『憂戚』

其ノ二


「主上、何かお気に召さぬことがおありか?」
景麒がそんなことを言ってきた。
「そんなものない」
と答える。すると今度は
「お疲れなのでは?」
と不安げに私を見る。やはり、景麒の目は誤魔化せない様だ。
しかし、肯定することはできない。
「いや・・・・。どうしたのだ景麒?」
そう聞き返すことで気のせいだと思わせられないかと考えた。
景麒は釈然としない様子で、
「主上が何かお悩みのような気が致しましたので・・・。」
と答える。私は続けて、
「私は悩みの無いようなおめでたい人間ではないぞ。今も書類が読めずにイライラしている。」
と、書類をひらつかせ、笑ってみせた。
返ってきたのは、苛立ったような表情と
「その程度のお悩みならば心配など致しません。」
という、そっけない答えだった。
心配してくれている。それくらいは分かる。
しかし、麒麟にはすべて話さなければならないのか。
そう思うと目の前の麒麟に苛立ってしまう。
話せない。景麒には話すことはできない。
「その程度の悩みだ・・・。」
そう言うと、景麒は溜め息を漏らした。
無性に腹が立ち、
「退れ」
と命じた。
景麒の溜め息は嫌いだ。
なにが悪い。政務だっていつもどうりに行っている。
自分の悩みを公に持ち込んだことは無い。放っておいて欲しい。
そのことに触れられると、気持ちが揺らぐ。
忘れようと、努力しているのに。
掘り起こさないでほしい。
また、気持ちが滅入ってくる。
何故、こんなことになったのか。
何故、こんなに辛い。
何故、こんなにあの人に会いたいのか。



