく見つけた・・ということでしょうね。」 「ふん。それで少しは行状をあらためるならこっちも文句はないが。」 「どうでしょう。それははなはだ疑問ですな…。しかし、隣国の発展は我が雁にも良いとは思いますね。」 結局尚隆の周りにいるものも陽子と尚隆との仲を認めざるを得なくなって来たようだ。 その頃、尚隆の私室では、尚隆が陽子を腕に抱き、長椅子に座っていた。 「いや、全く驚いたぞ。」 「私もです。」 「まったく俺達の周りには、驚かす奴等ばかりだな。」 「そりゃ、お前達の普段の行いが悪いからだぜ。」 側の小机の上に座っている延麒が言う。 既に尚隆も延麒も又離れて座っている景麒も盛装を脱ぎ、平伏に改めている。 しかし、陽子は尚隆の望みで未だに盛装のままである。 重い盛装に疲れ立ち上がるのもおっくうになっていた時に、尚隆が陽子を抱き上げ、自分の膝に乗せた。 「尚隆!?」 「もう少しその姿を見せてくれ。たまにしか拝めないからな。」 景麒の前であまり二人の仲を見せ付けるような態度はしたくなかったが…。 でも、陽子も尚隆の腕を振り払って立ち上がれないほど疲れていたし、それでなくとも尚隆の腕に抱かれていることは心地よかった。 「尚隆…いい加減着替えてきてはいけませんか?」 「なんだ、もうお終いか?つれないぞ。」 「だって…。」 尚隆がことさらに陽子を離したくない様に腕に力を込める。 「おい、尚隆、いい加減にしろよ。陽子が困っているじゃねえか。このスケベ!」 延麒がそう言い、陽子を抱いている尚隆の腕を引っ張たく。 にやにやと笑いながら、尚隆がやっと腕を放す。 慌てて立ち上がろうとする陽子は、再び裳裾を踏み、躓きそうになる。 「おっと!」 尚隆がその陽子をささえ、すぐに両腕で抱き上げる。 「面倒だ。転ぶといかんから、部屋まで俺が運んで行く。」 「延王!」「尚隆!」 景麒と延麒が二人で咎める。 「しょ、尚隆…それは…。」 陽子も慌てる。 「良いではないか。それとも嫌か?」 と、陽子の目を覗き込む。陽子はその瞳には逆らえない。 「これも親善だ。」 くつくつと笑いながらそう言うと尚隆は陽子を腕に抱えたまま、陽子にあてがわれた部屋へ運んでいく。 周りを通る侍官、女官達が驚いて振り返る。 陽子は恥ずかしさと嬉しさに頬を染め、でも、しっかりと尚隆にしがみついている。 暖かい尚隆の胸に顔を凭せ掛け、男の香りに包まれる。 「尚隆?」 「ん?」 「良いんですか?皆が見て・・。」 「かまわん。陽子が怪我をする方が困る。」 陽子の部屋へ着くと、扉を開けた女官が驚いたような顔をして招き入れる。 「しゅ、主上!」 「退がれ。」 尚隆が人払いすると玄英宮の女官達は名残押しそうに下がっていく。 そこにはあと、陽子が金波宮から一緒に連れてきた女官達も居た。 「延王君、あとは、私達が…。」 そう言う女御に尚隆は 「お前達も退がって良い。」 と言い渡す。 驚きながら、それでも退がって行った女官達を見て、 「尚隆、皆を退がらせてしまっては…・。」 慌てて陽子が止めようとするが、尚隆は陽子に振り返りながら片眉を上げる。 「着替えくらい俺が手伝ってやるさ。」 そう言うと、陽子の肩から大裘の袞(ころも)を脱がせ、薄物となった陽子を抱き寄せる。 「もう…。」 陽子の声は、笑いを含み、その笑いもいつしか戸口の外からは聞こえなくなった。 |
(終)