淡雪



 大陸東部にある、慶東国その首都、尭天。人々は未だ貧困から抜け出しはしていないものの、未来へと力強く歩んでいた。
今の女王が玉座について10年が経とうとしていた、その年の春の、穏やかな風が辺りをめぐり、青空はすべてを柔らかく包み込むようなある日のこと・・・。

 その少年、いや少年のような身形をし、頭は髪がすっぽりと隠れる布で覆うという一見すると旅人のように見える少女がのんびりと店々をひやかしていた。
「おい、にいちゃん、この魚、安くするよ。」
「そこのにいちゃん、この簪土産にどうだい?」
これらの呼び込みを、苦笑しながら、その翠の目は優しく、涼やかに通り過ぎていく。

彼女は、今まで自分がしてきたことに改めて満足をし、そして未だ解決されない様々な問題について思いを馳せていた。10年前何もできなかった自分、そのせいで周りを振り回してしまっていた。今もそう変わらないが何かが彼女の中で芽生え始めている。周囲の者たちは口に出しては言わないものの王者としての気質を彼女に見ていた。

そんな時不意に見覚えのある少女を見た。雑踏の中から鮮やかに目の中に飛び込んでくる。しかしそれは、有り得ないことだった。その少女はすでにこの世には、いないのだから。

「あの、失礼だがあなたは・・・・」
思わず、その娘の腕をつかみ、声をかけていた。
驚いた様に、振り返った娘は不思議そうに自分を呼び止めた者に目を向けた。
 まるで春の野に季節はずれの雪が降り注いだ様な肌に、控えめに咲く桜色の唇。柔らかな光を含んだ褐色の髪の毛がその輪郭を縁取る。しかし顔そのものは、10年前守りたくても守り得なかったあの少女の生き写しだった。
「ごめん・・・急に呼び止めたりして、実はあの、あなたが知り合いに似ていたもので、つい・・」
そう言うと、娘は安心したように目を細めた。
「そうですか、私は雪華(せっか)と申します。」と、はにかみながら言う娘は、あの思い出の中の少女より、儚げにみえた。
こちらがふと、黙り込んでしまったので困ったように雪華が声を掛けてきた。
「そんなに似ておいでですか?ところであなたは名乗ってくださらないの?それと・・・そろそろ腕を離していただけるとうれしいのですが・・・」
こう言って雪華は人懐こい笑顔を向けた。
「あ・・・ごめん、私は陽子(ようし)という者で・・・・」
慌てて、腕を放した陽子に雪華は気遣わしげな視線を送っていた。なぜなら、陽子の翠の目から涙が溢れ出ていたのだった。
「大丈夫ですか?すぐそこに私が働いている所があるんです。もしよろしければ休んでいきませんか?」
「あ・・・でも迷惑でしょう。しかもこんな今知り合ったばかりで・・・」
そういうと、雪華はコロコロと笑いながら
「いいんですよ。こうやって知り合ったのも何かの縁ですし、その私に似た方のお話も聞きたいわ。それに女ばかりの所ですから喜ばれるわ。あなたみたいな綺麗な男の子が来てくださると。」と、言った。
その言葉に驚きながらも、いたずら心にたまにはいいかなと、陽子は心の中で自嘲しつつ首を縦に振った。
「それじゃあ、お言葉に甘えてみようかな。」
陽子がそう言うと雪華はまるで花が咲くように笑い、ついて来るようにと手を握ってきた。

 雪華は活気のある大通りを折れて、どことなくうらぶれた一郭へと足を向けた。
「ここよ、ちょっと待っててね。」
 陽子は店構えを見てその店が何の店であるか、雪華がどのような事を仕事としているのかが、わかった。その店の柱は鮮やかな緑色をしていたのだった。周りを見渡すとこの辺り一帯は遊廓が建ち並び、いわば吉原の様を呈していた。そういえば昔テレビで見たなぁと、今となっては夢の国となってしまった蓬莱での生活がふと頭をよぎった。
「お待たせしました。私の部屋でお話しましょ。」そう声を掛けられ、裏口のほうへ向い雪華に促されるまま、少し緊張した面持ちで中へと足を踏み入れた。
そこは共同で食事をする場所らしく、木でできた簡素な机と幾つかの椅子があり、今も何人かの少女たちが雑談に花を咲かせていた。
雪華と、陽子が現れると、しんと静まり値踏みをするような視線を陽子に向ける。陽子は居心地が悪くなり顔を俯かせた。
「エヘへ、女将さんには内緒ね。」と雪華は頬をほんのりと桜色に染める。
 すると、中でも年長の娘がジロリと陽子を睨み付けながら、雪華には優しく微笑み「安心しろ。」と言った。

 廊下を進み、階段を上り少し奥まった所に雪華の部屋があった。
「どうぞ。」というので、多少躊躇したものの中に入り床に座った。
中は日本でいうと6畳ほどの広さで、机と簡単な寝床があった。一応南向きに窓があり明るい日差しを部屋の中に取り込んでいる。
「あ・・・あの私はこういう所に入ったことが無くてその・・・」しどろもどろに言う陽子が
おかしかったのか、小さく笑い「この部屋は私の私室。仕事は別の部屋なの。」と言い、まだ陽子が途惑っているのを見ると
「真面目なのね、驚いたでしょ女ばかりで。まだ店を開くには早いから姐さん達に見られちゃったね。」と笑った。
「私ね、初めてなんだ同じ年頃の男の子と知り合うのって。店ではおじさんばっかだしね。」という雪華の顔は本当に嬉しそうだった。
「それにこんなに綺麗で素敵な人めったにいないでしょうに、私は運がいいのね。」と続けた。
 ますます本当のことを言い出しづらくなった陽子は何かいい手はないかと必死に考えた。その時、戸の外から「雪華さん。」と声がかかり、お茶と茶菓子を運んできた。その娘が退室すると部屋に沈黙が降りた。
黙ったままの陽子を見て、「ごめんなさいね、もしかしてここに来るの嫌だった?」と言う雪華の顔はとても壊れやすい陶器を抱えているように強張っていた。
「いや、そんなことはない。私も雪華に会えて嬉しいよ。」と陽子が言うと、雪華は顔をほぐすように両手で顔を覆い嬉しそうに笑った。
「ところで陽子の国はどこ?」
「私は・・・最近こっちに来たんだ」
「そうなのやっぱり雁に行っていたの?」
「いや、実は海客なんだ。10年程前にこちらに流されてきたんだ」と言うと、雪華は目を丸くした。
「まあ、そうなの。私、海客の方に初めてお会いしました。蓬莱でしたっけ、神仙が住む夢の国だと、聞いた事があるわ。」
「そうかな、妖魔はいなかったけど、争いごとや災害はある。こちらとあまり変わらないところだよ。」
「妖魔がいないだけでも良いところだと思うわ。」雪華は悲しみに思いを馳せるような瞳をした。「私の両親ね、私が3歳か4歳の頃妖魔にやられちゃったんだ、目の前で。先の景王が女の人を国から追い出したでしょ?その時に逃げようとしたんだけどね・・・それで」
そこまで言うと雪華は堪え切れず泣きながら、震える声で先を続けた。
「それでここに預けられたんだ。私頭も良くないし、何もできないから。ここに・・・」
溢れ出た涙は大きな粒となり頬をつたい"涙の道"を作り、一度顎の所にとどまりそして、ぎゅっと握りしめられた白い手に落ちてくだけた。
陽子は何も言えず、雪華を抱きしめた。
「御免なさい袍が濡れてしまうわ」雪華は慌てたように顔をあげ、陽子から離れようとした。「いいよ、袍が濡れるぐらい。気が済むまで泣いていいよ。」
そういうと陽子は雪華をもう一度だきしめた。まるであの時の少女を守りえなかった自分をなぐさめるように。雪華は顔を陽子の胸にうずめて肩を震わせて嗚咽をあげた。
決して、決してこんな悲しみは味あわせない、もう二度とは・・・・!!!

