春分点



「こう、ですか?」
 そう言って、陽子は宝刀の水禺刀を大きく振りかざしてみせる。
 金波宮の閑散とした中庭に、少女の声はよく響いた。
「――いや、違う。そうじゃない陽子。もっと握りは柔らかく、弾力的に動けるように、だ。もう一度。」
 呼吸を整えながら頷く。
 延王の言葉を反芻しながら、もう一度演武を繰り返す。
 立剣で前方、次いで後方を刺し、同時に剣指を前に突き出す。一連の動作が緩急をつけて滑らかに行われる。動きに合わせて揺れる髪が紅く彩りを添えた。
 何時の頃からか、延王は暇を見つけては陽子に剣の手ほどきをするようになっていた。十二国一の剣客を指南役に持ち、生来の生真面目さも手伝ってか、陽子の剣の腕は最近めきめき上達している。
 剣を巧みに扱いながら、陽子は何時になく真剣な面持ちで見詰めてくる延王を、目の端に捉えた。
 肌に痛いほどの鋭い覇気。
 こういうときの延王は、実はかなり怖い。
 日頃気付かないのは、延王の洒脱な態度が柔らかな印象を与える為であろう。
 それにしても、と陽子は思う。
 ――こんなにじっと見詰められては、動きにくくてしょうがない。
 そう思ってから、陽子は自分で自分の考えに苦笑する。動きを見ずに指南役など出来る訳がない。我ながら思考が矛盾している。
 しかし、延王に見られていると思うと、どういうわけか頬が火照った。動きもぎこちなくなり、集中力も続かない。以前はこんなことなどなかったのに。
 ――どうなってしまったんだ、わたしは。
「――陽子。」
 突然の鋭い声に、驚いて動きを止める。
 振り返った先で、延王の険しい瞳とぶつかった。
 ――しまった。
 今更ながら、自分の迂闊さに気付く。
 いま、自分は、何を考えながら剣を振るっていた?
「余計なことを考えながら身に付けられるほど、剣はたやすいものではない。」
 突き放すような言い方だった。
「何を考えていたかは知らんが、そちらの方が気になるようなら、稽古などやめてしまえ。それで怪我をされても、俺も迷惑だ。」
 刺すような延王の視線に身が竦んだ。思わず唇を噛む。
 かたかたと震えだす手を、柄を握ることでなんとかこらえる。
 どうしよう。軽蔑されてしまったろうか。
 そう思った途端、目の奥が熱くなった。
 いやだ。涙なんか見せたらもっと嫌われてしまう。
 反射的に陽子は顔を伏せる。
 延王から嫌われてしまうことは、酷く陽子を切ない気持ちにさせた。
「申し訳、ありません。――少し、頭を冷やして、きます。」
 やっとそれだけ口にして、陽子は延王に背を向けた。嗚咽が漏れそうになって口を押さえる。早くこの場を去りたい一心で、正堂へと駆け出した。
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 庭に面した正堂へと消えていく陽子の後ろ姿を、延王は陰鬱な気分で見送った。
 追いかけようとして、やめる。
 かわりに、馬酔木の茂る、その向こう、石垣に向けて鋭い一瞥を投げかけた。
「そろそろ出てきてはどうだ、景麒。」
「――気付いておいででしたか。」
 半ば呆れたような表情で景麒が顔を出す。紫の瞳に非難の色をたたえていた。
「少し、厳し過ぎるようにお見受け致しましたが。」
「否定はしないさ。」
 苦い表情で延が笑う。
 その表情を、少し意外な気持ちで景麒は見詰めた。予想していた反応と、違う。
 何故か嫌な予感がした。大きくかぶりを振って、それを打ち払う。
「――まあ、でも、良い傾向かもしれませんね。」
 そう言って、己が主の走り去った先へ視線を向けた。
「主上はうら若い乙女です。剣など習う必要はないと常から申し上げております。これで、主上から剣が遠のけば良いのですが。」
「さてな。あの跳ねっ返りが一筋縄じゃいかぬことくらい、お前が一番知っていよう?」
 延王の言葉に、景麒はさも嫌そうな顔をした。
「では――先程の主上へのお言葉、それを狙ってのものと思ってもよろしいのでしょうか。」
 真逆、というように、延王は肩を竦める。
「俺とて自分を押さえるのに精一杯でな。――甘さを見せると陽子に引きずられる。」
「―――それは、どういう・・・・?」
 景麒の眉が怪訝そうにひそめられる。先程感じた嫌な予感がゆるゆると背を這い上ってきた。
『ひょっとして・・・・いや、そんな馬鹿なこと・・・・』
 戸惑う景麒に延王がにやりと笑う。
 嫌な笑いだった。
「鈍いな。言葉の通りだ。――時々俺は、玄英宮の後宮に陽子をさらって行きたくなる。」
「・・・・は?」
 今、この王は何と言ったのだ。
 言葉は音声として耳に入ったが、理解するのを理性が拒んだ。もう一度、延王の言葉を頭の中で繰り返す。
 一瞬後、紫の瞳が驚愕の形で見開かれた。
「ま、さか・・・!」
「――まあ、そういうことだ。」
 青くなって口を開閉させる景麒に、延王は太く笑んでみせる。硬直して動けない景麒を後に残し、正堂へと踵を返す。無論、陽子を捜しに行く為に。
「え、延王君、お待ちを!」
 後ろから景麒の縋る声。延王は構わず歩を進めた。

 春分の日の、午後のことである。

                                       END