『一日千秋』 |
「主上!」 その声にはっと陽子は気がついた。 目の前に景麒が困ったような顔をして立っている。 「お聞きになっていらっしゃらなかったのですか?」 溜息を吐き、景麒が言う。 「あ・・すまない。もう一度言ってもらえないか?」 「はい。では、前から申し上げております、征州の灌漑の事ですが・・。」 景麒の奏上を聞きながら、再び陽子の気持ちは先ほどの思いに戻っていった。 恋人である、雁州国国王、延王尚隆に会えなくなって既に2ヶ月近く経つ。 特別に何か理由が有る訳ではない。 お互いの忙しい時期が偶然に互い違いになっていた為である。 本当は、月に1.2度は会う約束であった。 なのに…。 尚隆は、私に会いたいとは思わないのかな・・。 自分よりは、ずっと大人の恋人のことを思うとき、陽子の胸は締め付けられるように痛んだ。 尚隆の暖かい腕と唇の感触、耳に心地よく響く声がまざまざとよみがえる。 再び気がつくと、景麒が目の前で沈黙し黙り込んでいる。 しかし、その目は咎めるような視線を送ってくる。 「え?あ、それは、浩瀚に任せる。松伯にご意見を仰ぐように…。」 通り一遍の返答をするが、なおも景麒はその視線を外さない。 「なんだ?」 その様子を側で見ていた、陽子の政事の師である松伯は、穏やかに笑みながら景麒に言う。 「主上はお疲れのようですな。 台輔、ここらで主上を開放して差し上げたら如何なものかな?」 暫く沈黙していた景麒は、ようやく口を開く。 「…・主上、あなたは、前私に何をお約束されたか覚えておいでか?」 「え?何のことだ?」 「あなたは、私に、決して御自分の天命には背かれない・・と申された。しかし、ここ暫くの主上は、そのお言葉をことごとく裏切っておられます。」 「どういう意味だ?私はこうやって朝議にもきちんと…。」 「ご出席はなさっていますが、心はここにあられない。それでは、意味がありません。」 景麒には判っていた。 陽子の元気が無いのは、ここしばらく延王尚隆との逢瀬がないからだ。 見る見るうちに陽子は元気を失い、生気すらも抜けていくようである。 自分がそう仕向けたのではない…。 景麒は心の中で自分で弁解していた。 だが…、結果として、自分の言葉が陽子を苦しめていることは判りすぎるほど判っていた。 陽子もまた、自分を良く分かっていた。 女王として、今の自分の態度がふさわしくないことも…。 しかし、会いたい思いの方が強すぎる。 会いたい! 会ってあの暖かい腕に包まれ、あの声を聞きたい。 尚隆の人を食ったような台詞も、今の陽子には何にも増して恋しかった。 「台輔、主上は確かにお疲れでいらっしゃいます。本日はここの所で…。」 控えめながら、家宰の浩瀚も口を出す。 「判りました。では、この件は又次回に致しましょう。」 陽子は再び執務室の窓の外を眺める。 そんな陽子を側近達は複雑な面持ちで見つめた。 「では、本日の朝議はここまでにいたそう。」 松伯の声が響き、景麒を残して皆が執務室を立ち去る。 「主上、私は言い過ぎましたでしょうか?」 景麒が心配そうにしかし、いつもの通りの表情に乏しい顔で尋ねる。 「いや…。私も悪かった。すまない。」 振り向きつつ答える陽子の目には、既に涙が溜まっていた。 「主上?」 驚く景麒に向かって、 「すまない…。少し一人にしてくれ。」 「御意。」 頷礼すると景麒は後ろ髪を引かれながら、入り口の方へ向かう。 その時、執務室の戸口に、雑事をつかさどる官吏があたふたと現れ、 陽子に奏上する。 「主上にお目にかかりたいという方が…。」 「誰か?」 尋ねる景麒に、官吏は、「そ、それが…。」と口篭もる。 その後ろから現れたのは、子供の背丈ほどのふかふかした灰茶のネズミだった。 「楽俊!!」 陽子は笑顔に戻り、この友人を迎え入れる。 「どうしたんだ?何か有った?大学は?」 「よお!陽子!景台輔もお元気そうですね。今日のおいらは、陽子に用事が有るんだが。いいかな?」 言いにくそうに景麒を見る。 「どうぞ、ごゆっくりなさって下さい。私は失礼する所です。」 「あ、すいませんね。」 景麒が戸口から消えた後、楽俊は、陽子に向かって髭をそよがせる。 「陽子、これ、預かってきたぜ。」 その小さな手には、手紙が握られていた。 「手紙?私に?誰から?」 それには答えず、楽俊は陽子の手にそれを押し付ける。 慌てて開けてみる。 そこには、おおらかな文字で 「蒼樹楼」 とだけ書かれている。 しかし、その筆跡はよく見知っていた。 「楽俊、これって…。」 「おいらは、頼まれただけだからな。んじゃ・・。」 いたずらっぽく髭を震わせて出て行こうとする楽俊に向かって、 「ありがとう。」 陽子は満面の笑みで言う。しかし、その片頬には、涙が一筋流れていた。 それにしっぽを振って答え、後も振り向かずに楽俊は部屋を出ていった。 その直後、金波宮で働くものは、しなやかな趨虞が、主人の赤い髪をなびかせつつ、中空を舞って走っていくのを見かけた。 その趨虞の向かった先は…・。 堯天の中の目立たない、しかしいつも行き届いた店であった。 |
(終)