夕日が窓から差し込み始めた頃、戸の外から先ほど陽子を睨み付けた娘の声がかかった。
「雪華そろそろ準備しな。」その声に慌てて、陽子から飛び離れ「はい。」と雪華は答えた。振り向きながら涙に濡れた目で陽子に微笑みかけ「ごめんね、せっかく色々お話しようと思ったのに。突然泣いてしまって。ご迷惑だったでしょ。」と言い終わった所にもう一度、外から少し苛ついたように雪華を呼ぶ声がした。「はい、ただいま。・・・・陽子また来てくださる?」と懇願する瞳を陽子に投げかける。
「あ・・・うん。また来るよ。」そう言い残して陽子は一人部屋を出た。
 廊下には声の主が腕組をし、壁にもたれるようにしていた。陽子が出てくるのに気づき、ついて来るようにと指示した。
階段の下りたところまで連れて行かれると、彼女はまるで敵を見るような目で陽子を見やり言い放った。
「私は木蘭(もくらん)。雪華の姉のようなものよ。」そこで一度口を結ぶと、きっと陽子を見上げ、「あんたどうやって雪華に気に入られたか知らないけど、遊びで近づくだけ近づいて捨てるんじゃないでしょうね。」ささやくような声で、それでいて人を圧するような視線で陽子にくらいかかった。
「遊び?・・・いや本気だよ」陽子は雪華を友人として言った。
疑わしそうに陽子をじろりと睨み「いいかい?あの娘は散々苦しんできてるんだ、あんたも遊びならこれ以上あの娘に手を出すんじゃないよ。」そう言って、木蘭は去って行った。
 陽子は一人取り残され、誤解を解かなければと思いつつ景麒の渋い顔を思い出し苦笑し金波宮へと足を向けた。

 禁門にたどり着き、正寝にもどろうとした時、一番会いたくない者と会ってしまった。しまったと思いつつも時既に遅し。
「主上!一体何時だと思ってるんですか。あれほど日が暮れるまでにはお戻り下さいと申したでしょう。今日は徹夜で仕事をして頂きますからね。」景麒にしては珍しく口数が多かった。
しかし、その見事な金の髪を逆立てんばかりの怒りの勢いに気圧されて、陽子は「ごめん。」としか言えず。その場から逃げるように走り去った。
 正寝には牀の準備をしていた祥瓊がいた。陽子を見ると、肩を小刻みに揺らして必死に笑いをこらえようとする。
「どうしたんだ、私に何かついてるか?」全身を見渡す陽子を見て祥瓊は、首を横に振って
「違うわよ。陽子、台捕には会った?もう面白かったのよ。今日陽子が出かけたとき冗祐をつけなかったでしょう。それに気づいたときの台捕の顔ったら無かったわ。普段表情を表に出さない分、周りの者は皆驚いてたのよ。あれでもとても心配してたんだから気を利かせてあげなさいよ。」と言って、陽子の肩を軽く叩きながら部屋から出て行った。
 心配されていると聞き陽子はくすぐったくもあり、しかし心の中がじんわりと暖かくなった。
ふと雪華にはこのように、心を暖めてくれる友はいるのだろうか、と心配になったが、木蘭の顔を思い出し、ふふっと笑みが零れた。
 
あれから、2週間が過ぎ花の季節から、緑の季節に移り変わってきたある日、たまたま暇な日ができた陽子は雪華を思い出し、景麒に許可をもらい尭天へと降りた。
 まっすぐあの店へ向かった。店の中に入ると真っ先に木蘭が気づき、陽子に近づいた。
「何しに来たの。」相変わらず声がとげとげしい。苦笑しながら陽子は「雪華に会いに。」と告げた。そこへ他の少女と雪華が現れた。雪華は陽子を認めると驚きに目を見開きそしてあの、少しはにかんだような笑顔をよこした。雪華は走って陽子のところまで来て、「お待ちしておりました。」と言った。
「うん。私も雪華に会いたくなったんだ。」
2人は木蘭の許しを得ると、雪華の部屋まで行った。

「久しぶりですね。もう会えないのかと思いました。」
陽子にお茶をいれながら雪華は言った。
「ちょっとね、仕事がたまっていたもので。」
そう言って陽子は、景麒に監視されながらの仕事風景を思い出し苦笑した。
「そうですか。」柔らかく微笑み、陽子に湯のみをわたしながら「この前は恥ずかしい所をお見せしてすみませんでした。」と言った。
「いや、いいんだよ。」
「そういえば、私に似た方ってどのような方なんですか?」
「ああ、昔ねお世話になった、閭胥の所に住んでた女の子でね、くるくるとよく働く娘だったよ。とても明るくてね。」懐かしそうに遠くを見る陽子に、
「そうなんですか。その方は幸せね。」というと、雪華は悲しげに笑った。
その言葉の意味を一瞬理解できなかった陽子は、ああと思い出したそういえば私、男だと思われてるんだった。
「その娘ね、もういないんだ。」
「・・・そうなの・・・・」そう言ったきり雪華はうつむいてしまった。色のうすい肌に綺麗な髪が覆いかかりその表情を隠した。
「でもね、その娘はまだ生きているよここで。」と言って陽子は自分の胸を指した。
「人は死んでしまっても、残された人が思うことによって、生き続けられるんだと思うんだ。」そして雪華が気にすることは無いよと言って、笑った。
「じゃあ、私の両親も生きているわ。・・・ねえ、もし私が死んでも陽子は生かしてくれる?」
「もちろん。でもそれはまだまだ先のことだね。」陽子が言うと、雪華は首を横に振り、さらりと言ってのけた。
「私はもう長くは無いと思うの。花娘だもの、ここの姐さん達も皆17,8で亡くなってるわ。
特に私なんて体が弱いし。」
 とても可愛らしい笑顔を向けてくる雪華になんと言っていいか、つまってしまった。自分は普通の人間のように老いたり死んだりしないということは、解かっている。皆自分より先に逝ってしまう事も。しかし目の前の儚げな少女が無情にも死に向かってるという事実にうちのめされた。「でも、私は幸せですよ。だってあなたと会えたもの。きっと今まで頑張ってきたから、そのご褒美ね。今までいろんな男性と会ってきたけど、こんなに胸が熱くなる人は、あなただけ。」
潤んだ瞳が陽の光を取り込んで陽子に突き刺さる。雪華は陽子を抱きしめてきた。
今、自分が男ではないと言ったらこの娘は悲しむだろう、だが隠しとおせるだろうか。
頭の中は混沌として、何も考えられない・・・その細い体をただ抱きしめた。
それから2人はとりとめもなくお互いの事を話していくうちに、日が暮れていった。
「じゃあ、今日はもう帰るね。」陽子は優しく雪華から離れた。

 陽子が裏口から店を出ると一人の大きな男が店の中へと入っていったのが見えた。別段気にするでもなく、歩を進めていると、足元から冗祐の声がした。もちろん他の者には聞こえないように。
"主上、今の男禁軍、中軍将軍の李U(りいく)という男ですね"
そう言われてみると陽子は今の人物に見覚えがあった。よかった布で髪を隠しておいて、と安堵する。しかし何か気になる、李Uが何か今まで問題を起こしていたなどという事は無い。これは陽子の直感でしかない。だが・・・陽子が店のほうへ視線を向けると再び冗祐の声がした。
"早く帰りましょう、遅くなるとこちらにも台捕の怒りが回って来ますゆえ"
その声を聞いて陽子はおかしくなり、そうだなと言った。おそらく李Uはなんでもないんだろう、きっと私の気にしすぎだな。

