十三夜


 時折吹く夜風が、かすかに潮の香りを運んでくる。
「もう少しで満月ですね」
 足場の悪さをものともせずに立ち上がって、陽子は空を仰いだ。
 電気のないこの世界に、月星の光を遮るものは何もない。白い月の光とすくえるような星の原が、雲ひとつない天蓋に広がっている。
「陽子も物好きな奴だな。こんな所につきあうとは」
 傍らで半ば寝そべって杯を口へ運んでいた延王が笑みをこぼした。
 ふたりがいるのは彼の私室の上。つまりは延国の王宮、玄英宮の中でも最も高く奥にある一室の屋根の甍の上だ。女官などが見たら卒倒しかねないそこへ散歩に誘ったのは、もちろん部屋の主である延王の方だった。
 その時、陽子は玄英宮での最初の夜の時のように、雲海を見下ろすテラスにいた。
 ようやく偽王軍を一掃し、長く居候した玄英宮を出る時が来た。明日にはここを発ち、金波宮へ移らねばならない。そして金波宮へ入れば、…それからが、陽子の真の始まりだ。
 不意に現れた延の誘いを受けたのは、そんな、胸の内にいまだ深く溜まる不安をまぎらわせたかったのかもしれない。
 誘った当人は酒が入っているのであろう瓶を腰にくくりつけ、杯を片手に、立派な酒飲みの姿勢だ。陽子もすすめられたが、最初の一杯だけを受けて後は辞した。それからは、もっぱら無言で空を仰いでいる。
「陽子は星が好きか?」
 ふと、延が尋ねた。いいえ、と陽子は首を振る。
「蓬莱では滅多に夜に外に出ることはありませんでしたし、こちらでも、あまり…」
 闇を映して暗く逆巻く海に落ちる白い月影。絶望に満ちて見上げた星空。
 こと、こちらの月星に関して、陽子に良い思い出はない。
「でも」
 陽子は再び夜空を仰いだ。視界に広がる光の群れ。
「今夜の空は綺麗です…とても。不思議ですね」
「それは、陽子の心持ちが落ち着いているからだろう」
「そんな…」
 寝そべる延の傍らに恐る恐る腰を下ろして、陽子は延の視線から目をそらした。
「…落ち着いてなんかいません」
 落ち着けるはずもない。明日からの事を考えれば。
 自分は国の事を何も知らないのだ。そんな国王が許されるものだろうか。
 空から見た、荒廃した景国の様相。あれを、この雁のような、緑の波で埋められる時が、はたして本当に来るのか。来させられるのか…。
「そう煮詰まるな、陽子。今から悩んでも何が解決するわけでもないぞ」
「…延王」
「気楽に行け。それでどうにもならなくなったら俺を呼べ。力になる」
「…ありがとうございます」
 この人は、重大事をさらりと言ってのける。そしてそれが言葉に違い無く行動に移されることを、今の陽子は知っている。
 軍の采配など少しも判らない陽子の代わりに、自ら前線に立って傍らにいてくれた。
 玄英宮での、思えば不自然な居候生活の中で、それほど気兼ねをせずに過ごせたのは、宮の主自らが、暇を見つけて顔を覗かせてくれたからではなかったか。
 …目の奥が、熱くなる。
「お世話になってばかりで、すみません…」
 いつか、この人の誇りになりたい。この王を支えたとはさすが延王と、世の人に言わせたい。
 望むには、あまりに大それた望みだけれども。
「気にするな。…そうだ、陽子」
 空を仰いでいた延が、何かを思いだしたように振り返った。
「俺を称号で呼ぶ必要はないぞ」
「…え? でも」
「尚隆でいい。音でも訓でも呼びやすい方で構わん」
「そんなこと…できません!」
 いったい何を言い出すのだ、この王は。
「何故だ? 俺とて陽子を呼び捨てにしているぞ。不公平だろう」
「それとこれでは話が違います!」
「固いな。まったく、景麒も似合いの王を選んだものだな。妬けることだ」
「何の話ですか!」
 まったくもう、と顔を赤らめてつぶやく少女を、延は微笑を浮かべて見つめた。
 偽王との戦いの間、傍らで剣をふるっていた炎のような女王とは、まるで別人のようだ。
  だが、ただ一つ、その瞳だけが変わらない。悩む時も戦う時も、変わらずに真っ直ぐ前へ向かう瞳。ちょうど今の季節に下界を埋めている、太陽を映して輝く夏の深い緑。
 その光が、延の中の何かを照らす。
 何を忘れたのか、それすらも忘れてしまったものを思い出す前兆に、それは似ている。
 それが何なのか。やわらかな緑の光に暖められて、何が目覚めるのか。
「まあ、いいか」
 判るべき事なら、いずれその時が来るだろう…。

 月は白く輝いている。

                            

<了>