月明かりの下、一人散策する彼女を知ったのは。
 ただの偶然だった。
 それは、道具屋へ一人行った時。
 紳士好きで変わった男、ゴードン。
 奴のふと漏らした言葉だった。
「……本当に、あの方は美しい方ですね」
 ビュッデヒュッケ城にいる女性は数多いが、「美しい」上に「あの方」となれば一人しかいない。
 異論もないので、俺は適当に頷く。
 この男に言われなくとも、彼女が美しいのは充分分かっている。
 ゴードンは、もとより俺の反応など求めていないのだろう。どこか遠くを見る眼で続けた。
「本当に。月の光に溶けてしまわれるのではないかと、そう思ったほどです」
「……………」
 それからだ。
 俺が月の美しい夜に、静かな散策を楽しむようになったのは。
 いや、違うな。
 ただ一人の人の姿を探して、出歩くようになったのは、だ。
 そして彼女は、たいていこの湖畔が見渡せる丘に一人座っている。
 しかし、今日は来ていないようで。
 俺は少し息をついて、そこに腰を下ろした。
 湖から吹いてくる風は、少し冷たすぎるほどで。
 彼女はいつも、ここで何を思っているのだろうと、胸が痛む。
 月の光に照らされる彼女は息を呑むほどに美しいが、その姿は孤独で。月光も風も冷たく。
 彼女を冷やしているように感じる。
 俺はといえば、情けないことに。
 そんな彼女がいる時は、声をかけることもできないでいる。
 彼女一人は物騒だから、などと理由をつけては彼女が部屋に戻るまで彼女の姿を見つづけているだけ。
 一度は声をかけようとしたが、彼女はその時。
 その頬を涙で濡らしていて。
 彼女が誰にも見せたくないだろう姿を、自分が見たというわけにもいかないと……。
「……この、俺が……」
 情けない男ぶりに、俺は自嘲する。
 他の女なら、いくらでも慰められただろうし、気のきいた台詞も思い浮かんだだろう。
 ところが肝心の彼女相手には、そんなものは全部なくなってしまったのだ。
 これでは、ボルスを笑えんな……。
 俺は純情一直線な友を思って苦く笑い。
 だが、その時。
「パーシヴァル?」
 かけられた、声に。
 俺は驚いて振り返った。
 そこには、長い銀の髪を風に揺らしたまま、俺を見つめるクリス様の姿があった。
「クリス様……」
 こんなに近くまで気配を感じないとは、よほど自分の思いに没頭していたのか。
 自分の無用心さに呆れてしまう。
 クリス様は少し笑って、俺の隣に腰を下ろした。
「どうした? 眠れないのか?」
「クリス様こそ、眠れないのですか?」
 少し、彼女の表情が曇る。
 直球すぎたか、と後悔するも。
 言ってしまったことはしかたがない。
 だから俺は、彼女への問いを流した。
「わたしは、好きな女性のことを想って眠れないのです」
 そしていつものように冗談に紛れて、真実を伝える。
 クリス様は少し驚いたように俺を見つめ、そして目を伏せた。
「そ、そうか……。すまない」
「なぜ、謝られるのですか?」
「私がお前をビュッデヒュッケ城から離さないから、ブラス城の想い人に会えないのだろう……」
 俺は、彼女の言葉に少し笑って見せた。
「『私がお前を離さないから』とは、まるで熱い恋の告白ですね」
「――パーシヴァル!」
 顔を上気させて怒鳴る彼女は、とても可愛らしく。
 ああ。本当に、そうだったらどれだけ嬉しいことだろう。
 そう、俺は思わずにはいられない。
「それに、わたしの想い人はブラス城にはいませんよ」
「……では、ゼクセか?」
「いいえ」
「……イクセの村か……」
「いいえ」
 俺は、彼女の髪を一房手にとり。
 彼女を見つめた。
「――今、わたしの目の前に」
「……パーシ…」
 目を見開く彼女に。
 俺は笑う。
 いつものように、からかうなと赤面して怒るだろうと想った美しい団長は、だが静かに息をついただけだった。
「クリス様?」
「…………お前の冗談は、タチが悪すぎる」
 顔をそらされ。
 俺の手から彼女のすべらかな髪が流れ落ちる。
「お前は、いつもそうだ。誰にでも」
「クリス様にだけですよ」
「――やめて」
 そう言って、俺を見た、彼女の。
 苦しげな、しかし笑顔に。
 俺の胸は鋭く痛んだ。
 俺の態度が彼女を傷つけているなどと、思いもしなかったから。
 しかし、冗談に紛れて想いを告白することも許されなくなるのかと。
 その絶望も俺にはあり。
 普段なら、2度と言いませんとでも涼やかに返せるものを、言葉が出なかった。
「パーシヴァル! 私だって……ッ。……いや……」
 彼女は言いかけ、そして顔を伏せた。
「何でもない。――お前たちに、言うような言葉ではかった」
 感情を殺した声に。
 俺は彼女の腕を掴んでいた。
 冷たい夜、いつも、この場所に一人で膝をかかえていた彼女。
 誰にも、弱みを見せない彼女。
 一人でひたすら立とうとする彼女。
 俺には、それが耐えられなかった。
「言ってください」
「だめ、だ。私は、お前の上官で、騎士で、炎の英雄の意志を継いだ身」
「それでも、貴女は人間だ」
 常の彼女は女神のように強く美しく、そして英雄で。
 しかし。
「生身の、人間だ」
「…………」
 俺が掴む彼女の腕が震え。
 彼女は俺を見ないまま、言った。
「……パーシヴァル。私だって、女だ」
「分かっています」
 だからこそ、愛しているのだから。
 しかし彼女は小さく首をふる。
「分かってるなら……! 分かってるなら、私をからかうのはやめて。私を、惑わせないで。揺らさないで!」
 その、彼女の言葉に。
 俺は、一瞬言葉を失った。
 俺の胸が、歓喜と期待に震える。
「……惑っているの、ですか? わたしの言葉に。――揺れているのですか?」
「――パーシヴァル!」
 潤んだ瞳で俺を睨み上げた彼女は。
 俺の眼差しの強さに、動けなくなった。
「言ってください。わたしに、惹かれていると」
「パーシヴァル……やめて、酷い」
「いいえ、黙りません」
「パーシ……」
「わたしを愛しているのでしょう?」
「パーシヴァル!」
 涙を零す彼女を、俺はそれでも目をそらすことを彼女に許さなかった。
「俺は貴女を愛している」
「! ……嘘、よ」
「真実。貴女だけを」
「……信じない……」
「わたしの言葉は、それほど不実ですか?」
 俺は少し笑い。
 そして、想いの全てを込めて、彼女を見つめた。
 その瞳も、髪も、唇も。
 強さも、弱さも、不器用さも。
 彼女の全てが、愛しい。
「貴女を、愛している」
 貴女は?
 そう、俺は彼女に囁いた。
 彼女は。
 苦しげに、そして嬉しげに微笑んだ。
「…………好き」
 ああ!!
 光が、まるで温度を持ったように。
 月光に照らされる彼女の美しい微笑みが、ひどく暖かく見えた。
 俺は彼女を抱き寄せる。
 その柔らかさも、優しさも。夢見ていた以上に素晴らしく。
「クリス様……」
「……愛している」
 そう、俺の胸の中で小さく囁かれる彼女の声。
「クリス様ッ……クリス――クリス……!!」
 眩暈がするほどの、幸福感に。
 俺は彼女の名を呼びながら、強く抱きしめた。
 
 



END