 陽子はいつもの様に禁門から入り正寝へと向かった。するとそこへ祥瓊と鈴が駆け寄ってきた。
「どうしたんだ?2人ともそんなに慌てて。」陽子は不思議そうに首を傾けそのみごとな紅の髪を揺らした。
「どうしたも何も延台捕がいらっしゃってるわよ。」と祥瓊が息を弾ませながら言った。
「え?!なんで?」
「さあ、でもお待たせしたらいけないと思って陽子を探したのにどこにもいないんだもん。」とは鈴の言葉だ。
「ごめん。じゃあ今すぐ行くね。」唐突過ぎる北の大国延の、台捕の訪問。一体何の用だろうと思いながら賞客殿へと向かった陽子の耳には祥瓊の言った「もう一人お客様がいるんだけど。」という言葉は聞こえていなかった。

 「遅くなりました。」と言って賞客殿に入った陽子はそこに茶菓子をほおばる延台捕を見つけ、苦笑した。「なにかあったんですか?突然のご訪問」
「いや別に、ただ遊びに来たんだ。」と、延の優秀な官達が聞いたら喜んでお仕置きを準備しそうな事を、さらりと言ってのけた。
「大丈夫なんですか。また怒られてしまいますよ。」と陽子は笑いかけ六太の向かいの椅子に座った。
そこへ新たに賞客殿に入ってくる者があった。その姿を見て陽子は驚き暫く会っていなかった恩人に満面の笑みを向けた。
「楽俊。久しぶりだな。」
「ん。陽子も元気そうで何よりだな。」と灰茶色のネズミこと楽俊は髭をそよがせた。
「慶もだんだん活気がでてきたじゃないか。陽子頑張ってたもんな。それに今年の10月には即位10年の式典をするんだろ?さっき官達がおしえてくれたぞ。」そう言いながら、ほたほたと陽子の隣の椅子にやってきて腰掛けた。
陽子は困った顔をして、「10年は早すぎると反対したんだけどな。」と呟いた。
「いいんじゃねーの。ここ最近慶は長く王が玉座に安定してなかったもんな。陽子が立派に国を治めてると示せるし、お祭りで国も活気付くしよ。」六太は新たな菓子に手を伸ばそうとしながら言った。陽子は菓子の入った皿を六太の方へ近づけた。
「いえ、延王と延台捕のおかげですよ。いつもさりげなく助けていただいて本当に感謝しているんですよ。」
「いや陽子の頑張りは大きいと思うぞ。今日延台捕と尭天の町を歩いていたんだけど皆嬉しそうに、景王の話をしてたんでおいらも嬉しくなったぞ。」と、楽俊が言うと六太はいたずらっぽい目をして、
「だからって気を抜くなよ。王ってもんは、民と言う名の玉を転がすのを手助けする役割なんだと思うんだ。玉はそれ自体の力でもきちんと転がるんだ、でも障害物や邪魔が入った時、そっと手を差し伸べて玉を守るのが王なんだと思うんだ。それをさぼれば玉はどっかに行っちゃうからな。」と言った。
「そうですね。私はまだその手の差し出し方がよくわかってないかもな。まだまだ勉強しなければ。」
 しばらく国について話していた3人だが、突然思い出したように六太が話し始めた。
「そういえば、慶の禁軍に李Uって奴いるだろ?」
 ふとあの店に入っていく李Uの姿を思い出した。
「はい、中軍の将軍のことですよね。結構真面目であまり目立たないんですけどね。公正な人柄で、兵たちにはとても信頼されているようですよ。ところで李Uがどうかしましたか?」
そう陽子が問うと、六太と楽俊は顔を見合わせた。何か言いにくそうにしていたがようやく楽俊が口を開いた。
「うん。その李U卿なんだけど、あまりいい噂を聞かないんだ。なんでも抵抗できない弱い者を手にかけるとかって・・・」
「しかも、李Uに連れて行かれて、ついに戻ってこなかった娘も結構いるみたいだぞ。」 
その瞬間陽子は、音を立てて椅子から立ち上がった。・・・・まさかっ・・・そういえば雪華の腕とかに痣があったような・・・。別段気にもとめていなかったが・・・。黒い蛇が頭をもたげるように陽子の中にするりと不安の二文字が滑り込んできた。
「陽子・・・大丈夫か?」陽子の予想外の驚きぶりに、心配そうに六太が顔を覗き込む。
「行かなきゃ。雪華の所に・・・」
「どうしたんだ陽子。もう夜だ、外出は危険だぞ。明日じゃだめなのか?」六太は、今にも飛び出していきそうな陽子の腕をつかみ、楽俊に景麒を呼んでくるよう指示した。
 楽俊に連れてこられた景麒は、主上の動転ぶりに驚きつつ、ふらつく陽子を支え、六太と楽俊に礼を言い賞客殿から陽子を連れ出し、外に控えていた虎嘯と共に陽子を正寝へと運んだ。

 牀に陽子を横たわらせると虎嘯に退室するように指示した。
「一体どうなされたんですか。」景麒はその深い色をした瞳で陽子を見下ろした。その脇では、鈴と祥瓊が忙しそうに動き回っていた。
「最近の陽子は働きすぎね。疲れが溜まっているのよ。」と祥瓊が言いながら、横になった陽子に気遣わしげな笑みを送った。
 そうじゃない、そうじゃないんだ。雪華に会わなければ・・・また私の指の先から大切な者がすり抜けて行ってしまう。しかし先ほど飲まされた薬湯が効き始め瞼が自然と落ちてくるのを抵抗する事ができなかった。

 一夜あけて、陽子は景麒に無理を言って休暇をもらった。冴え冴えとした顔を陽子に向け、何か考えたようだったが「冗祐はつけますからね。」と溜息交じりに言い、許可をだした。

 早く早く・・・・!まだ朝靄も明けぬ尭天に降り立ち、陽子は急いで雪華の元へと向かった。

 店につくと、一睨みをしていつものように裏口から入っていった。
そこには疲れた顔をした木蘭が水を汲んでいた。陽子を見て、その形相を見て驚きそして、呆れたように苦笑した。
「どうしたんだい、こんなに早くから。雪華はまだ寝てるよ。それにまだ客といるんじゃないのか。」乱れた髪を撫で付けながら木蘭は言った。興奮した様子の、陽子に向き直り「水でも飲んで落ち着きな。そんな怖い顔をしてたら雪華も怯えてしまうよ。いい男も台無しだね。」そう言うと、水の入った湯呑みを手渡した。
 陽子はそれを一気に飲み干してしまうと、少し冷静になりそばにあった椅子に座った。
そうだここに来たからといって何になる。李Uは客としてここに来てるんだ。おそらくその身分からいって、それ相応の扱いをされているのだろう。いくら王といえども臣下の私的な事に注意をすることはあまり良くない事だと、陽子は思っている。・・・・どうすればいいっ!!!
 ふと気づくと木蘭が近くに椅子を寄せて座り陽子を見ていた。
「何考えてるんだい。・・・あんたの事は雪華から色々と聞いてるよ。初めはまた、雪華を傷つける奴が来たのかと思ったけど。あの娘が、あんたの事を話す時の幸せそうな顔を見てるとね。何も言えなくなってしまうよ。今じゃ、あんたに感謝してるよ。」と言い、木蘭はからからと笑った。その言葉に黙っていると、木蘭は自分の頭を指差し言った。
「今日は頭隠してないんだね。そんなに綺麗なんだ、隠さなくてもいいじゃないか。」
「あっ・・・」陽子は慌てて頭に手をやった。そして腰紐に巻いてあった布を素早く頭にまいた。
その直後柱の影から李Uが店を出て行くのが見えた。後ろには雪華がついている。表の戸が閉まるのを見た陽子は立ち上がり、どうしたんだいと言う木蘭を無視し、一直線に雪華の元へ行った。突然の訪問者に途惑う雪華の腕を掴み、周囲の制止も無視し、強引に雪華の部屋へと押し込んだ。背後からは慌てる者達を宥める木蘭の声が聞こえた。
 
