『李下一枝』






深い溜息が思わず出る。
「これで・・良かったのだろうか・・・?」

陽子は位袍のまま、自分の部屋の椅子に深く座り込んだ。
一つに纏め、小さく結い上げていた髪を思わず手を入れてばさりとほどく。

長い紅い髪が背中に流れる。

景女王赤子、陽子は今さっき自分の宮殿、金波宮外殿にて諸官に向い、初勅を出したばかりである。

拓峰の乱。
後にこう呼ばれるこの騒動に陽子は深く関わった。
それによって、かなりの人間が死んだ。
必要とはいえ、陽子の、慶の国の臣下が・・である。

陽子が自ら手を下したものもある。
判ってはいるけれど・・・・。
しかし、やはりそれは辛い。

それも在って、今回の初勅、
『礼典、祭典、及び諸々の定めある儀式、他国からの賓客に対する場合を除き、伏礼を廃し、跪礼、立礼のみとする。』
というものを決めた。
景麒はかなり不満そうだった。
他の諸官達も呆れていたようだ。

だが・・・私はこれ以上人が人を踏みにじるのには我慢が出来なかったのだ。
それでなくとも、王という立場は多くの犠牲を必要とする。
既に・・私は何人、いや、何百人の犠牲の上にこの景女王という立場を確立したのだろう?

ーどうせ玉座などというものは、血で贖うものだ。

延王の言葉が再び私の頭の中を駆け巡る。
あの人は・・この事を判っていたのだ。
判っていたからこそ、あんな言葉を私に言ったのだろう。

でも・・あの人は私のこの気持ちと同じ事を味わった事が在るのだろうか?
自分に逆らったとはいえ、自分の国の民。
松伯の言葉を借りれば、私の子供・・である。
その上・・・何も罪の無い蘭玉まで・・・・。

溜息と共に自分の目に知らず知らずに涙が込み上げる。

こんな・・・・力の無い私が・・・王なのか!

思い切り泣きたかった。
誰かに縋って・・・。


だが・・・私にはそれは許されない。
私は一人でこれに立ち向かい、堪えなければいけないのだろう。
そう考えると辛い。何もかも投げ出して逃げたくなる。


陽子は椅子に沈み込み、肘掛けに付いた手に顔を乗せる。

その時、そっと扉が開かれる。
陽子は気が付かない。


「陽子。」
その声に始めて気が付き、目を上げる。
そこには、背の高い偉丈夫がどことなく悲しげな、そして優しい瞳で立っていた。
「延王・・・・。」
陽子は慌てて立ち上がる。

「ど、どうしてここに?いらっしゃるのなら、もっとちゃんとお迎えしましたのに。」
涙を隠すように慌てて取り繕い、顔を背ける。

(この人に、泣いていた所など見られたくない。こんな情けない私なんか・・・。)
そう思う陽子の傍にふっと背の高い身体が近づき、陽子の肩に大きな掌が乗せられる。
その低い、良く響く声がする。

「陽子、お前疲れてるな。」
暖かい一言だった。
その一言を聞いて陽子はいままで堪えていた涙をもうそれ以上堪える事は出来なかった。

「うっ・・ひっく・・・ひっく・・・。」
頬を涙が止めど無く流れる。
置かれている肩の掌の暖かさが陽子の心に染みる。

「何事も一遍にはできん。それに・・・人の心ほど思い通りのならぬものはない。」
その声が益々陽子の涙を誘う。

泣き顔を見られたくなくて必死に下を向き、歯を食いしばって堪える。
そんな陽子を尚隆はじっと見詰め、そっとその手を陽子の背中に廻し、自分の胸に抱き寄せる。
尚隆の暖かい胸に抱かれ、陽子は声を上げて泣き出した。

それは・・この世界に来て陽子が自分以外の人間に初めて見せた弱さだった。
泣きながら陽子は訴える。

「私・・・は、何の為にここにいるのでしょう。こ・・んな、役にも・・立たない・・王なんて・・・。」
切れ切れに訴える陽子の言葉を尚隆は何も言わずに陽子の髪を撫でながら聞いている。

「私が・・・なにが出来るというのでしょう・・・。何も出来ないんです。私なんて・・・王になっても
何も出来ない・・・・。」
何度も繰り返し自分自身を責める陽子の言葉を尚隆は静かに聞いてやる。

「慶の・・・民が可哀相です・・。私みたいな・・・王なんて・・・・。」

やがて陽子は涙が少しずつ収まり、しゃくりあげていた声も弱まる。
その時、陽子の耳に低く優しく声が響く。
「陽子、そんなに焦るな。自分を責めることはない。お前のしたことは間違ってはいない。」

驚いて陽子は涙に濡れたその顔を上げる。
尚隆の顔にはいつものふざけた笑みはなかった。
ただ、優しい、何処か切なさそうな目で陽子を見詰めている。

「お前は慶の王だ。それは天が決め、景麒がそれを伝えた。だから陽子、何事も直ぐに結果を出そうとするな。
焦らずともいずれ結果が出る。お前は正しいと思った事をすれば良い。」

その声に陽子は安堵する。
自分の髪を撫でるその大きくて優しい手に、暖かい広い胸に安心する。
そっとその胸に顔を埋める。

元居た倭国でも、こんなに優しく抱かれた事はなかった。
自分の父親にすら・・・。

尚隆はそのままずっと陽子を抱きしめていてくれた。
その広い、頼り甲斐のある胸に陽子はずっと凭れていたかった。

(この人に・・・甘えても良いのだろうか?頼っても良いのだろうか?)

ずっと前から想っていた事が再び浮かんでくる。

(私は・・・この人が好きだ。こうして私をいつも助けてくれる、守ってくれるこの人が!)

陽子の心の中に再び勇気と、困難に立ち向かう力が湧いてくる。
(この人のこの腕さえあれば、私は何回でも立ち上がれる。)

それは、この世界でたった一人で困難に立ち向かっていかなければいけないと思い込んでいた陽子に
自分が一人ではない事を判らせてくれた最初の一歩だった。
右も左も判らないまま、王として臣下を率いていかなければならない陽子にとっての、本当の避難場所、
この世界での自分自身の居場所が、延王尚隆の腕の中であるという事を知ったのもこの時だった。



(終り)