『浩然の日々』 後編 |
くしゅん! すっかり日も暮れ、海風が心地よい玄英宮の露台付きの部屋で、陽子がくしゃみをする。 「陽子ぉ、大丈夫か?」 延麒六太が心配そうに覗き込む。 「大丈夫。」 笑顔で答える陽子。 「寒いか?なら俺が今夜たっぷりと温めてやろう。」 尚隆が意味ありげに、にんまりと笑い、それを聞いた陽子が真っ赤になる。 「ホントにスケベオヤジだな。お前って。」 六太が呆れ果てた…という顔で言い放つ。 「だから、わたしが反対を申し上げたのです。雲海に船を出し、あまつさえ、泳がれるなど!」 尚隆の側で書面を読み上げていた朱衡がじろりと尚隆をねめつける。 「何を考えているのだ。一体!!」 帷湍は既に泡を吹かんばかりの勢いで、詰め寄る。 「たまには良いではないか。なかなか気持ちが良かったぞ。」 平然と答える尚隆に、帷湍はますます怒りを露にする。 「この上、景女王がお風邪でも召されればその責任をなんとする!」 「そうだぜ〜、景麒に恨まれるぜ。」 六太が無責任に賛成する。 「あ、あの、泳いだのは私が尚隆、いえ、延王に頼んだ所為で…。」 陽子が慌てて尚隆の弁護をする。 「いいえ!この大馬鹿が先に飛び込んだというでは有りませんか!全くもって、自分の立場を全くわきまえておらん!」 頭から火を噴きそうに怒りを表す帷湍に尚隆は全く動じない。 「気にするな。陽子。こいつは好きでわめいておるのだ。」 心配する陽子に尚隆は笑って言う。 「とにかく、景女王まで、主上の気まぐれに巻き込まない様にしてください。」 朱衡が溜息交じりに言う。 「こいつらは、妬いているのだな。俺と陽子が仲が良すぎる所為か。」 尚隆が陽子の耳元で囁く。 「主上!」 おろおろする陽子を挟んで大笑いの尚隆と、怒り心頭の帷湍達。 それを六太が、「又始まった…。」という目で眺めていた。 ★ 「尚隆、あんなに皆に責められて良いのですか?」 「何をだ?」 尚隆の私室、陽子と二人きりで向かい合って酒を呑んでいる。 「だって…、私だったらあんなに景麒や浩瀚達に怒られたら…・。」 心配そうに陽子が尚隆の顔を見上げる。 「お前は真面目だからな。」 「……・。」 「なに、あいつらは、あれで俺を御していると思っているのだ。そう思いたいのなら思わせてやれば良い。」 「でも…・王は臣下にとっては…・。」 「王というものがどういう存在で有るかは、臣下一人ずつで考え方が違う。すべての人間が、敬い、ひれ伏すばかりではないことはお前もよく知っているだろう。」 杯を空けながら、尚隆が片眉を上げる。 「俺は、神のように敬われるのはごめんだ。臣下共が、俺の事を馬鹿と思っているのは反ってありがたい。俺が何を言い出しても、またか・・で済むからな。」 「?」 不思議そうに見つめる陽子。 「陽子、これだけは覚えておけ。最終的に物事を決定するのは王だ。だが、前にも言ったが、迷っていることを臣下や民に見せてはならない。」 「はい…。」 「だが、王はいつまでも安全な策だけに留まっていることはできぬ。時には皆の反対を押しきってするのが必要なこともある。その時にいちいち臣下のご機嫌を伺う様では、正しい選択は出来んぞ。」 「…・・。」 確かに尚隆の言う事はよく判る。 だが…・まだ王となって間がない私が臣下をないがしろにする…・・ そんな事が出来るのだろうか? いや、しても許されるのだろうか? 自分の杯を両手で包み込み、思わず陽子は自分の膝を見つめて悩んでいた。 「と、たまには俺も二人きりの時でも、政の話などすることもある…と言う事だな。」 大仰に笑い、尚隆は陽子の手から杯を取り上げる。 「本当に風邪を引くといかんからな。今夜は早く寝よう。」 そう言うといきなり陽子を抱き上げ、寝台の幄へ運んで行く。 「尚隆…・。」 その夜の玄英宮も甘く静かに更けていった。 ★ 景麒からの矢の催促で、とうとう陽子が雁を後にする日が来た。 朝から陽子の随従達は用意に忙しい。 陽子は一人何もすることがなくて、支度の済んだ後、自分にあてがわれた部屋の露台でぼうっと雲海を見つめていた。 この部屋は、陽子の為に用意されたが、陽子はこの部屋にはほとんど居なかった。 衣服を改めたり、少々の休憩を取る以外、ほとんどを尚隆の部屋で過ごしたからである。 「尚隆の部屋より、こちらの方が眺めが良いのかな?」 思わず出た独り言。 「お前が雲海が好きだから、ここを用意させたんだが…。」 後ろから聞きなれた声がする。 「尚隆!」 振り向きざま、その腕に飛び込む。 もうすぐお別れだと思うと、少しでも触れていたい。 そんな陽子を尚隆もしっかりと抱きしめる。 「あまり必要なかったな。それとも、こっちの部屋のに居た方が良かったか?」 いつもの笑いを含んだ声で話し掛けられる。 