部屋に入った陽子は有無を言わさず雪華の袖をまくった。雪華の弱々しく細い腕にはきつく縛られた痕や、何か熱いものを押し当てられたような火傷の痕があった。その中にはまだつけられて間もないものもあり痛々しい。
 怒りに震える陽子を見て雪華は、腕を引き、傷を隠した。恐らく他の場所にも傷痕はあるのだろう。慌てたように言い繕う。
「あの・・・陽子。こんな事はいつもの事なのよ。もう慣れてしまったわ。」
「慣れる事なんて無いだろう!痛いものは痛いだろう!」
陽子の怒ったようなそれでいて悲しそうな瞳が耐えられず、雪華は目を逸らした。
「雪華・・・あなたをここから連れ出したい。」体の中に渦巻く、言い様の無い空気を吐き出すように言った。
「駄目よ。そんな・・・だってここの女将が許すはず無いわ。それに私の馴染みにはお偉いさんもいるし・・・。だからね、あなたがたまに来てくれるだけでいいのよ。それだけで私は救われるわ。」そういい終わると、部屋にはまるで大きな手に口を塞がれたような沈黙が降りた。
 何か考えている風の陽子だったが突然、雪華に笑いかけ、「今夜、客として来る。雪華を予約する。」と言い残して去って行った。

 金波宮へ急ぎ戻った陽子は楽俊を捕まえて、自分が仕事を終えるまで待つように言い、内殿へとむかった。突然戻ってきた主上にその場にいた景麒をはじめ皆呆気にとられていた。その面子をちらと見回すと、目的の人物を見つけた。
「浩瀚、忙しい所すまないがちょっと頼まれて欲しい事があるんだ。」
浩瀚は一度景麒の方に目を向けるが、仕方ないと言うように頷く景麒を見て、陽子のもとへ進み出た。
「いかがなさいましたか?この浩瀚でお役目が勤まるようでしたら何でもお申し付けください。」
 そう堅苦しく言う浩瀚に苦笑し、一歩近づいて耳打ちした。
「禁軍の中将軍、李Uについて調べて欲しい。特に私生活を。」と、それを聞いた浩瀚は一つ頷き「仰せのままに」と言い、その場から退出した。
「景麒、今朝はすまなかったな。で、すまないついでなんだが、ちょっと夜も出て行っていいかな?」懇願する陽子を一瞥すると
「いいですよ。しかし最低でもこの訴状だけでも目を通してもらいますからね。」と言い放ち、陽子の机に書類の山を築き上げた。うげっと言うと、仕方ないとその山に手をつけ始めた。

空が夜の勢力を増そうという時、ようやく仕事を終えた陽子は楽俊のもとへ急いだ。
「楽俊!頼みがあるんだ。」
怪訝そうな視線を目の前にいる一国の王に向け溜息をつき用件を聞き出した。恐らくとんでもない事を言い出すであろう事を、覚悟していたようだ。
「実は、人型になってついて来て欲しい所があるんだ。」
うーんと考え込みぽりぽりと頭を掻き、まあいいかと言い別室へと行った。

 人型になった楽俊は恥ずかしそうにしていたが、休む間も無く引っ張られ尭天へと連れて行かれた。
「なぁ陽子どこに行くんだ?」
「まあ、だまってついて来て。」ここだと言う陽子に言われ店構えを見て、驚愕した楽俊だが有無を言えないまま、なされるがままだった。
 陽子は、受け付けの様な所で「雪華を頼む」と言った。
店員は一瞬躊躇したが、何か連絡がいっていたのか、ああと言って従業員を呼び、雪華の所へ案内するように指示した。
 案内されながら、女の嬌声と男の笑い声の混ざり合う廊下を進んだ。
「なんだ楽俊はこういう所は初めてなのか?」
そわそわとついて来る恩人に、意地悪な視線を送ると、クツクツと笑った。それを見た楽俊は憮然とした様子で「おいらは陽子がこういう所に通ってるとは知らなかったぞ。」と言った。
苦笑すると陽子はふと真面目な顔をし、前にいる案内人に聞かれない様小声で「楽俊、私はここでは男として通ってるんだ。そこのところよろしく頼む。」その言葉を聞くと楽俊はますますげんなりとした。
案内人はある一室の前に立ち止まり障子戸を叩き、開け「雪華さん、お願いします。」と言い、陽子たちのほうに向き直り、どうぞと言い頭を下げた。
 陽子は中に入りいつもとは違う雰囲気の雪華に「こんばんは」と言いながら笑いかけた。
雪華のほうは、この様な仕事の格好で陽子と面と向かうのが嫌なのか、少し俯いたままだった。
 陽子が雪華の前に座り込むと、暫く2人は沈黙の中でお互いを見ていた。
その沈黙を破ったのは陽子の方だった。
「雪華、わたしはあなたの事が心配なんだ。だから、あの変な提案なんだけどきいてくれるかな?」
「提案ですか?」
「うん。楽俊入っておいで。」
 そう陽子に呼ばれると、それまで障子戸の向こうに控えていた、苦虫を噛み潰したような楽俊が姿を現した。雪華は何がなんだかわからず、途惑ったが優雅な身のこなしで楽俊に座るようにと勧めた。
「その提案を話す前に確かめておきたい事があるんだ。雪華正直に答えて欲しい。」
「わかりました。」その言葉を確認すると、陽子は真剣な眼差しで雪華を見据えた。
「雪華はここの仕事をこの先も続けていくつもりでいる?」
その質問に一瞬体を固まらせ、寂しそうな視線を陽子に送った。
「だってここしか私の居場所は無いんですもの。嫌な事は沢山有るけど生きていくには此処しかないんですよ。」
「そうか、では次の質問。もしも仙籍に入れるとしたら、雪華は入りたいか?」
その質問は、部屋に落雷が直撃したかのような衝撃をもたらした。楽俊は驚愕に目を見開き、軽々しく仙籍に入るなどと口にした陽子を睨んだ。その視線を横顔に受け陽子は、何かを言おうとする楽俊を、片手を上げ制した。
 雪華はあまりに意外な質問に対し、訝しげに陽子を見つめそっと目を閉じ、ゆっくりと瞼を開けた。その瞳は何者も寄せ付けない強固な意志が現れていた。
「いいえ。私は入りたいと思いません。」
「そう、なぜ?仙籍に入れば簡単な事では命を落とす事も無かろうに。」
「そうですね。でも私のように何も出来ない者が永遠の命を得てなんになりますか。きっと時間を持て余して腐ってしまうわ。私は今の人生を精一杯生きるだけで十分。」
「そう言うと思ったよ。」陽子が言うと呆気に取られていた楽俊は力が抜けたようにへたり込んだ。
「それでね本題の提案なんだけど、私は李Uから雪華を守りたいんだ。そのためにまず明日から1週間、雪華は誰も相手にして欲しくない。」
「でもそんなの女将さんが許すはずも無いわ。私は結構稼ぎが良いほうだから。」
「うん。ただとは言わない。後で雪華の1週間の売上を教えて欲しい。その1.5倍私が払う。」
「・・・な・・・あなたみたいな若い人が何故そんな大金を?」
陽子はその質問に、笑うだけで答えなかった。
「それに、お金は払ってもらっても1週間も何もせずにしていたら、おかしいと怪しまれてしまうんじゃないかしら。」
待ってましたとばかりに、笑うと陽子は楽俊の背中を叩きながら
「その為に楽俊を連れてきたんだ。提案したのはいいが私は仕事があってなかなか此処に来る事はできない。で、代わりにこの楽俊を話し相手にでもしてはぐらかして欲しい。」
「え?!おいらが?」今日何度目かの驚きにもう何の反論もする気力がなくなったのか、黙って陽子をねめつけた。
「いいだろう?どうせ1ヶ月ぐらい休暇を言い渡されたのではないか?」
見事に言い当てられて、休暇を言い渡した、かの国の王を恨めしく思う楽俊であった。
「わかったよ。1週間でいいんだな。」
「ありがとう。そういう訳だ。雪華この楽俊は信頼できる、大丈夫。」
そう言うと陽子は立ち上がり「今日はもう帰るよ。そのついでに此処の女将さんとも話をつけてくる。楽俊、先に行っておいてくれ。」
楽俊は肩を落としトボトボと退室した。
戸が閉まるのを確認すると陽子は雪華に向き直って傍らに寄った。
「大丈夫、安心して。」そう囁くと柔らかく微笑んだ。
そのとき不意に陽子の腕が引かれ、体勢を崩した。雪華は指を月光にさらされた緋色の髪に絡ませ、昼とは違う艶やかな笑みを向けた。そのまま陽子の唇は雪華のそれによって塞がれた。柔らかで甘美な刺激が全身を貫く。
遠くから他の客達の声が聞こえる。窓からは玻璃(ガラス)を通し月光が降り注ぐ。
柔らかな唇を離し、燃えるような瞳を陽子の双翠の瞳に注ぎ込み、静かに言い放った。
「花の花魁、たとえ身体は許しても唇は愛する人のもの。あなただけのものですよ。」
陽子は突然の出来事に途惑いつつ、今度は自ら雪華の唇を奪った。その不器用な口付けに雪華は満足げに溜息をつくと、自らの唇を陽子の首へと這わせしるしを付けた。
「意外と細い首ね。」と言われ、陽子は苦笑する。そして優しく体を離すと、ゆっくり立ち上がり部屋を後にした。

