I Stand Alone, But Stay With Me?


        
 彼の人は一人、そこにいた。
 空に満ちる海。風に乗って潮の香りが微かに陽子の髪をなぶる。
 風に流されたその深紅の髪を片手で押さえながら彼女はその背中に声を掛けようとして一瞬戸惑う。露台の手すりに凭れるようにして物思いに耽っている風情のその後ろ姿にはいつものような気安さがうかがえずにいたからかもしれない。
 けれど、何となくその場を立ち去ることが出来ず一歩足を踏み出す。心持ちひやりとした空気が、吹き付ける風となって陽子の全身を包み込む。
 何気ない風を装うのはそれなりの決心がいる。
 息をつめて、吐いて。どんな言葉を掛ければいいのか思いを巡らせながら陽子はもう一歩足を踏み出した。が、その瞬間に自嘲めいた笑みがこみ上げる。
(五百年もの長きに渡って国を支えてきた方だ。私などが差し出がましく口を出せば小賢しいとお思いになるに違いない)
 その考えは意外とすんなり彼女の内に滑り込んで、踏み出した足をさえ引き返すに足るだけの説得力を持っていた。胸に微かに感じる痛みには無理矢理目をつぶればよい。ここで、
(ここで、この方に人の情緒が解らぬ奴よと思われるくらいならこれ位の痛みなど・・)
 かみしめた唇。そうすることで溢れそうな思いをせき止めようというのか、彼女はあとほんの三歩ほど歩を進めればたどり着くその背中から目を伏せて身を転じようとした。
「どうした」
 彼女がそうした逡巡の後に立ち去る、そのことがあらかじめ解っていたようなタイミングで投げつけられた声が陽子の足を止める。駄目だ、と思う。
(この人には勝てない・・)
 奇妙に心地よい敗北感が陽子の口角を笑みの形に引き上げた。軽く首を左右に振って延の立つその隣へと立った。
「月が・・・」
 言いかけた言葉はそのまま続くことがなかった。
「あぁ」
 それだけで何となく満たされた気になる。
 風が満ちる。月がいよいよ中天に昇ろうかという頃合いを見計らったかのごとく吹き付ける風は空に掛かっていた薄雲さえもかき消して・・・そこには月と海と、ただ二人だけだった。
 落ちた沈黙は気まずい物ではない。ただ黙ってそこにいればいいのだと、言葉も温もりも今はなくていい。
「瀬戸内の海を思い出す」
 ポツンと呟いた延の言葉はいつもの「延王」のそれではなく「小松尚隆」としての言葉なのだろう。
 陽子は波間を照らす月の光を眺める振りをしつつ傍らに立つ人の横顔をのぞき見た。その視線に気づいた延はいたずらっぽい笑みを投げかけ、そういえば、と言葉を重ねる。
「松伯と少々話をさせてもらった」
 ぎくりと、馬鹿正直な反応をしてしまった自分がうらめしい。チラリとねめ上げた延国王はそれでもやっぱり口元に意地の悪い笑みをたたえて陽子を見ていた。そして、
「随分な活躍だったらしいな」
 続いた言葉に愕然とする。
 松伯も意地が悪い・・・件の話は内密にと触れて置いたというのに・・
 そう思って息を吐いたのを どう思ったのか延は快活に笑って陽子の頭に大きな手の平を置いた。クシャリとかき回す手。
「良い王になりそうだ、と仰っておられた」
 頭一つ高い位置から告げられた言葉に胸がじわりと熱くなるのを感じた。
「有り難うございます」
 頭を下げた陽子を見やってもう一度笑う延に陽子は訝しげに首を傾げる。
「別に俺が言ったわけではないんだが、一国の王にそう簡単に頭を下げられると弱る」
「松伯は滅多にそういうことを仰る方ではないので・・しかも延王がわざわざそう仰って下さった事が今の私にはありがたいのです」
 生真面目に答える陽子を細めた目で眺めやり、ふむと頷く。
「そこまで感謝されると俺も心苦しいな」
 その言葉が眼前にせまって唇に何かが掠めていく感触。何が、と思う間があればこそ。気が付いたときには延王は満足げに陽子を見やり、悪びれもせず言った。
「これで帳消しとするか」

                                     

        

<了>