「もう!意地悪。」 陽子も笑顔で答える。 「別れが辛いのは判るけどさあ、…・」 大柄な尚隆の後ろに隠れて六太の声がする。 慌てて、陽子は尚隆の腕から離れ、 「あ、延麒そこに居たの?」 と平然を装う。が、既に頬には赤味が差している。 「陽子もだんだん尚隆に影響されて、大胆になってきたなあ。」 六太がにやりと笑い、面白がって言う。 「だって…。」 「はいはい。もうすぐお別れですからね〜。尚隆、お前もこんなに思われて男冥利につきるよなあ。」 気安く尚隆の背中を叩く。 「当たり前だ。俺はそれだけ陽子を大事にしているからな。」 「へえ〜、大事にねえ。」 「惚れているんだから当たり前だろうが。もっともお前みたいな餓鬼には判らんだろうがな。」 尚隆の嬉しい愛の言葉に、陽子は胸がいっぱいだった。 「あっそ。でも、陽子は尚隆の事そんなに惚れているのかなあ。ねえ?尚隆の一方的な思いだったりして…」 六太が意地悪げに笑う。 「そんな事はない!私だって…・・」 陽子が真剣な顔で言い返すのを尚隆は嬉しそうに目を細め、見つめていた。 「へいへい。おれは最後の時にお邪魔でしたね〜。ゆっくり別れを惜しんでくれよ。」 六太はさも呆れたように手を広げ、部屋を出ていった。 この時とばかり、尚隆は再び陽子に手を伸ばし、しっかりと抱き締める。 愛する男の暖かい腕の中で陽子は幸せに浸るが、別れが迫っていることが胸に迫る。 「又、会いに行く。」 尚隆の優しい声がする。 陽子は何も言わずに頷く。 思わず陽子の瞳から涙がこぼれる。 「陽子…?」 「わ、私…・・。」 涙の滴が次々と流れ落ちる。 「私…・もっと尚隆と一緒に…居たい…・。」 泣きながら訴える。 「もっと…・。私…私、帰りたくない…・・。」 しゃくりあげる陽子を尚隆はいとしい思いで一杯になり、抱きつづける。 「いつでも会える。陽子が会いたくなったらいつでも来い。俺も会いたくなったらすぐに行く。」 「尚隆…。」 「俺が側に居ないからといって浮気するなよ。」 軽く笑いながら尚隆がからかう。 「そんな!」 陽子が涙に濡れた目に笑いを浮かべて見上げる。 その頬に流れる涙を尚隆は唇で拭い、瞼の上に唇を当てる。 「ご…ごめんなさい。私…・尚隆といると、泣き虫になるみたいで…。」 「俺が泣かせているみたいだな。」 笑いながら尚隆が言う。 無理もない…。 慶に帰れば再び女王として、誰かにすがることも出来ず、臣下を率いて進んでいかなければならない。 ここに居れば、俺が守ってやれるのに…・。それができるなら…・。 抱きしめる腕に力を込める。 王は結婚できない。ましてや、王同士では…。 今では尚隆もそんな大綱を恨めしく思っていた。 やがて、陽子は涙を浮かべつつも笑顔で尚隆を見上げた。 「ありがとう。尚隆。もう大丈夫です。」 そんな陽子を尚隆は、驚きと共に改めて尊敬の気持ちで見つめる。 ここに惚れたのだ。この陽子に。 何が有っても手折られはしない…。 一人で咲き誇る強い野の花のような美しさに。 「そうか。なら、頑張れよ。」 言った途端、尚隆は陽子の唇に自分の物を重ねる。 しばらく激しく、熱いくちづけが続く。 陽子も尚隆もまるでこれが今生の別れのような激しさでお互いの唇を貪る。 やがて、どちらともなく唇が離れる。 「尚隆…。また、何か有ったら…・助けてくれますか?」 「ああ、勿論だ。いつでもお前の所へ行ってやる。」 愛する男の嬉しい言葉に陽子は体中が満たされる。 再びしっかりと抱き合った後、陽子は頭を擡げ、女王らしく部屋を出て供の居る場所へ行く。 陽子はまさしく女王になったな。 その後ろ姿を見つめ、尚隆は嬉しさ半分、残念さの混じった複雑な気持ちを持て余していた。 女王となった陽子は尚隆一人のものではない。 愛する女性は、あくまでも一人で女王として立つことを選んだ。 俺だけのものには決してならないのだな。 尚隆は心の中で淋しく自嘲していた。 玄英宮の禁門に、慶国の行列が出来る。 その中でもひときわ美しく、目を引く陽子。 緋色の髪、深碧の瞳。すらりとした姿。周りの者を圧倒し、王者としての威厳がある。 見送る人々の中で、尚隆はその姿に目を離せなかった。 陽子もまた尚隆を見詰めていた。 見上げる上背、偉丈夫というにふさわしい堂々とした姿。 たくましく暖かい腕と胸。 次に会える時まで、目に焼き付けるように…・。 やがて、行列は静かに進み、禁門を出る。 多くの騎獣がそこから空を駈け、南へ向かう。 慶の方向へ。 陽子は再び後ろを振り向く。 既に玄英宮は雲の中に紛れ始める。 「尚隆…・。ありがとう…・。」 口の中で小さくつぶやき、陽子は一筋涙を零した。 だが、その涙を知るものは誰も居なかった。 |
(終)