「遅かったじゃないか陽子。女将さんが、意外に話が分かる人で承諾してくれたぞ。」
「ありがとう。一応私からも話をしておく。」
 楽俊に動揺を悟られないようにと気勢を張るが意識が空を舞っているようでボーっとしてしまう。
「大丈夫か?陽子風邪でも引いたんじゃないのか?」
 心配そうに覗き込む楽俊の顔がまともに見れず俯いたまま、大丈夫とだけ言い女将さんの部屋の戸を叩いた。

金波宮に戻るともう夜が明けようとしていた。
「楽俊無理を言って申し訳ない。せっかくの休暇だったのに。」
「いいさ。休暇と言っても何もする事がなかったし。台捕に付き合って12国一周するのも大変だしな。」
「じゃあ楽俊はゆっくり休んでいてくれ。私は朝議に参加してくるから。」
そう言うと外殿へと駆けて行った。
「元気だなあ」という、六太の声に獣形であれば全身の毛を逆立てて驚いたであろう楽俊は声の主へと顔を向けた。

 朝議は滞りなくすみ、官達が散会した後涼しい顔をした浩瀚が陽子の前に出てきた。
「主上、例の事調査して参りましたが、少々気に掛かる事が・・・」
「・・・そうかでは内殿の方へ。おい景麒も一緒について来い。」
小さく溜息をつくと景麒は静かに従った。

内殿の最奥に設けられた積翠台につき、3人はそれぞれ椅子に腰掛けた。
「さすが浩瀚だな、こんなに早く報告が聞けるとは思わなかったぞ。」そう言う主上に、恐れ入りますと返し、早速報告へと入った。
「それで李Uなんですが、とても真面目で堅物と言ってもいいほどの人物です。
統率力と剣の腕を買われ達王の時代に、州候から今の地位に就いております。問題はここからです。」
ここで一旦口を休ませ用意されてあったお茶を含ませた。
「表向きはまったくの善人と言っても過言ではないでしょう。しかしその本性は獣のようです。何でもここ4,5年あたりから、幼い少女を暴行し殺戮を繰り返していたそうです。相当血を好む御仁らしい。」
「そうか、やはり私は人を見る目がまだまだ甘いな。そんな奴を見逃していたなんて・・・。しかし何故最近になってそんなことを・・・。」思い悩む陽子に頷きつつ、浩瀚は再び口を開いた。
「まだ、続きがあるのです・・・なんでも李Uめは、自宅に武器を溜め込んでいるようで、一部の者の間には中将軍に大逆の意有りとの噂がまことしやかに流れているそうです。しかしあの李Uの表の顔によって、噂は真実味を帯びずそれ故に大きくならなかったのでしょう。」
大逆と陽子が呟くと、積翠台に沈黙が降りた。
「大逆を目論むにはそれなりの理由があるでしょう。それはお分かりにはならないのですか?」
今まで黙っていた景麒が不安を露に質問した。
「それが全く解からないのです。」浩瀚は景麒の言葉に首を横に振った。
「そうか・・・浩瀚ありがとう。何か新しい事がわかったらまた報告を頼む。」
「はい、それと主上一つ御忠告申し上げてもよろしいでしょうか。」
浩瀚の静かな目が可笑しそうに笑っていた。景麒もなんだろうと浩瀚を見遣る。
「本日の朝議の際、官吏たちが嬉しそうに噂をしていましたよ。」
そう言うと浩瀚は自分の首筋を指で叩いた。
 何かついてるかなと同じ場所を触れてみると、景麒の白皙の顔が一瞬にして朱に染まった。
それを訝しげに見ると陽子ははっと思い出し、こちらも顔を染めた。
「お気をつけ下さい。しかし主上が気になさらなければ、見せつけても宜しいのですよ。」
「こっ・・・浩瀚殿っ!」人の悪い笑みを浮かべる浩瀚に景麒はあたふたと何かを言おうとしたがやんわりと目で制されて閉口する。
「では失礼致します。」
浩瀚の落ち着き払ったその言葉を合図に、景麒と浩瀚は立ち上がり陽子に一礼をし、それぞれの職務へと戻った。
一人残された陽子は、我に返って静かにそよぐ風に身をさらし、ここ数日のことに思いを馳せた。
私は女であるということを隠して雪華の心に触れてしまった。雪華は私の事を愛してくれているという。私はいったいどうなのだろうか。日本にいたときも、恋愛には疎かった、こちらに来ての10年は目まぐるしくて考えた事も無かった。雪華の事は大事に思う、守りたいとも、これが恋心とでもいうのだろうか。わからない・・・情けないな、自分の事もわからずにうじうじと悩んで、あの娘はどうだろう、あんなに自分の気持ちに正直ではないか。私にはそれをただ受け止めるだけしかできない、せめて残り僅かの命を穏やかに過ごして欲しい、そう思うのはおこがましいだろうか。
自嘲する王に春風がまとわりつき、紅の髪を弄ぶ。