それから、しばらくして愕然とすることが起きた。
あの人が、延王が金波宮に訪れた。
何をしに来たのか。
延王が来るような行事もないし、招いた覚えもない。
ずっと、会いたかった人が目の前にいる。
それなのに、逃げ出したい気分だった。
これでは、忘れることができなくなる。
これ以上、自分を殺すことは出来ないのに。
だが、そんなことは延王が知る由もない。
「ちょっと、陽子の顔を見に来たのだ。」
といい、話をしようと人払いをする。
断る理由もなく、二人で四阿に行った。
「国の方はどうだ?」
延王が問う。
「まだ問題は沢山ありますが、よい官も見つかりましたので・・。」
「よかったな。」
笑みを浮かべ延王が言う。
その顔を直視できない。だから俯いてしまう。
「景麒がな、心配しているぞ。」
「え・・・?」
「陽子に元気がない。自分では駄目なようだから俺に相談にのってやってくれと頼まれてな。」
苦笑しながら、延王は話した。
「景麒がそんなことを・・・?」
「ああ、結構落ち込んでるようだぞ。自分ではお前の悩みを取り除くことはできないみたいだとな。」
余計なことをする。そう思った。
そのことに触れて欲しくないというのが何故わからないのか。
そして、ご丁寧にも延王をお呼びするとは。
「なにかあったのか?」
そう尋ね、延王が顔を覗き込んでくる。
反射的に顔を引いてしまった。
延王が目を瞬かせながら、こちらをまじまじと見た。
失礼なことをしてしまっただろうか。
そう考えていると、延王は苦笑した。
「・・・・陽子は何歳だったか・・?」
笑いながら、いきなりそんなことを問いかけてきた。
「十七になりましたが・・・。」
なるほどな、と延王は納得したように頷いている。
「それが、なにか?」
「いや、男に慣れていないのかと思ってな。」
それは無い。宮中ではまだ男性の数が多い。
それに拓峰の乱では周り中が男だらけだった。
景麒も一応は男である。
そういえば、楽俊も成人の男だ。
「慣れていないということは無いと思いますが・・・。」
よく考えると私の顔を覗き込むようなことは楽俊以外はしないよな気がする。
楽俊はといえば、いつも獣形でいるからあまり男という気がしない。
「男の人の顔が至近距離にあるのは慣れてません。」
そう答えると、延王は大笑いした。
「それは失礼した。」
頓着ない笑顔を、見つめる。
無茶だとか、非常識だ、ふざけているとか言われている。
誰もが呆れ、溜め息をつくような王だが、それでも人は彼についてくる。
その懐の深さに皆惹かれる。
そして、その奥の深さに惑わされるのだ。
一度惑わされると、どんどん深みに嵌まって抜けることができない。
自分もそうなのだ。既に片足を突っ込んでしまっている。
そして、抜け出そうともがいて更に奥深くへと沈んでいる。
自分は嵌まってはいけないのに。
この人に惑わされてはいけないのに。
「陽子?」
延王の声が思考に響いた。
ひやりとしたものを感じる。
「・・・・何があったかは知らんが、悩みすぎて周りに心配かけるな。」
「・・・延王こそ周りに心配をかけているように思えますが。」
そう言い返すと延王はまた大笑いをする。
「陽子にまでそういわれるとはなあ。なに、俺の場合は心配などかけてはおらんよ。」
延王は断言した。軽口が過ぎただろうか。そう思っていると、
「かけているのは、迷惑だ。」
と笑いながら言い出す。
そっちのほうが厄介なのではとも思ったが口には出さず笑っておいた。
「私は・・・ちゃんと悩みなんて・・迷いなんてないって顔をしています。景麒が心配性すぎるんです。自分の悩みを仕事に反映させたこともないし暗い顔を見せることもない。延王が言っていた通りに・・・してます。」
「まあ、麒麟てのはそういうことに敏感なのかもしれん。もっとも六太はこっちの苦心など意に介さぬがな。」
それは延王が本当に悩んでいないように見えるからだろう。
そう思うと、苦笑してしまう。
つまり自分はまだ演技が足りないのだ。
麒麟も騙せる程にはなっていないということだろう。
「まあ、麒麟にまで隠す必要はないだろうがな。」
延王が言った。ぎくりとする。
こちらの考えていることを読まれているような言葉だ。
「・・・どちらなんです?あまり心配かけるなといいながらそれでは・・・。」
「さて、どっちだろうな。」
笑いながら、延王は立ち上がる。
「延王・・・?」
「俺では役不足のようだ。陽子の悩みを解決してやることはできんようだからな。まあ、悩みなんてものは結局は自分でしか解決できぬものだから仕方ない。」
「お気を悪くなさいましたか?」
自分でもひどく焦っているのがわかった。
この人に嫌われたくない。
「いや、俺が居ないほうが考えがまとまるということもあろう。なに、俺の助けが必要なら呼べばいい。俺にできることなら手助けしてやると言ったろう?」
「はい・・・。」
「ひとりでゆっくり考えてみろ。冷静になると、たいした悩みでもないかもしれんぞ。」
そう言い置いて、延王はその場を去って行った。
その後ろ姿に縋り付きたかった。
その場から彼がいなくなることがとてもつらい。
側にいたい。そう思う自分が情けない。
延王がいなければ何もできないというわけではないのだ。
彼がいなくても、日々は動いて行く。
延王がいないことが何程のことか。
そう、たいした悩みではないのだ。
それなのに、延王と一緒にいたい。側にいて欲しい。
誰にも言えない。王たる自分が王のあの人を想うなど。



蓬莱での同級生たちを思い出す。
彼氏ができた、○○高校の某君が好き、彼氏が冷たい、浮気した。
そんな話をよく聞いた。
男の子の話に一喜一憂していた同級生たち。
あの時は、恋というものが分からなかった。したいとも思わなかった。
なぜ、そんなに騒ぐのだろうと思っていた。
彼女たちは、友人たちに恋の悩みを相談して安心する。
それが自分にはできない。鈴や祥瓊なら聞いてくれるのだろう。
でも王としてそれは許されないような気がする。
そもそもこの想い自体が間違いなのだ。
恋人にふられたと友に泣き付く少女たち。
きっととても辛いだろう。
それでも、彼女たちがうらやましい。
人に相談できる恋をしていることがうらやましい。
誰か、聞いて欲しい。