 楽俊が雪華のもとへ通いだして3日目の事。その日李Uが店にやってきた。もちろん雪華を指名するが、すでに客をとっていると店側は言う。軍人特有の厳しい顔に疑惑の念を浮かべ、いつものように無理やり先客を帰せと言う。しかしその要望に、なぜか頑として断る。訝しげに一睨みし、李Uは店員を押しのけ雪華の間の前まで近づきそっと中の様子を窺う。
なかでは見知らぬ青年が自分の雪華と、仲良さげにしているではないか。濃紺の瞳には嫉妬という名の炎を滾らせ、薄い唇を歪めた。
 李Uは中に乱入せずに店の者に「あれは何者か。」と問うた。その覇気に気圧された店員は正直に楽俊の身元を明かしてしまった。ここでこの店員を責めるというのは酷という物であろう。陽子の事を漏らさずにいた事が奇跡である。
「楽俊」と低く呟くと、李Uは不気味な笑みを浮かべ店を後にした。
 自宅に戻った李Uは部下を呼びつけ「楽俊」について調べるよう申し付けた。

 優秀な部下は夜が明けた時には一通りの情報を携えて、李Uに報告をした。
「なんでも延の官吏のようで、王宮内でも王や延台捕とも親密だそうです。」
その報告を聞くと李Uの顔が醜く歪んだ。「延か・・・まずいな。延国主従は我が国の王とも親密だ。その者からの言で私の事があの小娘の耳に入ることでもあったなら、ただでは済まないだろう。雪華の傷を見ればその者も問い質すであろう。そのまえに・・・」と言葉には出さず、しかも不遜にも自分の国の王をけなした。
「たしか明日は雪華が外出する日・・・ククク、また一人。」
 
 その日の夜、雪華の所から戻ってきた楽俊が陽子の所へやってきた。
「なぁ陽子明日は外に出られるか?」
書類の山から目を離し楽俊へと向き合った陽子は、どうかなと、共に政務に追われる景麒に問い掛けた。
「そうですね朝議の内容にもよるとは思いますが、特に大きな問題は無いと思われますので。」
「そうか、一応出られそうだが、どうかしたのか?」
「うん、明日雪華が外出できる日らしくて。それで陽子と一緒に散歩がしたいみたいなんだ。」
「わかった。・・・景麒そう渋い顔をするな、ちゃんと今日の仕事は片付けていくよ。」
最近は隣国の主従に影響されていると苦悩する景麒であった。
「ちゃんと冗祐はつけてもらいますからね。」と言う景麒が可愛らしくて陽子は失笑する。
気に食わない景麒は憮然とし深い溜息をついた。

 その日は雲ひとつ無い快晴だった。
尭天に降りる前、景麒は用心のためにと班渠も陽子に同行させた。
「大げさだな。いつもこんなに心配しないだろう。」
意地悪っぽい視線を景麒に向けた。
「いえ、主上の事はいつも心に掛けております。しかし今日はなんとなく嫌な感じがするのです。本当ならば自分が傍に付いて差し上げられれば良いのですが。」無表情のままに言う景麒に向かって、陽子は手をひらひらと振り笑った。
「大丈夫、私はそんなにやわではないよ。」
そう言い残すと、景麒の主上は鮮やかな紅の髪を翻し出て行ってしまった。
 主の姿が点となる頃、それを見守っていた景麒は傍らに控えていた大僕を呼びつけた。
「虎嘯。」
「なんでしょう、台捕。」
「主上の後を追い、護衛を頼む。くれぐれも気づかれぬように。」
「かしこまりました。」一礼し虎嘯は内心苦笑した。

「わざわざ来てくれて嬉しいわ。」
雪華は陽子の隣で歩きながら満面の笑みを浮かべた。
「いえいえ、姫の為ならなんなりと。」
「あら、嬉しいわ。そういえば今日も頭を隠しているのね。」
「ああ、赤い髪は珍しいだろ。目立つのが嫌なんだ。」
「そうなの、あっ陽子見て。」
なに?と陽子が覗き込むと、そこは装飾品の店のようだった。雪華はその中にある赤い玻璃球のついた簪を見ていた。
「綺麗ねぇ。」
「おっ、お嬢ちゃんいい物に目をつけたね。それは範で作られた一級品だよ。」店主はここぞとばかりに弁舌を振るう。でも、と言い簪を返しそうになる雪華を見た店主は陽子に目を向け、
「お嬢ちゃん良い人を連れているね。兄ちゃんどうだい今日の記念に。」
店主の言葉に苦笑すると陽子は「いくら?」と言った。
雪華は、はっとして陽子に振り向いた。店主は値を書いた紙を陽子に見せる。
「いいだろう。」と言い、陽子はお金を払って簪を受け取った。

店を後にした陽子は、はいと簪を雪華の髪につけてやった。
雪華はほんのりと頬を染め、はにかみながら「ありがと」と言った。
2人はそのまま広路を行き店をひやかしていた。そのとき耳元に冗祐の緊張した声がした。
"主上、後をつけられています。"
陽子は雪華に悟られないよう臨戦体制にはいり、ささやいた。
「何人いる」
"おそらく、4〜5人"頷く陽子は雪華の腕を掴んだ。
「雪華、いい?落ち着いて聞いてね。」陽子の言葉にきょとんとした顔を向け、頷く。
「今私たちは人につけられている。きっと李Uの手の者と思われる。」
それを聞くと緊張した様に俯く。ちゃらと簪が揺れる。
「私はあなたを守るから。大丈夫、だからこの手を離さないで。」
陽子は雪華が頷くのを見ると、素早く小道へと入った。そのまま走り抜けどこかの河原に出た。

 息を弾ませながら、雪華は不安そうに陽子にしがみ付いた。
「あ、あの御免なさい。私のせいであなたを危険な目に合わせてしまって。」
「いえ、私は危険な目がどうやら好きなようです。」そう言って片目をつむって見せた。

その時、陽子たちが来たほうから5人の人相の悪い男たちがやって来た。明らかな殺意を持って。
「その子を渡してもらいたい。」5人の中でも最も背が低くまるで狸の様な顔をした男が厭らしく笑いながら言った。
「どうやら最近の狸は人の言葉を話すらしいな。」陽子は明らかに相手を挑発した。
「なっ、くそっなめやがって」顔を赤黒く変色させ、その狸男がやれっと言うと、他の4人はそれぞれに武器をかまえ、陽子に襲い掛かった。瞬時に隠し持っていた剣をかまえ陽子は笑った。

 剣光が交錯し陽子の右から近づいた男は、柄で思いっきり鼻の上をしたたかに討たれ鼻血を撒き散らし倒れこんだ。目にも止まらぬ速さであった。その後も1人2人と陽子の見事な剣技の前に倒れた。残った狸男は、10合ほど打ち合った後陽子が膝蹴りで急所を尽かれ、どうと倒れた。
「おい、お前の飼い主はどうした。」陽子は剣先で狸男の頬をひたひたと叩きながら聞いた。
そのとき不意に背後から殺気を感じその場から飛び離れた。
 陽子のいた所には、ぎらりと太陽の光を反射している長大な剣が突き刺さっていた。
じりじりと雪華を自分の背後に隠すような配置を取りつつ相手を窺った。
「ほう、私の剣を避けるとは、小僧たいしたもんだな。」
その声に陽子は覚えがあった。禁軍、中将軍李U。
「ようやく大将のお出ましか。」ふっと陽子は笑うと班渠の気配が消えているのに気が付いたが李Uに神経を集中させた。
「小僧、粋がるのもよせ。所詮私にはかなうまいよ。」
「そうか、やってみないとわからないのではないか?」
李Uはその長大な剣をかまえなおし、陽子に向き合った。
「小僧、名はなんと言う。」
「名乗るような者ではない。」
くっと笑い、李Uが「出て来い。」というと、どこからともなく30人ほどの武人らしき人々が現れた。
 陽子の背には冷たい汗が流れ落ちた。この人数を相手に雪華を守り抜けるだろうか。
「どうだ?今ならその娘を渡せば、何も無かった事にしてやる。それともこの人数からお姫様を守りきれるかな?」
 どうしよう、どうすればいい・・・陽子の翠の目は焦りの色を移していた。

「坊主、こまっているのか?」
陽子の左から声がした。・・・・この声は虎嘯。その虎嘯を仰ぎ見ると、披巾で顔を隠していた。
思わず苦笑し、景麒の仕業だなとおかしくなる。
突然の乱入者に途惑っている李U軍を尻目に、陽子は「ああ、困っている」と言った。
 2人が挨拶を交わし終えると、戦いが始まった。
河原はさながら、小さな戦場となった。陽子と虎嘯は1合、2合と剣をふるう度、敵をなぎ倒していった。剣と剣が交じり合い火花をちらす。
陽子は横から襲ってくる相手の腕に剣を刺しつつ、後ろの敵には強力な蹴りを見舞った。虎嘯も、大刀を振り右に左にと敵をなぎ払う。だが、いかにこの2人といえど屈強な男30人を相手にするのはきつかった。息を荒げ2人はお互いの無事を確認するように背を合わせた。
しかしその時虎嘯が苦しげにうめいた。
「どうした・・・・傷か?」ちらと横目で見ると虎嘯の全身には細かな傷があった。だがそれは陽子も同じこと。不思議に思っていると、可笑しそうに笑う李Uの声がした。
「毒だよ。そいつも運の無い奴だな。」
 次の瞬間李Uが陽子に切りかかった。間一髪のところかわしたが陽子は膝をついてしまう。
虎嘯より遅れて毒が回ってきたようだ。吐き気がこみ上げてくる。全身から汗が吹き出る。
「殺す前にその生意気な顔を拝ませてもらおうか。」そう言うと、陽子の頭を隠していた布を剣先ではじき飛ばした。抵抗のできない陽子はその顔を白日にさらすこととなった。
 緋の色をした髪が翻る。怒りに燃える双翠の瞳で李Uを睨みつける。
この顔・・・どこかで。李Uは記憶を辿った。
「まさか・・・」そう呟いたときに、李Uの目の前に暗赤色の豹が突然現れた。
「驃騎っ!」陽子は、はっとしてその妖魔の主を探した。そして己の半身を見つける。
次に雪華を見ると、獣形をした楽俊と六太の使令である三尾の狼、悧角が介抱していた。
「そうか・・・ハハハちょうど良い、少し早まったがこの場でやってしまおう。」
李Uの顔に残忍な鬼の形相が表れた。長大な剣を振り翳し狂ったように笑った。刃に光が反射し煌く。
振り下ろされた剣はそのまま陽子の首を切り落とすはずだった。
 陽子は全身の力を振り絞ってその暫撃をかわした。
「李U、なぜ私を殺そうとするのだ。それなりに理由と言うものがあろう。」
「何故かだと、私は達王より実力を買われて今の地位を得た。しかしどうだ、10年前貴様と共に現れた、半獣ごときが禁軍に配属されしかもそいつを重要視する。こんな獣を使うとはやはり女王はこの国をだめにするのだ。」
 半獣と卑しいものの様に言う李Uに怒りを覚えたが、もうすでに顔を上げる事もままならなくなっていた。
「ここで貴様らを切れば、血を流しそこに居られる台捕も無事にとはいくまい。2代にわたって女王を選んだことを後悔するが良かろう。」
静かに剣を振り上げた。
 陽子は悔しさに体を振るわせた。死が怖くないわけではない。しかしその震えは恐怖から来るものではなかった。自分のせいでまた周りを傷つけてしまった。謂れの無い差別、半獣だから、女王だから、そんなものを取り除こうと努力してきたが、今その力の前に屈しようとしている。
 しかし、剣は振り下ろされなかった。目を開くと李Uの太い首に矢が突き刺さっている。土手へと目をやると、桓?が弓を構えていた。
李Uは憎々しげに土手を一睨みし、自分を貫いている矢を掴むと一気に引き抜いた。
その瞬間鮮紅色の雨が晴れ渡る空から降り注いだ。
「わたしは・・・女王なんぞ認めんぞ。王に相応しいのはこの・・・私だ・・・」
最後のほうは溺れた時のようなゴボゴボという音しか聞こえなかった。しかし仙である李Uは事切れていなかった。陽子は哀しそうな、それでいて苦しそうな表情で水禺刀をかまえ一撃のもとに李Uの首を切り落とし、深い翠色をした瞳をその首に向けた。
禁軍、中将軍李Uの壮絶な最期であった。

 陽子は驃騎に掴まりながら何とか立ち上がった。その場に残された10数名の李U軍の残党は呆気に取られていた。
「そなたたちは誰の許しを得て頭を上げているのだ。」
陽子の傍に来た景麒は冷たく言い放った。
 金色の髪が目の端に映る。
その両手のこぶしは強く握られていた。
ダメだ景麒、お前はこんな所にいてはいけないっ。
金の髪をそよがせ、その能面のような顔を、さらに表情を消していた。
「我が国の禁軍に所属されていながら、自らの王の顔を忘れたとでも言うのですか。」
その声にもはや顔を上げていられる者はいなかった。

 その後、桓?をはじめとする禁軍左軍によって、生き残った兵を捕らえさせ、死んでしまった者の埋葬などの事後処理は、済まされた。

 ある程度の人目が無くなると、景麒は今にも消えてしまいそうなほど蒼白の顔をおさえ、よろめいた。その体を陽子は優しく支える。
「ですから、無茶をなさいますなと、あれほど申し上げましたのに・・・」
「うん。本当に悪かった。すまない、ご免・・・・ごめんね。」思わず緊張の糸が切れた陽子は普通の少女のような言葉を使っていた。そんな主上を見て景麒は苦しそうに歪めた顔を緩め微笑んだ。
 
「景王・・・?」
静かな声がした。雪華はひどく驚き怯えているようにも見えた。
陽子は何か言おうとした。しかし先ほどの毒のせいで何も言えずその場に倒れてしまった。
周りは騒然とし、すばやく出立の準備がされた。虎嘯、景麒、陽子の3人をそれぞれ騎獣に乗せた。楽俊は雪華の手をとり「ついて来てくれるか?」と言った。
恐る恐る頷く雪華をみると楽俊は借りてきた?虞に雪華を乗せ、自らも背にまたがった。

 陽子は目を開けると見慣れた、正寝の天井を見た。・・・助かったのか。体を起こそうとすると、体のあちこちが軋んだ。ふと胸に目をやると慶国の宝重「碧双珠」が首から下がっていた。
その時正寝の戸が開き鈴と祥瓊が入ってきた。起き上がっている陽子を見ると2人とも涙を浮かべながら、口々に喜びを表した。
「もう、心配させるんだから。」祥瓊は涙をぬぐいながら呟いた。
「本当にすまなかったと思っている。」と陽子は言った。
「じゃあ、私は台捕や皆に報告してくるわね。」
「景麒はもう大丈夫なのか?」
「うん。陽子ったらあれから10日も寝ていたんだから。」鈴は言った。
「台捕は3日ぐらいで目を覚まされたのよ。虎嘯も同じくらいかな。」と祥瓊は言いながら、外へ出て行った。鈴は小さな手で陽子の手を掴み離そうとしなかった。それに気づき陽子は空いているほうの手で鈴の頭を優しくなでた。