延王は翌朝早々に金波宮を発った。
延王を見送ることがとても辛かった。
「元気でな。」
まるで、もう会わないというような言葉に思えた。
「またなにか困ったら相談にのるぞ。」
本当にこちらの考えていることを見透かしているような物言いだ。
「ありがとうございます。」
そう答えるのが精一杯だった。
去って行く延王の姿を見ることができず、即座に宮に戻った。


政務を終えた後、景麒を四阿に呼び出した。
景麒がお節介にも延王を呼んでくれたせいでまた辛くなってしまったのだ。
一言言ってやらないと気が済まない。
景麒がやって来ると更に怒りが込み上げてきた。
「延王を呼んだのはお前だそうだな・・・・。」
そう言うと、景麒は悪びれもせず、
「はい。いけませんでしたか?」
と返してきた。済ました景麒が面憎い。
「・・・なぜ延王をよんだ!?どうして寄りによって延王なのだ!」
思わず怒鳴ってしまった。景麒は訝しげにこちらを見る。
「延王がお嫌か・・・?」
何を言っているのだ、この麒麟は。その逆だというのがわからないのか、
思って気づく。景麒にはわかるはずがないのだ。
何も言ってないのだから。ひどい八つ当たりだ。
そう思い首を振った。
「では、何がいけないと仰せか?」
景麒が苛立たしげに問う。
言えない。延王が好きなどと言えるはずがない。
特に景麒は予王のことがある。私がそんなことを言えば苦しむことになるだろう。
「・・・・・・・。」
黙ることしかできなかった。
「主上が何か憂えていれば民にだって影響がでます。その心配をしたのです。延王なら同じ王の立場として私には出来ぬ助言もなされるだろうとそう思ったことがいけないと仰せられるか。」
一言もない。
「・・・・すまない・・・。八つ当たりだ。」
と謝るしかなかった。
「何をお悩みか・・・私にはお話しできませんか?」
と、景麒。
話したい。そんな誘惑にかられる。
「・・・きっと・・・。」
言ってはいけない。
「きっと・・・景麒に言えば・・・呆れられてしまう。」
まだ、迷う。話してしまいそうだ。
「そんなことは・・・・。」
その先を言いよどんだ景麒を見る。
やはり、言うべきではない。
「いいんだ、景麒。わたしは自分でも呆れ果てている。」
私はそう答えた。
「主上・・・。」
何と続ければよいか分からなかったのだろう。景麒はただ、そう呼んだ。
どうやら、落ち着いてきたようだ。先程のような怒りはもう無い。
そうなって、ふと気づいた。
もしかして(もしかしなくても)今のわたしの態度は非常にあからさまだったのではなかろうか。いくらなんでも、今ので景麒も気づいたはずだ。
「景麒・・・。」
「はい?」
「お前・・・本当に何も気づかないのか?」
うかつな自分が恥ずかしい。しかし景麒はきょとんとし、
「・・・・何がです?」
などと尋ねてくる。何がといわれても困る。
だが、景麒は心底わからないという風情だ。
それがひどく可笑しかった。
「いや・・・お前はそういうことには疎いのだな。」
笑いが込み上げてくる。
不思議そうにこちらを見る景麒にさらに可笑しくなった。
「ここにいたのが、お前で良かった。鈴や祥瓊ならばれていただろうな。」
これほど、笑えたのも久しぶりだ。
麒麟には、恋愛感情というものが無いのかもしれないが、それにしても鈍すぎる。
だが、よい気分転換だ。まだ心から笑える自分がうれしい。


悩みは尽きない。
延王はやはり恋しい。
でも、たいした悩みではないのかもしれない。
まだこうやって笑えるのだから。
笑うこともできぬほどの絶望を私はよく知っている。
あの頃に比べれば、本当にたいしたことではない。
「すまなかったな、呼び出して八つ当たりなんかして・・。」
腹が苦しいがとりあえず謝った。
「戻ろうか。」
そう言うと景麒は安堵したように少しだけ笑んだ。
「はい。」
その返事を聞き、私は歩き出した。
下僕は黙ってその後に従った。


                              

 (了)