 それからすぐに景麒と浩瀚、楽俊がやってきて、それぞれに陽子の回復を喜ぶ言葉を述べた。
景麒は言葉の端にちくりと小言を織り交ぜながら、浩瀚は遠まわしに陽子の行動に灸をすえ、楽俊はもう少し直接的に文句を言った。
「私は起きたばかりなのに、叱られてしまうのか・・・。」と苦笑した。
景麒と浩瀚は他の官達に報せる為退出し鈴も一緒に出て行った。
残された楽俊は近くにあった椅子に座った。
「延台捕は陽子が倒れてからすぐに延に戻られたぞ。」
「そう。あとで六太君にもお礼を言わなくては。」陽子は悧角を思い出し、静かに言った。
「雪華だけどな、今客殿の淹久閣に泊まってもらってるぞ。」
雪華。と呟くと陽子は黙ってしまった。
「大丈夫だ。雪華は祥瓊と鈴が世話をしてるから。」
その言葉にも頷くだけだった。

 その夜、もう皆が寝静まった頃、陽子は正寝を抜け出した。春が過ぎ夏の気配がする頃だが、ひんやりとする夜であった。
淹久閣の前まで来る。中から僅かに光がもれていた。まだ雪華は起きているのだろうか。まだ体の節々が悲鳴をあげるがゆっくりと腕を上げた。
戸を叩くと、中から一瞬の間を置いて「はい」と声がする。
陽子は何も言わず戸を開けた。
雪華は陽子を見るといつものように微笑みかけた。
「もしよかったら、ついて来てくれないか?」
「はい。」雪華はふわりと陽子の傍に近づいた。

2人は黙ったまま後宮へと向かった。
「ここね、私が前散歩して見つけたんだ。」
そこは白い花が一面に咲き誇る野原の様だった。
綺麗ね、と言うと雪華は座り込んだ。その隣に陽子も静かに座った。
「雪華、ごめんね。私騙すつもりじゃなかったんだ。」
「私、騙されたとは思ってないわ。」雪華は自分の足元を見つめながら言った。
「だって、これは私が勝手に早とちりしてしまっただけだもの。」
陽子は黙ってその月に照らされる雪華の横顔を見ていた。
「雪華はこれからどうするの?」
「そうね10日もお店を空けてしまったわ。女将さん許してくれるかしら。」
「もし雪華がよければ孤児院で子供たちの面倒を見てくれないか。」
雪華はゆっくりと陽子の顔を見上げた。
「孤児院・・・?」
「うん。妖魔や災害で親がいなくなってしまって、身寄りのなくなった幼い子達を一時的に保護する施設を作ったんだ。そこで雪華にその子達の世話をしてもらいたいんだ。」
「子供達の世話・・・」
そのまま考え込むように夜空を仰ぎ見た。涼やかな風が雪華の髪を凪いでいく。
「いいよ。私でできるなら。」雪華は笑った。
「ありがとう。」
すると静かに雪華が陽子の手を掴んだ。
「私に生きる意味をくれて、ありがとう。」
そう言うと雪華は陽子の唇を自分の唇で塞いだ。
「陽子を愛してるわ。男とか女とか関係ないわ。私は人生の中で一番陽子を愛してる。」
そう言うともう一度唇を重ねた。勢いで2人は花の中に倒れてしまった。
密やかに笑いあい。もう一度接吻をした。お互いを確かめ合うように。
柔らかな風が辺りを包み、草花のさわさわという音のほかには、2人の静かな笑い声しか聞こえない。空からは月の光が降り注ぎ、星達が2人を見守るように瞬いていた。

 翌朝、陽子は朝議に顔を見せた。心配を掛けた事を詫び、李Uの後の人事を任せると言った。
官たちは王のこの度の行動に様々な憶測を投げかけたが、陽子は明るく笑いかけ
「私はまだ倒れない。この慶と言う国を建て直すためにしていきたいことが沢山あるんだ。
皆私が女王で、海客で、子供で頼りないと思うだろうが、景麒は私を王として選んだ。」
そこで言葉を一旦とぎる。自信に満ちた翠の瞳を輝かせ不敵な顔をした。
「私は約束すする。民達が自分が慶の民である事を誇りに思える国に、慶をする事を。」
高らかに宣言すると、場内にいた官らは歓声と共に割れんばかりの拍手をした。
陽子は一息つくと景麒に向かって微笑んだ。景麒は表情を隠して、陽子を見つめる。
そんな2人を見て浩瀚は満足そうに微笑んだ。

 その日、雪華は慶を離れる楽俊と共に金波宮を後にしようとしていた。
禁門には2人を見送るために景麒、浩瀚それに祥瓊、鈴が集まっていた。
「じゃあ、楽俊、雪華を頼む。もう連絡はいっていると思うがこの書簡を孤児院の人に渡してくれるか?それとこっちは六太君にお詫びの書簡とお菓子。」陽子は楽俊にその書簡と菓子の入った箱を手渡した。
「ああ。いいぞ。じゃあ雪華行くか?」
「はい。景王も・・・陽子も、元気でね。」
雪華はあの春の光のような柔らかい笑顔をつくった。
そして悪戯っぽく笑うと陽子の首に腕を絡ませ接吻をした。
その場にいた全員が硬直した。
あわてて楽俊は書簡を落としそうになったほどだ。

 2人は?虞に乗り込み出発をした。どんどん小さくなり雪華の簪がきらりと光るともう見えなくなってしまった。
陽子はずっとその後を見守っていった。
景麒は後ろを振り向き頷き、他の3人を下がらせた。
景麒が近づくのも気が付かないほど陽子は放心していた。
「主上・・・?」陽子の肩は小刻みに震えていた。
おそらく2度とはあの少女に会う事ができないのだとわかっている様だった。
景麒はそっと陽子を抱きしめた。景麒のあまりにも意外な行動に驚き涙に濡れた顔をむけた。瞬きをするとまた一本涙が零れる。陽子は景麒に抱きつき顔をその胸に埋めた。
「以外だな、おまえがこんな事をしてくれるなんて。」
「麒麟をなんだと思っているのですか。慈悲の生き物ですよ。ですからしかたなく・・・」
その言葉がおかしくて陽子は、言った景麒がしているだろう途惑ったような表情を想像してもう一度笑った。
「何がおかしいのですか?」
訝しげに言う景麒の言葉には答えず黙った。


 それから季節が夏に変わり、そして秋へと移ろいつつあった。金波宮では女王の即位10年の式典の準備に追われていた。そんなある日一通の書簡と小さな木箱が陽子に送られてきた。
書簡を開き目を通した。それは雪華の死を伝えるものだった。孤児院の管理者は雪華はよく働き子供たちにも大変慕われていてとても残念だと、そう綴っていた。
陽子は雪華の死を予期していたように頷きながら木箱を開けた。中からはあのときの簪が入っていた。そして一緒に小さな紙があった。それを開くと字を習った事も無い雪華が一生懸命に綴った文字が並んでいた。
"ありがとう。とてもしあわせでした。たまにはおもいだしてください。あなたのこころのなかでいきつづけていたい。さようなら。  せっか"


 10月の式典では豪華に着飾った女王の緋色の髪に赤い簪が揺れていた。